第3節 モールの朝—光が拍を運ぶ



 モールの駐車場は、開店前の薄い光で満たされていた。

 シャッターは半分だけ上がり、内側の空気が外へ漏れてくる。新しい建材の匂いと、ワックスの甘さ。自動ドアのむこう、吹き抜けの天井まで白い梁が伸び、巨大なLEDビジョンが黒い板のまま静止している。


 中に入ると、BGMが小さく流れていた。

 フロアの試験用プレイリストらしい。穏やかなピアノ。単純で、害のない和音。人の耳をつかまないように作られた、背景だけの音。


 神崎燈子は、モノクルの縁に軽く触れた。

 レンズは曇らない。昨夜のように鋭く反応しないのは、音が無害だからだろう。問題は耳ではなく、目の方に回っている。


「音で誘えなくなったら、光で釣る。やり口は変えずに道具だけ変えた」


 彼女は吹き抜けの中央で立ち止まり、天井を見上げた。


「道具が変わると、気づきが遅れる。だから、こうして朝に来た」


 小野寺真理は、スマホの時計を見てリハーサルの開始時刻を確かめる。

 スタッフがあちこちで立ち働き、養生テープを剥がし、立て看板の角度を直している。

 エスカレーターがゆっくり動き始め、段差が一定の音を刻んだ。金属の爪が噛み合う、わずかに乾いた音。カン、カン、カン——歩幅と合えば心地いいが、合わなければ妙に気に障るリズム。


 巨大ビジョンが目を覚ますみたいに明るくなり、試験パターンが走った。

 白→黒→グレー、色相のスライド、ドットの格子。目で追えるくらいの速さで、3-3-2の明滅が繰り返される。

 無音なのに、光が拍を運ぶ。三、三、二。子守歌の一小節にだけ、どこか似ている。


「始まった」


 真理は視線だけで合図を送る。


 燈子はフロア中央のラインから半歩だけ外れ、反射する床面でビジョンの光を受けた。

 レンズは、薄く、ほんの薄く曇って——すぐ澄む。耳の奥で小さな筋肉がピクリと動いた。

 ビジョンの下には、黒いクリップボードを抱えた技術スタッフが立っている。テストパターンの一覧表をパラパラとめくり、番号ごとに切り替えを指示していた。TEST-11:3-3-2パルス/TEST-12:ランダムノイズ——紙の行間に、今日使う拍数が無邪気に並ぶ。


