第2話 影の管轄
第1節 未明の回覧
未明の対策局オフィスは、夜の温度をまだ手放していなかった。
空調の低い唸りが天井のどこかで続き、非常灯の緑が机の端だけを薄く照らす。窓の外では、首都高のヘッドライトが点となって流れ、ガラスに当たった光が細い筋に伸びては消えた。
回覧台の上に、厚い紙の束が置かれている。
束の背は歪み、角は赤い付箋で埋め尽くされていた。付箋には同じ言葉が何度も書かれている——政治案件に波及させるな。手書きの朱が乾ききらず、ところどころに指の跡が残っていた。
神崎燈子は、ジャケットの裾を片手で払って回覧台の前に立つと、束の最初の一枚をめくった。
「目に悪い色だな」
彼女はぼそりと吐き捨てるように言い、赤の密度を眺める。
「夜中に見る色じゃないね」
背後から小野寺真理が近づいてきた。
彼女は卓上ランプを点け、白い円の中に回覧の束を移す。光の輪の中で、赤い付箋はさらに鮮やかに目立った。
「戻りが早い」
燈子は付箋を一枚、親指の腹で押さえた。紙がわずかに鳴る。
「“外に波及させるな”は、いつだって最初に返ってくる言葉だよ」
真理は柔らかい声で、鋭い内容を置く。
彼女は束の末尾まで流して視線で段差を確かめると、付箋の並びに規則性があることに気づいた。指で追い、何枚かを寄せる。
「同じ手の字が多い。監査側の担当が一人で捌いてる」
「楽な仕事だな」
「楽かどうかは、本人次第」
「本人は楽だと思ってる」
「どうして分かる」
「紙の匂いが薄い。机から離れないやつの紙は、もっと“机の匂い”がする」
燈子が鼻で笑ったとき、オフィスの自動ドアが小さな音を立てて開いた。
背広が一人、音もなく入ってくる。スーツは濃い灰、ネクタイは絞りすぎず、靴はよく磨かれていた。胸ポケットの名刺入れだけが、光を受けて淡く反射する。
「早いですね」
真理が会釈をする。
「遅いくらいだ」
背広は短く答え、視線を回覧台に落とした。彼の目は二人に向かない。
指先だけが軽く動き、名刺が差し出される。紙は厚い。所属の欄は曖昧で、直通番号だけが印刷されている。
燈子は名刺を受け取り、胸ポケットに入れながら足音に耳を澄ませた。
廊下からここへ来るまで、靴底が床に刻んだ拍は一定で、揺れがない。息が上がっている気配も、荷重の偏りもない。疲れていない音。無理のない歩き方。体のどこにも痛みが残っていない音だった。
「お忙しいところを」
真理が丁寧に言う。
「本件の外向きの窓口は、内務監査室が持つ」
背広は短く通達した。口調は平板で、感情がにじまない。
告げる内容は重いのに、声は軽かった。
「つまり、私たちは口を閉じて、書類を整えろと」
燈子が言う。視線は回覧に落としたまま、声だけを背広の方向へ向ける。
「整えるのがあなた方の仕事だ」
「倒れた人を起こすのが、私たちの仕事だ」
真理がやわらかく挟む。背広は彼女の方を見ない。
その代わり、指で回覧の最初のページを軽く叩いた。マナーの範囲ぎりぎりの合図。
「対外的な説明は統一する。質問は監査室へ」
「質問に答える準備は?」
燈子の言い方は尖っているが、声量は上げない。
「想定問答は作ってある」
背広はそれ以上何も言わず、視線を落としたまま踵を返した。靴音は来たときと同じテンポで、等間隔の拍を刻んで遠ざかっていく。
ドアが閉じたあとも、拍だけが短く耳に残った。
「管轄は“影”が持つ、ってか。便利な言葉だな」
燈子の言い分は短い。
「影が持つなら、こちらは“光”で見る。窓口がどこでも、私たちのやることは変わらない」
真理は柔らかい。
「変わるさ。邪魔が増える」
「邪魔の重さは測れるよ。拍で」
短い応酬のあと、二人は同時に回覧へ向き直る。
赤い付箋の中で、ひときわ濃い字が目に入る。政治案件に波及させるな、の後に小さく“報道対策と歩調を合わせよ”。筆圧が強く、紙が少し凹んでいた。
燈子は付箋を貼り直し、ページの角度を変えた。
真理は机上の端末を開き、前夜の封じで回収した禁書頁の保管ログを呼び出す。
