第9話
最近の四つ葉は、笑うときにほんのわずか視線を逸らすようになった。
私を見ているようで、見ていない。
会話も、必要以上に短い。
「少し疲れてるのかな」と、誰が見てもそう思うだろうが――私は知っている。
これは、私から離れようとしている人間の仕草だ。
導と遊ぶ時間が増え、私の目の届かない場所へ行く機会が増えた。
私が何も知らないとでも思っているのだろうか。
町の人々の視線も同じだ。
「何かあれば、私に報告しなさい」
――その一言で、誰もが忠実な目となり、耳となる。
……昨日もそうだった。
蓮観が何気ない顔で告げる。
「奥様が、町外れの廃屋へ」
町外れの廃屋とは、以前町を出ていった家族の家だ。
私が整えた“教訓”の跡。
四つ葉はそこで何を見た?
何を感じた?
そして、何を決意した?
その夜、私は彼女の部屋を覗いた。
導は眠っている。
その枕元で、四つ葉は荷をまとめていた。
――やはり。
足音を立てず、彼女の背に声を落とす。
「こんな時間に、どちらへ?」
彼女の肩が震える。
振り返ったときの瞳は、迷子の子供のように怯えていた。
あぁ、この顔だ。
守りたい。壊したくない。
……それと同時に、離れようとするなら、鎖で繋ぎ止めねばならない。
「……君は、私のそばにいるのが一番幸せなんですよ」
その言葉は、命令ではなく事実だ。
私と共にあれば、何も失わない。
四つ葉はゆっくりと頷き、視線を逸らす。
だが私は見た――その瞳の奥に、まだ燻る逃走の火を。
消さねばならない。
だが、急ぎすぎてはいけない。
逃げたいと思う心を、少しずつ摩耗させ、最後には自分から「ここにいる」と言わせるのだ……
布団に戻った四つ葉の頬に、髪を撫でるふりをして指先を滑らせる。
体温も、呼吸も、脈も――全て……
失うことはない。失わせはしない。
四つ葉も、導も、この町も。
私は全てを掌に収めた。
ただ、一つ残った火種を、どうやって消すか――それだけが、今の私の課題だ。
次の日、私はハチを呼んだ。
「ハチ、少し話を聞いていただけますか?」
「別に良いけどよぉ……」
「四つ葉が、私から逃げようとしているようなんです」
「はぁ?なんで?」
「分かりません……私は彼女を誰よりも大切にし、誰よりも愛しているのに。どうして、そんなことを……」
私はゆっくりと両手で顔を覆った。
掌の奥では、口角が上がっている。
――これを聞くべき相手が、もう一人いる。
「茉ぁ……」
そのとき、背後で足音はしないのに、空気がわずかに揺れた。
私はそのまま、視線を落とし、気配が去るのを待った。
「茉ぁ、お前……わざと聞かせたなぁ?」
「なんのことでしょう」
「……なぁ、茉、どうしちまったんだよぉ?お前、そんなんじゃなかったろぉ?」
「私の行動理念は変わっていません。すべては、四つ葉のためです」
ハチは小さく舌打ちをして、「嬢ちゃんが可哀想だぁ」と呟き、羽音を残して飛び去った。
可哀想?……誰が? 何が?
……あぁ、そうか。
彼は、四つ葉が私の庇護から離れようとしていることを“可哀想”と呼んだのだろう。
ならば、なおさら逃がしてはいけない。
それよりも、さっきの気配は蓮観だ。
忠誠心と嫉妬心、両方を抱えたあの目は、使い方さえ誤らなければ、とても役に立つ。
――早く、四つ葉のところへ戻ろう。
離れる前に、もっと深く絡め取らなければ。
私は蓮観が去った方向に走った。
私の自宅前で、蓮観と四つ葉が対峙しているのが見えた。
「茉様は、町を、家族を、すべてを背負ってくださっているのですよ。あなたを心の底から愛しておられる。それを捨てるなど――恩知らずにも程があります!」
蓮観の声が硬く響く。
私は、柔らかな笑みを浮かべ、なるべくゆっくりと、穏やかな声で呼んだ。
「……蓮観」
蓮観は振り返り、慌てて頭を下げた。
「四つ葉が、離れたいと思っているのは……私の至らなさゆえです」
「そんな……! 茉様が至らないなど……」
「蓮観。君が私のために怒ってくれたことは嬉しい。だが――」
ほんの一拍、間を置く。蓮観の眉がわずかに動いた。
「彼女を責めるのはやめてください」
私は歩み寄り、四つ葉の前に立った。至近距離まで近づいてから、柔らかく微笑む。
「……君が何を思っても、私は君を責めません。すべては、私が至らないせいなのですから。……でも、覚えておいてください」
彼女の視線を逸らさぬよう、わずかに首を傾ける。
「私は君を愛しています。それは、何があっても変わりません」
蓮観を下がらせ、二人きりになると、君は小さく震えながら「ありがとう」と呟いた。
私はその音を耳に収め、笑みを深めた。
――この一言で、またひとつ逃げ道が塞がった。
その日から、私は四つ葉の行動をこれまで以上に“気にかける”ようにした。
「君のために」と前置きすれば、どんな干渉も優しさに変わる。
「今日は神社まで一緒に行きましょう」
「買い物ですか? 導も連れて行きますよ」
「夜は冷えます、毛布をもう一枚かけましょう」
気がつけば、彼女が一人で外に出る時間はほとんどなくなっていた。
町の人々も、そんな私を「家族思い」と讃えた。
――それで良い。そう見えていれば、誰も怪しまない。
けれど、四つ葉の瞳の奥が、少しずつ曇っていくのを私は知っていた。
「……何か、悩んでいるんですか?」
そう尋ねると、四つ葉はかすかに肩を震わせ、首を横に振った。
「そうですか。ならいいんです」
私は微笑み、彼女の手を包んだ。
――嘘をつくのは、あまり得意ではないらしい。
その夜。
四つ葉が眠ったあと、私はほんの小さく囁いた。
「……君が笑っていられるように、全部整えてあげます」
翌朝から、私は四つ葉の周囲にさりげなく人を置いた。
町の人、蓮観、時にはハチまでも。
「心配だから」と言えば、彼らは協力してくれる。
……四つ葉がどこに行こうと、誰と話そうと、私の耳には必ず届くように。
それでも、彼女の瞳には時折、遠くを見つめるような光が宿る。
そのたびに、胸の奥で静かな炎が燃え上がる。
――逃げられると思っているのか。
いいだろう。
その芽は、優しく、しかし確実に摘み取ってやる。
まるで、花瓶に花を生けるように……。
額縁に飾るように……。
さぞ美しいだろうな……。
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