 真理はスタッフの流れを邪魔しない位置で、一覧表の写真を一枚だけ撮った。

 情報は後で精査できる。今は目で拾うことが先だ。


 吹き抜けの上階から、子どもの笑い声が降ってきた。

 視線を向けると、フードコート脇の床にチョークの丸が描かれている。親が形だけの注意をするが、本気では止めない。新装の明るさに、皆が少し浮かれている。


 燈子はエスカレーターの段差音に耳を預けながら、上へ上がった。

 上から見下ろすと、フードコートのイスの並びが歯車のように円を刻んでいる。白い座面が規則的に配置され、十二の等間隔ができていた。

 歯が十二。あの図と同じ“数”。


「見せ方がうまいな。偶然でここまで揃わない」


 燈子は小さく笑った。


「座面の配置は動線を綺麗に見せるため。だけど“綺麗”は“揃う”に寄りがちだ」


 真理は穏やかな声で応じ、子どもの落書きにしゃがみ込む。

 “口のある円”——丸の内側に、半月型の口みたいな欠け。子どもの手で描いたにしては、口の角度が正確だ。

 親が笑いながら言う。「宣伝のスマイルでしょ。ほら、あそこにもニコちゃん」


 親が指さす先、天井から吊るされたモールのポスターには、“光の祝祭”のコピー。

 白い笑顔のロゴがいくつも浮かび、口の曲線がどれも同じ角度で切られている。

 偶然に見えるように整えられた、偶然ではない角度。


「音を切ったら、光で歌い始めたわけだ」


 燈子は薄く笑う。


「同期演出は美しい。だからこそ“鍵”に流用されやすい」


 真理は落書きの線に指を沿わせる。チョークが粉を落とし、指先が白くなる。


「大人より速いな。子どもは“見る”」


「大人は“見ないふり”が上手い」


 ふたりはほぼ同時に、ビジョンへ視線を戻した。

 3-3-2の明滅が、別のテストに移る。今度は長短長の組み合わせ。民謡の音階の一音——昨夜拾った“クセ”のちょうど一箇所だけが合う。


 モノクルは曇らない。けれど、縁が冷える。

 光の拍が、体の中のどこか浅い層を叩いている。


「BGMは無害」


 真理が確かめるように言う。


「無害な音で“安心”を作って、光で鍵穴を撫でる」


「撫でるだけで開く鍵は、よくできた鍵じゃない」


「よくできてない封印は、だいたい誰かが壊してる」


「壊すと売れる」


「売れた結果、倒れる」


「起こすのは、あたしたち」


 短い往復のあと、真理はテストパターンの一覧をもう一度目で追った。

 TEST-11の横に、小さく**“祭礼版”の手書き。TEST-12の欄には、“スマイル同期”**。

 演出の現場は洒落ているつもりだろう。だが、その冗談は冗談で済まない。


 上階の柵に寄り、燈子はフードコートのイスを数えた。

 一、二、三……十二。

 子どもの円も、十二の歯。

 ビジョンの光が床に移り、口の角度を一瞬だけなぞる。

 口が合図を出すみたいに、エスカレーターの段差音がわずかに強く聞こえた。


「一音だけ合う。そこから感染する」


「全部合わなくても、入口さえ作れば十分」


「入口が多すぎる」


「だから拾う順番を決めよう」


 真理は立ち上がり、手を軽く払ってチョークの粉を落とした。

 ビジョンの下で、スタッフがテストの順番を変える。3-3-2がしつこく戻り、長短長が挟まる。三、三、二。

 光は歌わないふりをして、歌っている。


 燈子は片手でポケットの中の名刺入れを弄び、目を細めた。

 **“光の祝祭”**のポスターの下、細字でスケジュールが書かれている。十時開始。来賓挨拶、演出紹介、シルクスクリーンの幕が落ちて、ビジョンが本番の映像へ切り替わる。


「十時までに癖を洗い切る」


「八時の公開リハで、観客の導線も見る」


「崩す準備をしておく」


「外す準備、だよ」


「同じだ」


「違う。外せば戻せる」


「戻さないで終わる方が楽だ」


「君は楽を選ばない」


「知ってるなら、言うな」


 真理は視線を斜めに落とし、床の反射とビジョンのタイミングを合わせて見た。

 反射の縁がほんのわずかにずれる。“間”が、かすかに入る。

 この建物の照明制御の癖か、それとも誰かが意図的に休符を置いたか。


「崩すより、先に“間”を挟める」


「目立たないやり方だ」


「目立つと止められる」


「止める側は、目立つのが仕事だろ」


「止めたいのは、倒れる方」


「倒れたら起こす」


「起こす前に、倒さない」


 ふたりの立つ位置から、フードコートのイスの歯車はきれいに見えた。歯数=十二。

 誰かが計算して置いた椅子は、今日のための飾りに過ぎない。

 けれど、その“飾り”が、鍵穴の縁を進んでいる。


「あとで下で測る。角度、距離、視線の流れ」


「私はチラシをもらって広報の言い分を聞く。**“光の祝祭”**の意図を言葉で聞く」


「言葉は上品に嘘をつく」


「嘘の形には、作った人の癖が残る」


「癖は美徳みたいに扱われる」


「扱われるうちに、手が滑る」


「滑った手を掴むのは、お前の役目だ」


「掴む前に、手を止める」


 真理は腕時計を見た。

 リハーサルまで、あと十五分。

 ビジョンの光は、依然として一音だけ正解を鳴らし続けている。音はない。けれど、拍はある。


 燈子はモノクルを外さず、柵から身を離した。

 階段で下へ降りる。足裏に伝わる段差の拍が、さっきより少し速い。

 フロアに出ると、技術スタッフがテストパターン一覧の紙を持って移動している。角に社名のロゴと今日の日付。

 紙の片隅に、小さな押し印。“版下—12”。

 目に入った数字は、さっき数えた歯の数と重なる。


 真理はその紙を借り、TEST-11/12の欄に指を置いた。


「ここが誘い水。切り替えの“間”に、視線が泳ぐ」


「泳がせないよう、こっちで波を作る」


「波?」


「人の流れ。見せたい方向とは逆に、目を引く」


「具体的に?」


「イスを一脚、ずらす。歯車が十一になる」


「スタッフがすぐ戻すよ」


「戻す前に効果は出る」


 真理が短く笑い、紙を返す。

 スタッフは意味が分からないまま受け取り、次のテストを指示に従って流す。


 BGMは依然、穏やかなまま。

 光は、拍を運び続ける。

 三、三、二。

 その二の最後の休みが、さっきより少しだけ長い。


 真理は目を細め、無意識に呼吸を合わせた。

 長い休みは、身体に余白を作る。

 余白があれば、侵入は遅れる。


③ モールの朝—光が拍を運ぶ(後半)


