エピローグ「絶やさない灯り」
あれから、さらにいくつかの季節が巡った。秋も深まり、汐見町の海風が肌寒さを帯び始めた、ある日の夜。
翔太は、最後の客を見送ると、ドアに「CLOSED」の札をかけた。賑やかだった一日の喧騒が去り、静寂が店内に満ちる。カチ、カチ、と古い柱時計が時を刻む音だけが、やけに大きく聞こえた。この、一日が終わった後の静かな時間が、翔太は好きだった。
片付けを終え、カウンターの隅の、いつもの席に座る。彼は、祖母が遺した日記を、今でも時々読み返すことがあった。しかし、最後の数ページだけは、なぜかずっと開けずにいたのだ。まるで、大切な宝物を、最後までとっておく子供のように。
今夜は、不思議と、その続きを読むべき時が来たような気がした。
翔太は、ゆっくりと日記の最終ページを開いた。そこには、これまで見てきた力強い筆跡とは違う、少し震えた、弱々しい文字が綴られていた。祖母が病院のベッドの上で、最後の力を振り絞って書いたものだと、すぐに分かった。そしてそれは、日記ではなく、一人の孫に向けた、最後の手紙だった。
『翔太へ。
この手紙を、あなたが読んでいるということは、私はもう、あなたのそばにはいないのでしょう。
謝らないでおくれ。あなたが十年、この町に帰ってこなかったことを、私は一度も寂しいと思ったことはありません。あなたは、あなたの場所で、必死に頑張っていた。それだけで、ばあちゃんは、十分に誇らしかったんですよ。
でも、もし、あなたが人生に迷い、立ち止まってしまった時には、この店と、この町のことを思い出しておくれ。
この場所で、たくさんの人が涙を流し、そして、それ以上にたくさんの人が笑い合って生きてきました。人が集う場所には、必ず未来があります。温かい灯りがあります。
翔太。
この店と町を、頼みます。
どうか、その灯りを、絶やさないで。
ばあちゃんより』
読み終えた時、翔太の頬を、一筋の温かい雫が伝っていた。涙ではなかった。それは、祖母から受け取った、温かい灯りそのもののように感じられた。
翔太は、静かに立ち上がり、店の窓から外を眺めた。漆黒の海が、静かな寝息を立てている。ぽつり、ぽつりと灯る家々の明かりが、まるで夜空に瞬く星のように、優しく町を包んでいた。
そして、この喫茶店「海猫」の窓から漏れる光もまた、その星々の一つとして、町並みを、そして穏やかな夜の海を、温かく照らし出していた。
灯りは、ここにある。
これからも、ずっと。
翔太は、誰に言うでもなく、そう呟くと、柔らかな笑みを浮かべた。
東京で燃え尽きた僕が、海辺の喫茶店で人生を淹れなおす物語 藤宮かすみ @hujimiya_kasumi
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