第10節 反射と間—封じの手順
閉店アナウンスが消え、モールは夜の形に折りたたまれた。
シャッターの継ぎ目を風が舐め、巨大ビジョンの裏側だけがまだ息をしている。送風ファンの低い唸りと、機材ラックのランプが点の星座を作っていた。金属の匂いに、昼間の熱がわずかに残る。
バックヤードの扉をカードキーで開けると、熱気がまとまって顔にあたった。
ラックの裏配線は束ね直され、ところどころに“臨時”の黄色テープ。臨時は長居を決めると粘つく。そのべたつきが、空気の重さを増やしていた。
「まあ、いつも通りの散らかり方だな」
燈子は機材の影に身を滑らせ、束ね直しの甘いタイラップを一本ずつ弾いた。指が熱を拾い、モノクルの縁が白く曇る。
曇りはすぐに薄れ、また戻る。ビジョンの明滅と呼吸が合っていた。
「明滅の周期、さっきのテストと同じ。音は切ってあるけど、光が拍を持ってる」
真理はノートPCを開き、外付けの小さなオーディオインターフェースと信号発生器を繋いだ。
膝の上でケーブルが蛇のように落ち着かず揺れる。タイピングの音は静かで、一定だ。
「逆位相の音源、準備。画像は反転と回転を用意してある。歯数は十二を基準、七まで落とせる」
「七はお守りだ。そこまで行かせない」
「行かせないために、間を作る。休符の刃、ね」
「うまいこと言うな。うまいこと言ってる間に、補強が溶けるぞ」
燈子は床面のタイルを一枚ずつ指で叩き、反射角を確かめた。
鏡板を二枚、立てかける。角度はごくわずか。
目に見えない程度のズレが、図の歯車を外す。そのはずだ。
「位置、あと五ミリ右」
真理が画面を見ながら言う。
「四ミリでどうだ」
「三ミリ足りない。……ごめん、私の言い方が悪い。八ミリ右」
「倍以上じゃないか」
「最初の基準がずれてた。ビジョンの筐体が微妙に歪んでる。昼の熱のせい」
「つまり、仕事が雑だ」
「昼間は見栄えが最優先になるから」
「見栄えは毒だって、さっき言わなかったか」
「言った。今日も言う」
鏡板の足元に薄いクッションを噛ませ、微角度の修正を続ける。
鏡の表面は冷たい。触ると皮膚の温度が吸われる。その冷たさが、熱に浮いた思考を冷やす。
「プログラムはどうだ」
「今やってる。逆位相だけだと“音の歌”に勝てないから、“光の歌”の間を切る」
「間を切る?」
「光の点滅に休符を挟む。休符の頭に、短くて鋭い拍を置く。脳はそこで踏み外す。踏み外せば、輪から落ちる」
「脳を転ばせる、と」
「一瞬だけ。痛くない転び方を選ぶ」
「痛い転び方しか知らないやつもいる」
「君のこと?」
「褒め言葉として受け取っておく」
真理は笑い、すぐ真顔に戻ってタイピングを続けた。
画面の波形が左右反転され、回転し、歯数の値が入れ替わっていく。
“十二”“十一”“十”——数字は口に出さない。指先だけが数える。
休符の長さは、人の瞬きの平均に合わせた。余裕を持たせると、輪のほうが学習してしまう。
「ニュース車のログ、同期させた。切る前と切った後、時間がずれないようにこっちでも時刻を合わせる」
「ニュース車はこっちの味方か」
「味方じゃない。ただ、記録は残す」
「残すやつは好きだ。嘘をつく時に、嘘が浮く」
「浮いた嘘は取りやすい」
燈子はラックの裏から体を抜き、モノクルの位置をわずかに直した。
縁がまた曇る。曇りは、ここが“歌っている”兆しだ。
曇りが濃くなるほど、片目の奥で古い紋様が熱を持つ。
だが、今はまだ浅い。間に合う。間に合わせる。
「飲むか」
燈子はペットボトルの水を少し持ち上げた。
「少し。ありがとう」
真理はキャップに口をつけ、喉の奥をしめらせた。
