第08話「ひとつ屋根の下で」
夜が更けるにつれて、風雨は狂ったような雄叫びを上げ始めた。古い木造の「海猫」は、巨大な獣の顎にくわえられた小舟のように、みしり、みしりと不気味な音を立ててきしんだ。叩きつける雨音は、もはや音の粒ではなく、分厚い水の壁となって店全体を打ち据えていた。そして、午後九時を回った頃、予期していた通り、町の電力供給はぷつりと途絶えた。世界から、一切の光と音が奪われたかのような、絶対的な暗闇と轟音。
しかし、「海猫」の中には、いくつもの小さな灯りがともっていた。翔太が準備していた発電機は、幸いにも正常に作動し、カウンター周りの最低限の照明とコーヒーメーカーの電源を確保していた。そして、客席のテーブルには、皿に乗せられたろうそくが置かれ、その頼りない炎が、集まった人々の不安げな顔をオレンジ色に照らし出していた。
店内には、二十人ほどの人々が身を寄せ合っていた。公民館に入れなかった海沿いの家の老人たち、小さな子供を連れた若い夫婦、そして、この嵐の中、他にどこへも行く当てのなかった人々。誰もが口数少なく、ただ窓の外で荒れ狂う闇の音に、固い表情で耳を澄ませていた。
その異様な静寂と緊張感の中に、ひときわ不釣り合いな一団がいた。岩城議員と、彼を支持する数人の商店主たち。そして、カウンターの反対側の隅には、潮田組合長と、数人の漁師たちが、まるで別の生き物を見るかのように、互いに距離を置いて座っていた。彼らは、避難の途中で偶然この場所に行き着いたのだった。同じ屋根の下、同じろうそくの光の中にいながら、両者の間には深くて冷たい川が流れているかのようだった。
「翔太くん、温かいものを頼む」
岩城が、努めて平静な声で言った。翔太は黙って頷き、コーヒーの準備を始める。豆を挽く音だけが、店内にやけに大きく響いた。その時だった。若い母親に抱かれていた三歳の女の子が、突然ぐずり始めたのだ。
「こわい……おうちかえりたい……」
母親が必死にあやすが、子供の嗚咽は止まらなかった。その泣き声は、店内にいる全員の張り詰めた神経を、さらに苛立たせるかのように響き渡った。商店主の一人が、あからさまに舌打ちをする。
その瞬間、店の隅にいた潮田組合長が、ごつごつした大きな手で何かをごそごそと取り出した。それは、漁に使う網を補修するための、太い麻の紐だった。彼は、黙ってその紐を両手に取ると、器用に指を動かし始めた。あやとりをするように、結び、ひねり、返していく。すると、あっという間に、一匹の可愛らしいエビの形が出来上がった。
「ほれ、嬢ちゃん。エビだぞ」
潮田は、子供の前にそっとそれを差し出した。女の子は、泣きやんで、きょとんとした目で麻紐のエビを見つめている。潮田が指を動かすと、エビはまるで生きているかのように尻尾を振った。女の子の顔に、ふっと笑みがこぼれた。その小さな笑顔が、まるで魔法のように、店内の凍てついた空気を少しだけ溶かした。
翔太は、淹れたてのコーヒーを、一人一人に配って回った。温かいマグカップを両手で包み込むと、人々の強張っていた肩から、少しだけ力が抜けるのが分かった。岩城も、黙ってカップを受け取り、ゆっくりと口に含んだ。
「……ふん、こんな時に飲むコーヒーも、悪くないもんだな」
憎まれ口を叩きながらも、その表情は少しだけ和らいでいた。
夜が深まり、人々が疲労と不安でうとうとし始めた頃、発電機の燃料が尽きたのか、カウンターの照明がふっと消え、店内はろうそくの光だけになった。風の音が一層、間近に迫ってくる。その、心細いほどの暗闇の中で、誰かがぽつりと呟いた。
「昔の台風の夜は、いつもこうだったな。ろうそく一本で、家族みんなで肩を寄せて……」
その言葉をきっかけに、老人たちが昔話を始めた。もっとすごかった台風の話、停電中に家族でトランプをした思い出。それは、推進派も反対派も関係ない、この町で生きてきた者だけが共有できる、共通の記憶だった。
その輪に加わるでもなく、一人、腕を組んで暗闇を見つめていた岩城が、不意に口を開いた。
「俺がガキの頃……この店で、巴さんにひどく叱られたことがある」
彼の静かな声に、皆が耳を傾ける。
「友達と万引きの真似事をして、ここのカウンターで自慢気に話していたら、どこからか飛んできた巴さんに、頭がへこむくらいゲンコツを食らった。『人の道を外れるような真似だけはするんじゃないよ!』ってな。……あんなに本気で、他人の俺を叱ってくれた大人は、後にも先にもあの人だけだった」
それは、誰も知らない、町の権力者の、少年時代の素顔だった。潮田が、意外そうな顔で岩城を見つめている。
風雨は、まだ止まない。しかし、店の中には、いつの間にか、かすかで、でも確かな温もりが生まれ始めていた。対立し、憎み合っていたはずの人々が、同じろうそくの光を見つめ、同じ温かいコーヒーをすすり、同じ不安な夜を、共に過ごしていた。
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