第3話

 自我が芽生えてから、もう三十回くらい太陽が山の向こうから顔を出して、川の彼方へ沈んでいった。

 僕は今日も、君を見守っている。


 ここ数日の君は、ため息ばかりついている。

 その原因は――きっと、あの君の友達が言っていたことが関係しているのだろう。


「ねえ、四つ葉。その本返しに行くついでにさ、その栞のシロツメクサのこと、言いに行きなよ」

「……うん」

「不安なのも分かるけどさ? この本、一か月後に返すって言ってあるんでしょ?」

「……うん。分かってる……怒られるかなぁ……?」

「うーん、かもね?」

「う……。でも……うん、謝ってくる……」

「そうしなって! ついでに告白でもしちゃえば?」

「するわけないでしょっ?!」


 きゃっきゃとはしゃぐ声。

 楽しそうに見えるけど、君はどこか無理をしているようだった。


 あれから数日。

 君は今日も月明かりの下、本に目を落としたまま、静かにため息をついていた。

 その背中は小さくて、悲しそうで、寂しそうで……今にも、消えてしまいそうだった。


「……四つ葉。元気出して。かわいい顔で、笑って……?」


 届かないと分かっていても、言わずにはいられなかった。


「ねぇ、どうしたら、あのキラキラした君を見られるの? ねぇ、四つ葉……こっちを見てよ……」


 懇願するように、手を伸ばした、そのとき――


「――っ!」


 君が、こちらを振り向いた。

 瞬間、体中が熱くなった。胸がどくんと鳴って、息を呑んだ。


「……え? 今の、僕の声……聞こえたの?」


 けれど君は、何の反応も見せなかった。

 その瞳は、僕を見ているようで……見ていなかった。


 ――君が見ていたのは、僕の後ろ。鏡だ。


「……平凡な顔……」


 君は、ぽつりと呟いた。


 意味がわからなかった。

 君は美しいし、かわいいし、キラキラしてるし……えっと……とにかく、僕には君を形容する言葉が足りないくらいなのに。

 僕にとって、ただ存在しているだけで十分なのに。

 そんな君が、どうしてそんな絶望したような顔をするんだろう。


 やがて、君は静かな寝息を立てはじめた。

 僕はそっと隣に座り、触れられないその髪に、手を添えるふりをした。


 君の良いところを語るには、僕の言葉はあまりに足りない。

 元気づけようと寄り添っても、君に触れない。

 どうすればいいのか、わからなかった。


 翌日。

 君は家の縁側で、ぼぉっとしていた。

 痛々しくて見ていられなかったし、このもどかしい気持ちをどうしても話したくなって、あの烏の友人を探した。

 君の家の近くにいる烏の中で、一際大きな体をしているのが彼だ。だからすぐに見つかった……けれど。


「あ、えっと……ねぇ! 烏の……!」


 毎回、彼を呼ぶときに困る。

「ねぇ」とか、「君」とか、「烏の」とか……なんだかしっくりこない。


「あぁ、栞の。どうしたんだぁ?」

「ねぇ、君って名前ないの?」

「今さらかよぉ!」


 彼はクックックと楽しそうに鳴いた。

 一呼吸置いて、足で地面に文字を書きはじめた。


「……読めない」

「こっちが“ハチ”。で、こっちは……なんだっけなぁ。とにかく、これが俺の名前だぁ」

「じゃあ、これから“ハチ”って呼ぶね」

「まあ、いいぜぇ。――で、本当は何の用だったんだ? 名前知りたかっただけじゃねぇんだろぉ?」


 ハチの言葉に促され、僕は昨晩のことを話した。


「僕、あの子が泣いてても涙を拭いてあげられないし、落ち込んでても声をかけられない……どうすればいいのか、わからないんだ」

「……うーん」


 ハチは珍しく真面目な顔をして、少し黙り込んだ。


「……ハチ?」

「……どうしたらいいか“わからん”んじゃなくて、“こうしたい”ってのがちゃんと決まったら、良いこと教えてやるよぉ」

「……良いこと?」

「ああ。まずは、自分がほんとに“したいこと”を考えてみろよぉ」


 そう言い残して、ハチは羽を広げ、空へ飛び去っていった。


 その飛んでいった先をなんとなく目で追うと――

 君と…見知らぬ男の姿があった。


 胸の奥がきゅっと締めつけられるような感覚。

 直後、それはぞわぞわと皮膚を這い回るような不快感に変わった。

 不安とも、恐怖とも違う、けれど確かに“嫌な感じ”。

 それはじわじわと首元にまでせり上がってきた。


 気持ち悪い…

 気持ち悪い、気持ち悪い、きもちわるい、キモチワルイ……!!!


 四つ葉……! 戻ってきて……! 四つ葉……!


 思わず叫んだ、けれど声にはならなかった。

 それでも――君は、まるでその声に応えたかのように、くるりとこちらを振り返った。

 そして、ふらふらと頼りなく、こちらへ歩いてくる。


 安心したのも束の間だった。

 君の顔を見た瞬間、全身がさぁっと冷たくなり、次の瞬間には、かぁっと熱を帯びた。


 ぶつけようのない感情が、体の奥から突き上げてくる。

 けれどそれを抑え込んで、君の小さな声に、ただ必死に耳を澄ませた。


「……私は、汚れてるんだ……」


 か細く、壊れそうな声だった。

 そのあとは、何度も何度も、同じ言葉を繰り返していた。


「……どうして……」

「……神様……」

「……そんなつもりじゃ……」


 君を、ただ元気づけたかった。だけど、どうしても伝わらない。


 君に、ただ寄り添いたかった。だけど、どうしても届かない。


 僕の手は、何度も君をすり抜けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る