舌に残るわずかなカルキの味。今日の水は硬い。
「ポケットの飴、またいるか」
「後で。終わったら、もらう」
「終わる前に食べても、怒らない」
「終わる前に甘さを知ると、戻ってこられなくなる」
「医者らしいこと言うな」
「君が怪我を持ち帰らないなら、いくらでも言う」
「持ち帰るのはお土産だけだ」
「理想として、そうだね」
真理は手元の小型スピーカーを二つ、ビジョンの枠にテープで仮止めした。
左右の位相は逆。音量は下げきって、聞こえないに近い。
だが、聞こえない音は脳に触れることがある。
だから、音源に間の刃を仕込む。
「テスト、一回」
「合図をくれ」
「まだ。鏡の角度、あと少し」
「お前、今の角度で十分だろ」
「十分に見えて、十分じゃない。ここで一ミリ外すと、あっちで百人倒れる」
「百人は大げさだ」
「十人でも同じ。十人の家族が増える」
「分かったよ。……あと一ミリ」
燈子は鏡板を指先でつまみ、息を止めてごくわずかに回した。
鏡面の中の世界が音もなく揺れ、ビジョンの縁に咬み合っていた“歯”が、ほんのわずかにずれる。
ずれた瞬間、モノクルの曇りがふっと晴れた。
「今だ」
真理が短く言う。
プログラムの再生ボタンが押され、波形が流れ始める。
画面の中で、反転画像がゆっくり回り、休符のところで刃のように細い拍が立つ。
立った拍が、光の輪の中に空白を開ける。
空白は小さいが、底が深い。落ちれば抜けられる。
「面倒だな」
燈子は鏡をわずかに回し、角を押さえたまま言った。
「いつも通りだ」
真理は拍を刻む。
指先は机の縁で“とん、……とん、……とん”。
間を長くしすぎない。短くしすぎない。
人の歩幅に合わせて、少しだけずらす。
「合図で戻す。三」
「二」
同時に、
「一」
真理が休符の刃を落とし、燈子が鏡をほんのわずか戻した。
音はほとんど聞こえないはずなのに、空気が一度だけ薄く凹む。
ビジョンの明滅が、ひと拍ぶん遅れて、日常の周波に戻った。
機材の微かな唸りが落ち着き、モノクルの曇りがすうっと消える。
「戻った」
真理がモニタの波形を見ながら言う。
明滅は均一。休符は消え、刃はもう必要ない。
「切れ味は、まあまあ」
「鏡、ありがとう。君の一ミリがなかったら、私の休符じゃ足りなかった」
「休符はお前の専門だろ」
「君の沈黙も、休符に入る」
「買いかぶるな」
「買いかぶるくらいには、今日助かった」
ふたりは同時に息を吐いた。
吐いた息が熱に溶け、機材ラックの上でやさしく散る。
散りながら、今度は戻ってこない。
「ニュース車のログ、切断前後がはっきり残る。押さえておく」
「押さえておけ」
「うん。手は足りてる」
「足りてない顔だ」
「じゃあ、足りてない。……でも回る」
「回してるうちは、倒れない」
「倒れないうちは、笑える」
「笑えるうちは、帰りに酒が飲める」
「砂糖五つのコーヒーは」
「別枠だ」
「分かった」
真理はケーブルを外し、仮止めのスピーカーを丁寧に剥がした。
テープの糊が残らない角度で。
こういう細部を雑にすると、翌日に敵を増やす。
敵は少なくていい。敵は歌のほうだけで十分だ。
「—2の頁は、相変わらず見つからない」
「見つからないほうが、向きの指示が消える」
「だから、誰かが消した。開けっぱなしが好きな誰か」
「好き者はいつでもいる」
「放っておくと、また別の祝祭が始まる」
「祝祭は嫌いじゃない。倒れなければ、な」
「倒れない祝祭を作るのが、今日の仕事」
「明日の仕事でもある」
「明後日も」
「きりがないな」
「人が歩く限り、きりはない」
「なら、靴は丈夫なやつを選べ」
「君の靴、もう少し柔らかいインソールに替えたほうがいい」
