第十話「夕凪堂の、いつもどおりの朝」
静寂が、夕凪堂に戻ってきた。
暴走寸前だった竜の灯火は、今は祭壇の上で、穏やかな青い光を静かに放っている。奏は、その場に座り込み、大きく息をついた。全身の力が抜けきって、指一本動かせそうにない。
琥珀に押さえつけられていた律は、もはや抵抗する気力もないのか、だらりと床に手足を投げ出していた。彼は、ただぼんやりと天井を見上げ、弟の言葉を反芻しているようだった。
「小さな……声……」
奏と紬が協力し、モノたちの力を借りて龍脈を鎮めた。その光景は、律が信じてきた力の体系を、根底から覆すものだった。神から与えられた、絶対的で序列のはっきりした力の世界。それ以外の力を、彼はこれまで認めてこなかった。いや、見ようとしてこなかったのかもしれない。
「……私の、負けだ」
やがて、律はぽつりと呟いた。その声には、いつものような傲慢さはなく、どこか虚ろな響きがあった。彼はゆっくりと身体を起こすと、誰に言うでもなく、静かに立ち上がった。
「兄さん……」
「……しばらく、頭を冷やす必要がある。神社のことは、他の者に任せよう」
律は、奏の方を見ようとはしなかった。ただ、戸口に向かって、おぼつかない足取りで歩き始める。その背中は、今まで奏が見てきた、自信に満ち溢れた兄のものではなく、ひどく小さく、頼りなく見えた。
店の戸口で、彼は一度だけ足を止め、振り返らずに言った。
「……奏。お前は……お前の信じる道を行け」
それが、兄が弟にかけた、最後の言葉だった。
格子戸が閉まる乾いた音がして、律の気配は完全に消えた。嵐は、本当に過ぎ去ったのだ。
「……行ってしまったのう」
紬が、そっと奏の隣に座った。彼女の顔にも、疲労の色が濃く浮かんでいる。
「はい……」
「さて、と。散らかった店を片付けねばならんが……まずは、腹ごしらえにせんか?」
「え?」
「こういう時は、温かいものを食べるに限る。奏、琥珀、まんぷく食堂の出前を取るぞ。何がよい?」
あまりにいつも通りの紬の言葉に、奏は思わず、ふ、と笑ってしまった。そうだ、これが夕凪堂だ。どんな大変なことがあっても、日常は続いていく。
「……僕は、生姜焼き定食がいいです」
「俺はアジフライ定食だ。大盛りで頼む」
「うむ、承知した」
その夜は、三人でささやかな祝杯をあげた。と言っても、紬がとっておきの番茶を淹れてくれただけだが、そのお茶は、どんな高級な酒よりも、疲れた心と身体に染み渡った。戦いの後片付けは大変だったが、三人でやれば、それもどこか楽しい作業のように感じられた。
翌朝、奏はいつもより少し早く目が覚めた。障子を開けると、澄み切った秋の空が広がっている。昨夜の激闘が、まるで嘘のようだ。
階下に下りると、紬がすでに来客の応対をしていた。見ると、それは先日、夫婦湯呑の件で訪れた女性だった。彼女の隣には、少し気まずそうな顔をした旦那さんが立っている。
「その節は、本当にありがとうございました。おかげさまで、仲直りすることができました」
女性は、深々と頭を下げた。手には、お礼だという菓子折りが抱えられている。
「いえ、僕たちは何も。お二人の心が、湯呑を通じて通じ合っただけですよ」
奏がそう言うと、女性は嬉しそうに微笑んだ。
いつも通りの、夕凪堂の朝。
モノの声を聞き、人の心に寄り添う。大きな事件はもう起こらないかもしれない。それでも、この場所には、数えきれないほどの小さな物語が、これからも生まれ続けるだろう。
「奏」
客を見送った後、紬が奏を呼んだ。
「これからも、ここで働いてくれるかのう?」
それは、少しだけ不安そうな、問いかけだった。奏は、迷わず笑顔で頷いた。
「もちろんです。ここが、僕の居場所ですから」
その答えを聞いた紬は、「仕方ないな」とそっけなく呟いた。けれど、その口元には、満開の花のような、優しい笑みが浮かんでいた。
神様に見放された青年の新たな人生は、まだ始まったばかり。モノと人、そしてあやかしが集うこの古道具屋で、彼はこれからも、たくさんの温かい声に耳を澄ませ、その縁を結び続けていくのだろう。
からん、と店の鈴が鳴る。
「いらっしゃいませ」
奏の明るい声が、秋晴れの空に、心地よく響き渡った。
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