茉莉花
代筆者
第1話
窓からは、木漏れ日が差し込んでいた。
君が暑がる様子も、寒がる様子もなかったから、きっとあの日は、ほんのりと暖かい日だったのだろう。
僕が生まれたのは、そんな日だった。
突然、自我が芽生えた。
気がついたとき、目の前には君の笑顔があった。キラキラしていた。
体の中心をぎゅっと掴まれるような、ぞくぞくするような、ふわふわと浮かぶような――
なんとも言えない感覚が押し寄せてきて、ただただ、戸惑った。
生まれて間もなく、自分の意思で周囲を見渡せるようになった。
することもなかったから、自然と君を観察していた。
……いや、違う。
最初から、君に惹かれていたんだ。
だから、目が離せなかったんだ――。
「ねぇ、四つ葉、その栞、素敵ね」
ある日、君の家に遊びに来た友人が、僕の依代を指さして言った。
どうやら、僕は“素敵”らしい。
「そうでしょ?! 自分で作ったの! あの人との思い出が詰まってるのよ!」
「あの人って、蓮観さん? なにそれ初耳。教えてよ」
「ちょっと前にね、蓮観さまに本を借りた帰りに『シロツメクサの葉が四つ葉になっていて、四つ葉さんを思い出しましたよ』って、言われて――」
君の口からよく出てくる『蓮観さま』。どうやら人の名前らしい。
君がいつもニコニコと可愛い顔で言うもんだから、きっと『蓮観さま』は良いものなんだろう。
君が幸せそうにしているのを見るだけで嬉しくなる。
「――はぁ?! それ、境内に生えてたシロツメクサなの?!」
「本殿の裏の崖のちょっと前の森にシロツメクサの群生地があってね? そこで探したらあったの」
「祟られてもしらないよ? 蓮観さん、知ってるの?」
「…知らない」
「はぁ…。今度ちゃんと言いに行きなね?」
「はぁい…」
しゅんとした顔も可愛い。
良く分からないけど、僕が全ての悪いものから守るから安心して。
――そう伝えられたらいいのに…。
「ところで、素敵といえば、この本の挿絵、素敵よね」
「やっぱりそう思う? 私もこの本の挿絵、大好きなの! 話としてはやっぱり主人公が好きだけど、見た目だけで言えば、このページの、この悪役の彼がすごく好みで……!!」
「私もー!!」
クスクスと笑う彼女たちはそれから、主人公はこう動けば良かっただの、終わり方が良かっただの、はたまた、外国の本で神話と呼ばれるものが面白かっただのと盛り上がっていた。
いつもなら、君の笑い声を聞くために、ただ静かに耳を傾けていたはずなのに――
この日は違った。僕はその本が気になって気になって仕方がなかった。
本が閉じられた瞬間、ようやく我に返ったほどだ。
気がつけば、空はもう茜色に染まり始めている。
友人も、いつの間にか帰っていた。
初めて、君のことを意識の外に追いやってしまった。
その理由は、おそらく――君が『蓮観さま』と同じくらい笑顔を見せていた、この本の『挿絵』だ。
『挿絵』は覚えた。
もし僕が、あの見た目になれたなら、君は、僕に笑いかけてくれるだろうか?
僕は、ただ漂う“意思”のようなもので、形すら持っていなかった。
実は、僕のような存在はそこら中にいる。
多くは依代を模した姿をしていたけれど、中には僕のように形のないものや、猫などの動物に似たもの、近所の子どもと瓜二つのものまで、さまざまだった。
自我を持った動物を見かけたことがあるが、彼らは実体を持っている。
だから別の形にはなれないのだろうか?
もし実体のあるものが人間の姿を模したら、そのまま人間になれるのだろうか?
……いや、その場合、依代はどうなる?
――まてまて、話が逸れてきている。
人間の子どもを模すことができるのなら、きっとこの『挿絵』にも似せることができるはずだ。
そう考え、鏡の前に移動した。
この鏡もまた、自我を持っていた。
「僕を映してほしい」と頼んでみたら、驚くほどあっさりと引き受けてくれた。
意思の疎通ができるとは思っていなかったので、少し驚いた。
これからは、彼らとも話してみようかと思う。
――思い出せ、しっかり。
長身痩躯。少しウェーブのかかった艶やかな漆黒の髪は丁寧に撫でつけられ、眉は端正に整っている。
切れ長の瞳は、人を見透かすような鋭さと深みを湛え、
肌は白磁のように滑らかだ。整った鼻梁に、薄い唇。
わずかに吊り上がった口角が、どこか底知れぬ危うさを漂わせる。
身にまとうのは、深い藍色の平民用の着物。
質素だが清潔感があり、帯の結び方や所作には、どこか育ちの良さや知性がにじんでいる。
――ふむ。我ながら、なかなか良い感じなのではないだろうか?
ただひとつだけ、違いがあった。
『挿絵の彼』の瞳は茶色だったが、僕の瞳の色だけは変えることができなかった。
理由はわからない。
けれど、それも全体から見ればほんの一部―― 一割にも満たない。
それに、この緑がかった灰色の瞳も、悪くない。と、思う。
そう自分を納得させながら、満足げに全身を見回した。
ふと、鏡の中に映る窓に目をやる。
紺色の夜空に、キラキラと白い粒が散っている。
窓から差し込む柔らかな明かりが君の寝顔にかかっていて、少し眩しそうに見えた。
それを遮ることもできない自分が、悲しかった。
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