「医者」
「友達」
「……腐れ縁だ」
「そうだね」
短いやり取りの後、ふたりは無言で片付けに入った。
鏡板を養生材で包み、床のタイルを元に戻す。
ラックの裏配線は“臨時”のテープを剥がし、正規の束へ入れ替えた。
臨時の習性をここで断っておく。長居する前に。
最後に、真理がラップトップの電源を落とした。
画面が黒に変わり、反射した自分の顔がうっすらと浮かぶ。
目の下に疲れの影。それでも、目は澄んでいた。
「終わり」
「終わった」
燈子はモノクルを軽く外し、レンズをシャツの裾で磨いた。
片目の奥に、さっきの熱はもうない。
古い紋様は影に戻り、静かに息を潜めている。
「飴、くれ」
「ほら」
燈子は内ポケットから、朝と同じ金色の包みを取り出した。
今日は二つ。真理が一つ受け取り、もう一つを燈子の掌に押し戻す。
「君も。今日は、二人で二つ」
「割り勘みたいで嫌いじゃない」
「割り勘は平和だよ」
「平和は退屈だ」
「退屈な夜に、よく眠れる」
「……それは悪くない」
ふたりはそれぞれ飴を口に放り、静かに噛まずに転がした。
柚子の香りが、機材の金属臭の上に薄く重なり、匂いの地図を書き換える。
甘さは控えめで、喉がやわらぐ。
「片付けのチェックリスト、送っとく」
「送るな。どうせ見る」
「見るの、好きじゃない?」
「好きだ。だが、好きって言うと、また送られる」
「送る」
「ほらな」
「念のため」
「そういう“念のため”は嫌いじゃない」
ラックのパイロットランプは地味な点滅に戻り、ビジョンの表も通常の待機画面に落ち着いた。
“光の祝祭”は眠り、舞台は夜の形を取り戻す。
誰も見ていないところで、拍は一度だけ裏返り、もう一度、正しく置き直された。
モールの館内放送が、点検巡回の開始を告げた。
足早の警備員が二人、遠くの通路を横切る。足音は粗いが、疲れている音ではない。
ここでの仕事は、残りの段取りを確かめるだけだ。
「ログの時刻、揃った」
真理が画面を示す。
ニュース車からの映像ログはクラウドに上がり、そのミラーを局の保全サーバに引いた。
切断の数十秒前、数十秒後。目で見える違いと、数値で分かる違いの両方が残る。
「内務監査のほうは、何か言ってきたか」
「『説明の統一に協力を』。文面のまま」
「統一のほうが、向こうの仕事は楽だ」
「私たちの仕事は、楽にならない」
「楽になると、退屈になる」
「退屈で人が倒れないなら、歓迎する」
「たしかにな」
燈子は鏡板をケースに収め、養生テープで口を封じた。
角を守るように、布で包む。
鏡は敵にも味方にもなる。扱いを間違えると、味方の顔を切る。
「反射面、現場で必要になることが増えた」
「紙の図と光の拍が、似た顔をしてきたから」
「顔が似てるやつほど、仲が悪い」
「仲裁役は、あまり人気がない」
「腹は立つが、向いてる」
「ありがとう。君は突入役が似合う」
「褒め言葉として受け取る」
「褒めてる」
ふたりはバックヤードを出て、ビジョンの裏の補助灯をひとつずつ落としていく。
灯りが一つ消えるたび、熱が小さくしぼむ。
夜は熱を嫌う。熱が抜ければ、夜は夜として戻ってくる。
「ところで、その——」
真理が少し言葉を探した。
「なんだ」
「さっき、鏡を回す前。君、片目が少し赤かった」
「大したことじゃない」
「痛い?」
「痛くはない。痒くもない。熱が近いと、ちょっと走るだけだ」
「走る?」
「電気みたいなやつが」
「今は」
「静かだ」
「ならいい」
「いいわけでもないが、今はいい」
「今がいいなら、いい」
「医者の論法だな」
「友達の論法」
「厄介だ」
「便利だよ」
「便利、か」
