第40話 ヘーゲル卿
その日の夜――
しずくは、まだデスクに向かっていた。
白紙の報告書に、ぽつり、ぽつりと文字を落としていく。
書類の山は、ようやく峠を越えたところだった。
ふと時計に目をやる。
――約束の時間が、近づいていた。
(ミラさんの部屋に行かないと……)
立ち上がり、制服の裾を整える。
廊下はしんと静まり返っていた。
誰もいない夜は、
まるで時間が止まったかのようで――
その沈黙が、少しだけ心細い。
(……変だな。さっきまで平気だったのに)
扉の前に立ち、そっと深呼吸をひとつ。
ノブに手をかけ――静かに開ける。
「どうかなさいましたか?」
すぐに聞こえたのは、低く澄んだ声だった。
「うわっ!」
思わず跳ねる。
暗がりから、アンナがぬっと姿を現していた。
「アンナちゃん、びっくりさせないでよ!」
しずくは思わず身を引き、胸を押さえる。
アンナは悪びれもせず、にこりと微笑んだ。
「おどろいちゃいました? ごめんなさい」
その姿が、どこかミラと重なって見えた。
(ふぅ……やっぱり、ミラさんと似てる……。)
(ミラさんと初めて会ったときも……こんな風に背筋がぞくってしたっけ)
アンナは、すっと表情を引き締めて言った。
「ところで、しずく様。こんな時間にどちらへ? もう、お休みの時間ですよ?」
しずくは言葉に詰まった。
ミラとの密会――なんて、言えるはずもない。
(……なにか、うまい理由……)
「え、えっと……夜風に当たりたくなって……その、散歩?いえ、郵便物を……ポストに……」
自分でも何を言ってるのか分からなくなり、視線を逸らす。
アンナはしばらく無言でしずくを見つめ――
そして、ふっと笑った。
「……わかりました。では、いってらっしゃいませ。
なにかございましたら、すぐお申し付けくださいね」
その声音は穏やかで、どこかしずくの戸惑いすら見透かしているようだった。
「え、うん……ありがとう」
しずくは小さく頭を下げ、
そっと部屋を後にした。
扉が静かに閉まり、廊下に一人きりになる。
――さっきより、胸の鼓動が早くなっていた。
しずくは、ミラの部屋へと歩を進めた。
ミラの部屋の前に立つ。
非常灯だけが揺れる廊下に、
影が淡く踊っていた。
(だ、だれも見てないよね……?)
少し身をかがめて左右を確認する。
――人気はない。
「……よし」
小さく息を整えて、ノックを二度。
――コンコン
返事はない。
けれど、しばらくして扉が静かに開いた。
そこに立っていたのは、予想外の人物だった。
「め、メイドさん……?」
思わず声が漏れる。
黒のロングスカートに白のエプロンドレス。
清潔感のある装いに、
髪はぴっちりとまとめられ、
帽子の下から覗く金色の髪が滑らかに波打っていた。
瞳は深い赤――
感情の揺らぎを見せない、宝石のような光。
整然とした立ち姿からは、
まるで儀仗兵のような緊張感が滲んでいた。
(すごい……まるで人形みたい)
「№10、お待ちしておりました。どうぞ中へ」
落ち着いた低い声が、空気を割るように響く。
「し、失礼します……」
しずくは自然と背筋を伸ばし、
礼をして足を踏み入れる。
扉の閉まる音。
その直後、「カチリ」と鍵の音が鳴り
――鼓動が、ひとつ跳ねた。
「こちらです」
メイドが音もなく歩き出し、しずくを導く。
向かった先は、部屋の奥にある高い本棚の前。
無言で棚に手をかけ、
そっと押し出すように動かすと――
わずかな軋みとともに、壁が横へスライドした。
現れたのは、薄暗い細い通路。
その奥に、小さなドアがひとつ。
メイドが振り返り、静かに告げた。
「どうぞ」
その瞳には、やはり感情の色がなかった。
しずくは小さく頷き、ノブに手をかける。
そっと扉を開き、中へと踏み込んだ。
そこはまるで、小さな地下牢だった。
薄暗い空間。
壁には鉄格子のような影が落ち、
冷たいタイルの目地には埃が溜まっている。
部屋の中央、小さな木製のテーブル。
銀製のティーポットとカップが二つ、
控えめに光を反射していた。
その片側には、ミラ・ヴェイルの姿。
そして彼女の隣には、もう一人のメイド。
静かに椅子を引き、
「こちらへどうぞ」
と促す。
しずくは、そのまま腰を下ろした。
(……ここにもメイドさん。なんでだろう、牢みたいな場所なのに)
そんな疑問が胸に浮かんだ瞬間――
「私の趣味よ」
ミラが紅茶を口にしながら、
まるで心を覗き込むように言った。
その視線の先、
テーブルの向かいに座っているのは――
かつて街で対峙した、あの司祭だった。
男はしずくに目を細め、低く呟いた。
「きみは……あの時にいた子だな……」
その声には、恐れと諦めが混じっていた。
ミラが無感情な調子で続ける。
「さて、ヘーゲル卿。今日は、なにを話してくれるのかしら」
赤い瞳が、静かに司祭を捉える。
彼は目を逸らし、低く唸った。
「……何度言わせるつもりだ。私から話せることなど、何もない」
そのやり取りを聞きながら、
しずくはぽつりとミラの耳元で呟いた。
「……てっきり、ミラさんが“絞り上げる”って言うから……
ひどいことでもしてたのかと……」