ログには、封筒番号と保管場所、閲覧権限が時刻付きで記録されていた。番号欄には“—9”の印。欠けた連番の一枚。数字が冷たく並んでいる。
「記録はつけた。閲覧権限は私と君、あと課長だけにしておく」
「課長は寝てる」
「起きたら説明する」
「説明は短く」
「短くて、伝わるように」
真理は端末を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。
彼女の呼吸は静かで、音が少ない。夜のオフィスでは、その静けさがよく響く。
「外注の会社、照会する?」
燈子が訊ねる。
真理は頷き、別のタブを開いた。入札記録、契約台帳、業者名簿。検索窓に会社名を打ち込むと、関連する契約の一覧が出た。
「音響と映像。同じ会社が担当してる」
「楽だな」
「楽だから、悪い」
「言い切るなよ」
「経験則」
真理は一件を選び、契約書の写しを呼び出した。
画面の文字は細かい。ページを送ると、仕様の項に目当ての語があった。
「演出同期。音響、映像、照明」
彼女は声に出して読み上げる。
「三つまとめて、同じ拍で動かす」
「美しい言葉だろ?」
「美しい言葉は、うまく悪用される」
「いい趣味だな」
「褒めてない」
燈子は回覧から離れ、机の端に腰を預けた。
回覧にはまだ“戻り”が挟まっている。付箋の位置はどれも似ているが、字の癖は微妙に違っていた。監査側の複数の手で、同じ文言が繰り返されている。
言葉は同じでも、重さは少しずつ違う。押す筆圧、跳ねる癖、紙の角に残る摩擦。彼女はそれらを一つずつ見て、覚えるように指で辿った。
オフィスの時計が、分を一つ送った。
電気ポットの保温灯が、小さく点いている。夜勤の誰かが置いた紙コップの隣で、スティックシュガーが二本、袋のまま並んでいた。
「それ、もらっていいか」
燈子が顎で示す。
「どうぞ」
真理がポットに水を足す。湯気は薄く、匂いは弱い。
コーヒーの粉を落とし、砂糖を多めに混ぜる。燈子は一口飲み、眉を寄せた。
「甘いだけだ」
「夜中の脳は、それが助かる」
「お前の脳は昼間も甘い」
「そう見えるだけだよ」
そんな無駄話の合間にも、仕事は進む。
真理は契約書の別紙に目を移し、当日の行事予定を確認した。大型モールの新装セレモニー。音響、LEDビジョン、照明の同期演出。来賓、司会、ニュースのクルー。
開始は午前十時。公開リハーサルは午前八時から。連絡先の欄には、外注会社の現場責任者の名と携帯番号。
「今日の午前、モールでセレモニー。ここの会社が音とビジョンをセットで入れてる」
「時報の代わりに、光で歌ってくれるってわけだ」
「歌わないようにしてもらう」
「どうやって」
「見て、確かめて、必要なら止める」
「止めるのは得意だ」
「君は、ね」
真理は画面を閉じ、印刷用にページを送った。
プリンターが静かに回り始め、紙の重なる音が夜の空気を切る。出てきた紙をまとめ、クリップで留める。その動作は速く、乱れがない。
「回覧の返事、要るか」
燈子が赤い付箋の束を見ながら問う。
「要る。短く書く。こちらは“現場の安定を確認、外向きの説明は監査室と足並みを揃える”。数字は後で差し込む」
「訳すと、“黙って働け”だな」
「仕事の優先順位を明確にしただけ」
「同じだ」
「少し違う」
真理はペンを取り、短い文をすっと書いた。角に印を置き、日付と時刻を入れる。
書きながら、彼女は視線を一度だけ燈子に向けた。目が合う。燈子は肩で息をして、わずかに頷いた。
「現場に寄る」
燈子が言う。
「先にモール?」
「その前に外注の本社」
「朝一で?」
「朝一なら、警備が寝ぼけてる」
「寝ぼけている人に優しく」
「寝ぼけてない人間にだけ、優しくしてやる」
真理は笑っていないのに、口元が少し柔らかくなる。
その時、回覧台の端で携帯が震えた。課の共用端末だ。真理が取り、短く応答する。
夜勤の連絡。病院側の経過は安定、追加の昏睡は出ていない。
彼女は礼を言い、切った。
「大丈夫?」
「今のところ、落ち着いてる」
「なら、急ぐのはこっちの都合だ」