「うん。手に入るなら、便利は使う」
「いつか払うけどな」
「払うときは一緒に払う」
「割り勘だ」
「今日の飴と同じ」
「飴の割り勘は、聞いたことがない」
「今日が初めて」
「記念日だな」
「甘い記念日」
「気持ち悪いな」
「君が言わせた」
「認めない」
「記録した」
「削除しろ」
「バックアップ済み」
「敵だな」
「味方だよ」
くだらないやり取りが、機材の無機質さをほどいていく。
ほどけたところへ、現実の段取りを差し込む。
「明日の朝、病院に寄る」
真理が言う。
「覚醒の経過の確認か」
「うん。夜間の眠りの質も見ておきたい。今日の休符は、夢を荒らしたかもしれない」
「荒れていた夢を、別の形で整えた。どっちが良いかは、人による」
「だから、見る」
「見ろ。お前が見てれば、俺は眠れる」
「私は眠らせない」
「薄情だな」
「君は寝ないと、ジョークの質が落ちる」
「落ちる前提か」
「君のジョークは、高い時と低い時の差が激しい」
「平均で見ろ」
「平均で見ても、激しい」
「それはそれで誇らしい」
「誇るな」
ラックの主電源を切る前に、ふたりは最後の確認を行った。
ケーブルの抜け、仮止めの取り忘れ、工具の置き去り。
現場の失敗は、小さなものが積み重なって大きくなる。
積み重なる前に、平らに戻す。
「よし」
真理がうなずく。
「よし」
燈子も同じ言葉で返した。
単語は短いが、重さは十分だ。
ふたりの“よし”が重なると、拍がひとつ前に進む。
通路に出ると、夜の冷気が一段強くなっていた。
モールの床は昼の熱を吐き出し、ガラスは外気を引き寄せる。
遠くの出口の自動ドアが開き、清掃スタッフが機材を押して入ってくる。
彼らの足取りは、仕事のリズムでできている。
倒れるリズムではない。
「腹、減った」
燈子が言う。
「同感。店は、もうほとんど閉まってる」
「コンビニ」
「コンビニ」
「おでん」
「まだ季節が早い」
「冷たい豆腐」
「それはそれで」
「酒は」
「今日は薄く」
「薄い酒は、味がしない」
「味わうためじゃない。喉を通して、眠るため」
「眠るための酒か」
「たまには」
「たまには、な」
出口に向かいながら、ふたりは足音を揃えた。
揃えた拍は、今日の間の刃の余韻を連れている。
ただ、その刃はもう鞘に戻されている。
戻された刃は、次の必要まで静かに眠る。
「明日の午前、内務監査からまた来るよ。説明の統一」
「文面、先に回せ」
「回す」
「お前が直せ」
「直す」
「俺は寝る」
「寝て」
「お前は」
「病院に寄ってから、少し寝る」
「少しじゃ足りない」
「少しでも寝る」
「分かった」
自動ドアが開くと、夜の街が広がった。
看板の明かりは控えめで、車の音は少ない。
ビジョンの巨大な画面は待機の黒に戻り、昼間の“光の祝祭”は跡だけを残している。
跡は、次の朝には消える。
消えていい跡だ。
「おい、コーヒー」
「はいはい。砂糖五つ」
「六つ」
「だめ」
「交渉は失敗か」
「成功。最初から五つのつもり」
「悪いやつだ」
「君よりは善人」
「そいつはどうだか」
笑いながら、ふたりはモールの敷地を出た。
外気が頬を冷やし、胸の奥で呼吸が切り替わる。
切り替わる拍が、今日の切断と重なる。
重なるが、違う。
こっちは、人間の拍だ。
人間の拍は、休符も含めて自分で決める。
柚子の飴の甘さが、まだ舌に残っていた。
甘さは、今日の終わりの合図になった。
合図は、“三”“二”——そして、同時に“一”。
仕事を切り、夜に戻るための合図だ。
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