 フロアの端で、清掃スタッフがカートを押していた。

 重たいゴミ袋をひとつ下ろし、フードコートの円の外側に置く。偶然だが、それで椅子の一角が隠れる。

 歯数は、十一になった。


 燈子はその瞬間を逃さず、床の反射を踏む位置を半歩ずらした。

 ビジョンの口の角度と、椅子の欠け、反射のひずみ。三つのズレが重なると、一音だけ合っていた拍が、ふっと行き場を失う。


 モノクルの縁の冷えが緩んだ。


「一箇所、外れた」


「この程度でも効く。君の嫌いな“地味な手”」


「嫌いじゃない。目立たないだけだ」


「目立たない方が、長く効く」


「長く効くと、戻しにくい」


「戻さないでいい状態に、最初から寄せる」


「説教はあとで」


 真理は広報デスクへ向かった。

 配布用のフライヤーには、**“光の祝祭”**のキャッチと、今日の流れが柔らかい書体で並ぶ。

 担当者に声をかけると、眠気の残る笑顔で応じた。


「演出の意図を教えてください。光、音、照明の同期をどう見せたい?」


「えっと、街の一体感と、みんなの笑顔を……」


「スマイルの角度、どなたが決めました?」


「あ、デザイン会社です。細かいところは、お任せで」


 真理はうなずき、テストパターン一覧の写真を見せた。


「TEST-11と12の切り替え、どの場面で入ります?」


「司会のカウントのときと、幕が落ちる瞬間に」


「ありがとうございます」


 真理は深追いしない。担当者は、“知らない”の範囲で正直だ。

 彼女はフードコートへ戻り、子どもの落書きの口の角度をもう一度確かめた。

 口の“切れ目”は、ちょうどビジョンのロゴの口と同じ向き。子どもが真似たのか、光に真似させたのか。

 親の無邪気さを責める気はない。無邪気は、こういう時に盾になるだけだ。


「広報は素直。切り替えのポイントは司会の“声”の上」


 真理が報せる。


「声の上に光の拍。声が“合図”になる」


「声が鍵を回す」


「回す前に、滑らせる」


 燈子はフロア図の掲示を目で追い、視線の流れを計算した。

 吹き抜けの縁に立つ人の目線が、ビジョン—フードコート—司会台の順に八の字を描く。

 八は二つの円。円は歯を欲しがる。


「司会台はここ。正面から見て右斜め。光の“口”は左斜め。視線は往復する」


「往復の途中で、**“間”**を一つ置ける」


「置け」


「清掃カート、もう一度通るかな」


 真理が周囲を見回すと、さっきのスタッフが戻ってきた。

 彼女は声をかけ、イスを一脚だけ掃除のために引くことを頼む。

 理由は簡単でいい。掃除の効率。動線の確保。スタッフは抵抗せず、一脚を二十センチだけ動かした。

 歯数=十一が、短い時間だけ再現される。


 その瞬間、ビジョンのテストが長短長に切り替わった。

 三、三、二から、長—短—長。

 最後の長の終わり際で、反射の“間”が一拍だけ膨らむ。

 燈子のモノクルは曇らない。縁も冷えない。


「外れた」


「本番でこの“間”を作る。人の流れと、反射と、角度で」


「スタッフに怒られる」


「怒られる前に終わらせる」


 真理は腕時計を見た。八時ちょうど。

 公開リハーサルの合図が、司会台のマイクから小さく入る。「本日は——」

 声の高さ、速度、息の吸い方。拍は声の中にもある。


「声のカウント、“三、二、一”は避けさせたい」


「避けられないなら、“二”で止めさせる」


「司会に言える?」


「言えない。だから、“二”の時に視線を右へ送る」


