第10話「この町で、生きていく」

 台風が過ぎ去ってから、一年が経った。汐見町の夏は、かつての活気を取り戻し、いや、それ以上の熱気に満ちていた。あの住民投票の後、町は劇的に変わり始めたのだ。その中心には、いつも喫茶店「海猫」があった。


「海猫」のテーブルで行われた対話から、いくつもの新しいアイデアが生まれた。リゾート計画を白紙に戻した岩城は、その行動力と人脈を、町の再生のために注ぎ込んだ。彼の建設会社は、拓也が設計した図面をもとに、空き家になっていた古民家を改装し、小さな民宿「潮騒(しおさい)」として再生させた。女将を務めるのは、京都での経験を活かした美月だ。彼女が作る、地元の新鮮な魚介と野菜をふんだんに使った料理は、宿泊客から絶大な人気を博していた。


 潮田組合長たち漁師は、観光客向けの漁業体験プログラムを始めた。沙織が観光協会のウェブサイトでPRしたこともあり、夏休みには都会からの家族連れで大賑わいだった。子供たちの歓声が、寂れる一方だった港に響き渡った。


 さらに、町を離れていた若者たちが、少しずつ戻り始めていた。拓也のように週末だけ手伝いに来る者もいれば、Uターンして新しいビジネスを始める者もいた。彼らは皆、「海猫」を拠点に情報交換をし、互いに協力し合って、この町に新しい風を吹き込んでいた。シャッターが下りていた商店街にも、若者たちが開いたお洒落な雑貨屋やパン屋が、ぽつりぽつりと灯りをともし始めている。


 翔太は、すっかりこの町の日常に溶け込んでいた。彼の淹れるコーヒーは、「海猫」の味として定着し、彼の周りにはいつも人々の笑顔があった。


 そんな八月のある午後、店のドアベルが鳴り、見慣れないスーツ姿の男性が入ってきた。日に焼けた翔太の顔を見て、男性は驚いたように目を見開いた。

「……湊? ほんとに湊か?」

 それは、東京の広告代理店で働いていた頃の、一個上の先輩だった。近くで大きな仕事があるらしく、その途中で噂を聞いて立ち寄ったのだという。

「お前、変わったな。なんか……いい顔してるよ」

 先輩は、カウンターに座り、物珍しそうに店内を見回しながら言った。翔太は、少し照れくさそうに笑いながら、コーヒーを淹れる。

「そうですか?」

「ああ。東京にいた頃のお前は、いつも何かに追われて、壊れる寸前のゼンマイ仕掛けの人形みたいだったからな。……正直、羨ましいよ、今の生活」

 先輩は、コーヒーを一口飲むと、深いため息をついた。その疲れた横顔に、翔太はかつての自分の姿を重ねていた。


「ここには、特別なものなんて何もありませんよ」

 翔太は静かに言った。

「でも……ここには、人が必要としてくれる場所がある。俺の淹れたコーヒーを、美味しいって言ってくれる人がいる。俺がここにいることで、笑顔になってくれる人がいる。俺にとっては、それが、生きる意味なんだと思います」

 その言葉に、先輩は何も言わず、ただ黙って頷いた。


 先輩が帰った後、店の手伝いを終えた沙織が、翔太の隣にやってきた。彼女は、翔太と民宿、そして観光協会を繋ぐ、町のコーディネーターとして、今やなくてはならない存在になっていた。

「知り合いだったの?」

「ああ、東京にいた頃の」

「そっか。……翔太がここにいてくれて、本当によかった」

 沙織は、窓の外で輝く夏の海を見つめながら、ぽつりと言った。その横顔は、一年前よりもずっと大人びて、そして美しく見えた。翔太の心に、幼なじみという言葉だけでは収まりきらない、温かい感情が込み上げてくる。この町で、彼女と共に生きていきたい。その思いは、もうごまかしようのないほど、はっきりと形になっていた。


 夕暮れ時、翔太は店のカウンターに立ち、祖母の古びた写真をそっと指で撫でた。写真の中の祖母は、昔と変わらない優しい笑顔で、彼を見守っているようだった。

 おばあちゃん、俺、ちゃんとやれてるかな。

 心の中で問いかける。答えはない。だが、店内に満ちるコーヒーの香りと、人々の穏やかな笑い声が、何よりの答えのように感じられた。

 この町で、生きていく。翔太の決意は、夏の終わりの夕凪のように、静かで、そしてどこまでも確かだった。

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