第05話「海猫、ふたたび」
夏の強い日差しが照りつける、八月の第一土曜日。三か月の準備期間を経て、喫茶店「海猫」は、再オープンの日を迎えた。店の入り口には、沙織がデザインした温かみのある暖簾が揺れている。その上には、拓也が古い木材を再利用して手作りした、『海猫』という看板が誇らしげに掲げられていた。
開店時間の午前十一時。翔太は、深呼吸をして、入り口の札を「CLOSED」から「OPEN」に裏返した。その瞬間、待っていたかのように、店の前にできていた人だかりから、わっと拍手が沸き起こった。翔太が驚いて顔を上げると、そこには潮田組合長をはじめとする漁師たち、近所の商店主、子供の手を引いた若い母親たち、そして制服姿の高校生まで、老若男女、数十人の笑顔があった。
「翔太、おめでとう!」
「待ってたぞ!」
温かい祝福の声に、翔太の胸が熱くなる。カウンターの中では、白いシャツに身を包んだ美月が、少し緊張した面持ちで準備を整えている。フロア係の沙織は、満面の笑みで客を席へと案内していた。
「いらっしゃいませ!」
翔太の少し上ずった声が、活気と共に店内に響き渡った。改装された店内は、祖母の時代の面影を色濃く残していた。磨き上げられたカウンター、客の肘でつやつやになったテーブル、壁にかけられた古い柱時計。それらはそのままに、拓也の設計によって、海に面した窓が大きくなり、太陽の光がさんさんと降り注ぐ、明るく開放的な空間へと生まれ変わっていた。壁の一角には「汐見町メモリー」と名付けられたコーナーが設けられ、町の人から提供された昔の写真や、子供たちが描いた海の絵が飾られている。
次々と入ってくる客で、あっという間に満席になった。翔太はオーダーをこなしながら、必死にコーヒーを淹れる。祖母が使っていたサイフォンで、祖母と同じ豆を使って。だが、淹れるのは自分だ。これは、自分のコーヒーなのだ。
カウンターの特等席に陣取った潮田が、運ばれてきたコーヒーカップを恭しく持ち上げ、ゆっくりと一口含んだ。そして、険しい顔でじっと黙り込む。店中の視線が、彼に注がれていた。翔太は、息を飲む。やがて、潮田はふっと顔をほころばせ、しゃがれた声で言った。
「……巴さんの味とは、ちっと違うな」
一瞬、店内に緊張が走る。しかし、潮田は続けた。
「だが、悪くねえ。いや、うめえよ。これは、翔太、おめえの味だ」
そう言って、彼は目元をぐいっと腕で拭った。その言葉に、張り詰めていた店の空気が一気に和らぎ、あちこちで安堵の笑い声が上がった。
美月が作る新しい名物、「汐見産タコと夏野菜のトマトパスタ」は、舌の肥えた漁師たちを唸らせた。高校生たちは、Wi-Fiが完備された窓際の席で、参考書を広げながらクリームソーダを飲んでいる。子育て中の母親たちは、小上がりのスペースで、子供たちを遊ばせながら、情報交換に花を咲かせていた。
この場所は、再び町の心臓になったのだ。様々な世代の人々が集い、語らい、笑い合う。その温かい喧騒の中で、翔太は自分が本当にこの町の一員になれたような気がした。東京で感じていた、自分が誰からも必要とされていないという焦燥感は、もうどこにもなかった。ここには、自分の淹れたコーヒーを「うまい」と言ってくれる人がいる。自分の作った場所で、笑顔になってくれる人がいる。それだけで、十分だった。
午後になり、少し客足が落ち着いた頃、沙織が翔太の隣にやってきて、そっと声をかけた。
「すごいね、翔太。大成功だよ」
「みんなのおかげだ」
カウンターの中から賑やかな店内を見渡しながら、翔太は心からそう答えた。一人では、決して見ることのできなかった光景だ。
しかし、その幸せな時間の片隅に、小さな影が落ちたのを翔太は見逃さなかった。店の外の通りを、一台の黒い車がゆっくりと通り過ぎていく。後部座席には、町議会議員の岩城が座っていた。彼は、店の中の賑わいを、値踏みするような冷ややかな目で見つめ、そして、ふいと顔をそむけて去っていった。
その一瞬の表情が、翔太の心に小さな棘のように引っかかった。この店の再生は、町が抱える問題の終わりではなく、むしろ、その渦中に自分たちが飛び込んだことの始まりに過ぎないのかもしれない。
賑やかな店内で、翔太は一人、これから向き合うことになるであろう、大きな現実を予感していた。
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