「そうだね」
赤い付箋の束はまだ厚い。
だが、やることは見えた。背広が窓口を“持つ”のなら、こちらは別の窓から外を見る。音と光のどこかに、また道が作られている。
その道が誰の手によるものか、今は分からない。だが、匂いは残っている。
「支度をしよう」
真理が椅子から立つ。
彼女は回覧を所定の棚に戻し、印刷した契約書の束を鞄に入れた。禁書頁の封筒は内ポケットに収める。封の角を爪で押さえ、一度だけ確かめる。
「眠いか」
燈子が問う。
「眠い。でも、歩ける」
「歩いている間は大丈夫だ」
「君は?」
「あたしはいつも大丈夫だ」
「嘘だね」
「嘘だ」
短い嘘は、朝の前には軽い。
窓の向こう、薄いグレーが東の端に滲み始めている。夜が終わりきる前の色だ。
「鍵、持った」
「持った」
「名刺は」
「ここ」
「直通、使う?」
「必要になったら」
「必要にはなる」
「なるな」
二人は上着を取り、ランプのスイッチを落とした。
白い円が引き、机の上に残った回覧の角だけが非常灯を受けて薄く光る。
ドアの前で、燈子は一度だけ振り返った。赤い付箋の群れは、夜の残り火みたいに見えた。
「消えにくいな」
「だから水でなく、順番で冷ます」
「お前は手順が好きだ」
「手順は人を助ける」
「皮肉を言い逃した」
「また次で」
二人はドアを押し、廊下へ出た。
靴音が等間隔に響き、角で折れる。さっきの背広が刻んだ拍と同じ速さで、しかし音の重さは違っていた。疲れていない音ではない。眠気を隠さない音、けれど迷いのない音だ。
未明の空気が、ゆっくりと入れ替わり始めていた。
東の端のグレーが、少しだけ明るさを増した。
局舎の一階に降りると、自販機の冷却音がわずかに高くなる。外に出る前に、真理は受付カウンターへ回り、夜勤表に短い一行を加えた。外出先、目的、戻りの目安。それだけで足りる。
エントランスのガラス扉が開くと、街の空気は思ったより冷たかった。
車に乗り込む。運転席に真理、助手席に燈子。エンジンの振動が静かに伝わる。
燈子はサンバイザーのミラーを開け、モノクルの位置を微調整した。鏡の中の左目に、薄い痕のような紋がまだ残っている。すぐに視線を逸らし、モノクルを元に戻した。
「まずは外注の本社?」
「ううん。先に契約の細部をもう少し詰める」
「車の中で?」
「うん」
真理は膝の上に契約書の束を置き、信号待ちのたびにページを滑らせる。
仕様の欄、別紙の図、当日の配置図。文字は乾いた事務の言葉で書かれているが、ところどころに演出会社の“表現”が紛れ込む。光の祝祭、来場体験、街のリズム。
そして、仕様の中央に小さな一行。
「ここ」
真理が指先で示す。
「演出同期:音響—映像—照明。フレーム、サンプル、点滅、同期」
「全部、同じ拍で動かす」
「うん。音を切っても、光だけで拍が残る。光を切っても、音だけで拍が残る。片方がもう片方を“思い出す”」
「うまく噛み合えば便利だ。うまく噛み合いすぎても、便利だ」
「便利は危ない」
「褒め言葉に聞こえるだろうな、あの会社には」
交差点を抜けると、正面に朝焼けが薄く開き始めた。
フロントガラスに映る街灯の列が、車の速度に合わせて規則的に流れる。その流れが、つい昨夜まで耳にまとわりついていた歌の名残を、少しだけ薄めていく。
「モールの新装、開始は十時。公開リハーサルは八時から」
真理は手帳に短く書き入れた。
「八時に間に合えば、拍の癖が見える」
「本社は?」
「向こうは九時から。先にモールを覗いて、戻りの途中に寄る方がいい」
「覗く、ね」
「“行くぞ”は控えるんでしょ」
「誰が言った」
「私が言った」
「お前は最近、指示が細かい」
「細かい方が、失敗が減る」
「失敗を減らすのは、お前の役目じゃない」
「減らすのは、私の役目」
「なら、増やすのはあたしの役目だ」
「やめて」
「冗談だ」
短い冗談の後、車内は静かになる。
燈子は窓の外を流れる街の看板を眺める。明滅する電飾はまだ少ないが、始発の時間に合わせて金属シャッターが上がる音が聞こえ始めた。