「右?」


「フードコートのスープの湯気。さっき見た、一番手前の鍋がちょうど客席側。湯気は光を掴む」


「湯気で視線誘導、か。姑息だな」


「効く」


「効くなら、やる」


 二人はそれぞれの持ち場に散り、小さな準備を積み上げた。

 真理はフードコートの店員に短く声をかけ、試食のスープを一杯だけこの時間に出してもらうよう頼む。

 燈子はビジョンから二段目の反射が一番はっきり見える床の角度を探し、立つ位置を決める。

 視線が泳ぐように、子どもの落書きの円の粉を指で軽く擦って線を曖昧にしておく。口は残す。歯は薄く。

 歯が見えなければ、口はただの笑顔だ。


 司会のマイクが上がり、カウントが始まる。


「三——」


 湯気が上がる。

 フードコートの端で、店員がスープを一杯、客席に向けて置いた。

 光が湯気に掴まる。人の目は、そこで止まる。


「二——」


 ビジョンは3-3-2の**“2”に入る。

 床の反射は曖昧で、歯は十一**。

 口はあるが、噛まない。


「一!」


 司会が声を立て、幕がスルリと落ちる。

 長短長が来るべき位置で、“間”が半拍だけ増える。

 湯気はまだ上へ。

 目は右へ。

 光は鍵穴を撫で損ねた。


 拍が外れた。


 真理は胸の中で小さく息を吐く。

 燈子はモノクルに触れ、縁が冷えていないことを確認する。


「今の“間”を本番でも作る。司会の二で湯気、一で戻す」


「湯気は毎回同じ高さで出ない」


「だから二だけでいい。“一”は意識して戻さない」


「お前は本当に真面目だな」


「真面目は、こういう時のためにある」


「真面目は退屈だ」


「退屈で、倒れないならそれでいい」


「倒れない退屈は、嫌いじゃない」


 リハーサルは続き、スタッフが位置を微調整する。

 ビジョンのテストは本番映像に近づき、ロゴが滑らかに踊る。口は笑い、歯は見えない。

 子どもの落書きは、まだ床に残っていた。口は同じ角度で、粉の縁だけが光に鈍く反応する。


 真理はテストパターン一覧をもう一度確認し、本番の切り替え位置に印をつけた。

 燈子はフードコートのイスを一脚、許される範囲で数センチだけずらす。スタッフが気づく前に戻せる距離。

 歯数=十二は十一になり、また十二に戻る。

 戻る前の一瞬だけ、鍵穴は見失う。


「分担を決める」


 真理が短く言う。


「お前は言葉。紙。禁書の頁を追え」


「君は光。設備。拍を追って、**“間”**を作る」


「合図は?」


「二で息を吸え。あたしが右へ目を送る」


「了解」


「“三、二、”」


「“一”を言わせない」


「言わせても、鍵は回らない」


 二人はそれぞれの方向へ散った。

 紙と光。言葉と拍。

 同じ場所で違うものを見るために、役割を分ける。


 開店の十分前、広報の“光の祝祭”のポスターに朝の白が強く差し込んだ。

 スマイルの口は光っている。

 だが、歯は見えない。

 見えないなら、噛めない。


 燈子は階段の影に立ち、反射の位置を最後に一度だけ確かめた。

 真理はフライヤーを手に、広報の言葉を記録する準備を整えた。


「確かめよう」


 真理が言う。


「覗く」


 燈子が答える。


 二系統(紙/光)の分担は、今この瞬間に固まった。

 あとは、本番で半拍を作るだけだ。

 半拍が鍵穴を滑らせる。

 それだけで、歌は歌い損ねる。

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