思わず出た言葉に、室内の空気が微かに揺れた。
ミラはカップを置き、静かに口を開いた。
「もう、したわよ」
「……え?」
思わずしずくの表情がこわばる。
視線の先――ヘーゲル卿の手が、目に入った。
包帯で巻かれた右手。
だが、そこから覗いた指の数は
――明らかに足りない。
(……指、が……)
ぞわりと背中を冷たいものが這う。
息を呑む音が、胸の奥で鳴った。
ミラは、紅茶を一口啜りながら淡々と語る。
「こいつは力づくでも話さないから、もうやめたの。
殺しても仕方ないしね。だから今は――友好的に、話してるってわけ」
穏やかに語られる言葉ほど、
現実の重みは鋭く響いた。
ヘーゲル卿は、唇を歪める。
「まったく……なんてやつらだ……」
――部屋の中に、紅茶の香りと、
冷たい沈黙が滲んでいた。
ミラは紅茶を一口啜ると、カップを置き、
そのまま穏やかな口調で言った。
「――あなたの情報から、ユナイトアーク内部の人間に手引きした者がいることが、もう分かっているのよ」
静かな一言だった。
けれど、その響きは鋭い刃のようだった。
ヘーゲル卿はわずかに眉を動かしたが、
すぐに表情を押し殺す。
「そんなこと……知ったことか。私は何も知らん」
目を逸らし、冷たい声で突き放す。
だが、ミラは一切動じない。
「……あなたのせいで、いったい何人の人が死んだか、わかっている?」
淡々とした口調のまま、問いが突き刺さる。
沈黙。
しずくは無意識に手を強く握っていた。
この空気の張り詰め方が、
じわじわと喉を締めつける。
ミラの唇が、ふっと持ち上がった。
「……こうして平和的にお話ししてるうちに、話しておいたほうがいいわよ」
一拍置いて、目元だけが冷たく笑った。
「裏切者は、ユナイトアークの内部……、さらに魔法少女管理局の中ね。」
その瞬間。
ヘーゲル卿の顔が、明らかに強張った。
その反応に、ミラの瞳がわずかに細められる。
「ふふ。やはりね」
静かに、勝ち誇ったように息を吐く。
しずくは息を呑む。
ミラの声は、さらに低く静かになる。
「……誰なの? エクリプス? それとも、魔法少女?まさか、ナンバーズの中に?」
テーブルの上で、
ヘーゲル卿の手がわななき始めた。
包帯に包まれたその指先が、小刻みに震える。
「……やめろ!」
突然、椅子を蹴る音と共に、彼が立ち上がった。
「お前たちは……分かっていない!」
叫び声が、空間に反響する。
「今すぐ私を殺せ! 殺してくれッ!」
血走った目がしずくを射抜く。
「あの方を敵に回せば……ただでは死ねん……!
この世のすべてが……滅ぶぞ……!」
狂気の色を帯びた声。
頭を抱え、
額をテーブルに打ち付けるようにうずくまる。
「お前らでもこれ以上知るべきではない……知ってはならん……っ!」
部屋の空気が、一気に冷たくなる。
しずくは言葉を失ったまま、
じっとその背中を見つめていた。
怒号とは裏腹に、彼の震える姿が
――どこか、哀れに見えた。
ミラは紅茶をもう一口啜り、
まるで何事もなかったかのように、
再び椅子に深く腰掛けた。
「……さて」
彼女の目が、なおも崩れ落ちる男を、
冷ややかに見下ろしていた。
――その瞬間だった。
ミラの動きが、ぴたりと止まる。
続けて、両隣に控えていた二人のメイドも、
まるで糸を引かれるように同時に顔を上げた。
視線は――扉の方へ。
空気が凍る。
一拍の沈黙。冷たい水の膜が、
部屋全体を包み込むような感覚。
「……シズ! アメリー!」
ミラの声が、鋭く部屋を切り裂いた。
二人のメイドが、一斉に動く。
白と黒の制服が宙に翻り、裾がひるがえる。
動きは――まるで機械仕掛けのように無駄がなく、正確だった。
スカートの奥から、銀の光が跳ねる。
隠されていた武器が、手際よく取り出される。
片手剣。投擲ナイフ。
それぞれが武器を持ち、無言で扉へと突進。
扉が激しく開かれ、
金具が壁にぶつかって鈍い音を響かせた。
メイドのひとり、シズが、身をひるがえしながら叫ぶ。
「ミラ様! 侵入者です! 一人! 通路の先へ!」
ヘーゲル卿が、
椅子の影で顔を青ざめさせ、頭を抱える。
「ひっ……! 見られた……見られたああ……!」
ミラの目が、ひときわ赤く輝く。
「イザベラじゃないことは確かね。」
「……追いなさい。相手が誰でも生死は問わないわ」
「はっ!」
二人のメイドは短く応じると、
黒い影のように扉の外へ消えていった。
ミラは一歩だけ後ろに下がる。
手のひらを静かに掲げ――
その陰から、無数の黒い影が、
にじむように現れた。
細く、薄く、羽ばたく音。
影は次々に形を取り、
やがてコウモリの群れへと変わっていく。
「――行ってきなさい。逃がさないで」
小さな声とともに、
コウモリたちが一斉に飛び立った。
音もなく、影もなく。
ただ、鋭く冷たい意志だけを残して
――闇へと消えていった。
部屋に残されたのは、
しずくとミラと、震え続ける男――
その場には、
何かが崩れていく音だけが、残されていた。
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