音はどれも小さく、散っている。散っている拍は歌にならない。歌にならないうちに、癖を見つける必要がある。
「契約書、もう一箇所」
真理がページをめくる。
施工計画の末尾に、現場での緊急時対応の一項がある。関係各所への連絡ルート、責任者の代理権、そして——映像系統の切り離し手順。
切り離しの欄に、手書きで小さく追記があった。現場判断での同期解除は原則不可。解除は本社の承認が必要。
「現場で止められない」
真理が呟く。
「止める気がないだけだ」
「承認の番号、メモしておく」
「番号が通じると思うか」
「思わない。でも、手続きの“外側”へ出る前に、一度はドアを叩く」
「お前は律儀だな」
「律儀は、人を助ける」
「皮肉の効きが薄い」
「薄いくらいが、ちょうどいい」
車は環状線に乗り、モールの方角へ滑っていく。
朝の光はまだ低い。道路脇の防音壁に、断続的な影が走る。影は細く、揺れている。波に似た動き。
燈子はモノクルの縁を指先で触れ、温度を確かめる。冷えはない。曇りもない。昨夜の封じが残したわずかな痕は、もう感覚の外へ薄れていた。
「禁書頁は、私が持つ」
真理が言う。内ポケットを軽く叩く。
「持ってろ。見せびらかすなら、敵の方だ」
「見せない。必要な時だけ、出す」
「必要な時が来る」
「そうだね」
短く合意が交わされる。
信号が青に変わる。車が進む。
真理はバックミラーの中に映る自分の結び目を確認する。ネクタイは少しだけきつく、左右の高さは同じだ。彼女は一つ息を吐き、緩めずにそのまま走らせた。
「背広の名刺、預かっていい?」
真理が手を出す。
「くれてやる」
「捨てないよ」
「捨てるなら、あたしだ」
「捨てないで」
「捨てないよ」
二人のやりとりは、夜よりも少しだけ軽くなっている。
初めて顔を見せた背広の“拍”は、心の端に残っていた。疲れていない音。あの種類の音は、だいたい現場を見ない。足元の床を信じない。書かれた線を信じる。
線は必要だ。それでも、足場を忘れた線は、人を転ばせる。
「モールの駐車場、北側に入る」
真理がウインカーを出す。
「朝のテストは、外からでも見えるか」
「正面のガラスから、反射で見える」
「反射は、こちらに向けやすい」
「やりすぎないで」
「ほどほどに」
車は出口レーンに滑り込み、信号が一呼吸分だけ赤を続けた。
信号の小さなLEDが、等間隔で明滅する。見慣れた点滅。それでも、目の端で数を数えてしまう。
燈子は心の中で十二まで数え、十三を口に出さずに飲み込んだ。
「行程はこうだ」
真理が短く確認する。
「開店前に外からビジョンのテストを観察。拍の癖を洗う。八時の公開リハーサルで、観客導線と機材裏の位置を確認。終わったら本社。現場の責任者に“止める手順”の確認」
「止める手順は、ないに等しい」
「ない前提で、代案を用意する」
「代案は?」
「光を“ずらす”。音を“外す”。そして“間”を挟む」
「間は効く」
「効く。人間の脳は、間に弱い」
「うまく使えば、歌は崩れる」
「うん」
信号が青に変わった。
車は静かに動き出し、朝の空の薄さの中へ滑り込んだ。
オフィスを出るときに感じた冷たさはもう薄い。代わりに、今日の空気の“拍”が、少しずつ大きくなっていく。
その拍が歌にならないように、二人の呼吸は自然にそろっていた。
モールの看板が前方に立ち上がる。白い大きな文字。下には今日の予定が横一列に並び、その中央に小さく——演出同期、音響—映像—照明。
文字はただの文字だ。
けれど、文字の裏にある機械は、正確に動く。正確に動くものは、正確にずれる。
「確かめよう」
真理が言った。
「覗くか」
燈子が答えた。
その短いやりとりのあと、車は朝の光の中へ溶けていった。
次の拍が来る前に、やるべきことは決まっている。
窓口がどこであっても、路はひとつだ。
見る、測る、外す。
そして、必要なら止める。
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