第九話「神の声、モノの声」

「馬鹿な……私が、このような……」


 壁に叩きつけられた律は、信じられないといった表情で、自らの手のひらを見つめていた。神の代理人として、絶対的な力を持つはずの自分が、物の怪とガラクタの力に押し負けた。その事実が、彼の築き上げてきた自尊心を、根底から揺るがしていた。


 しかし、感傷に浸っている時間はない。律の霊力の影響で不安定になった竜の灯火が、祭壇の上で激しく明滅を繰り返し、ビリビリと空気を震わせている。宝玉の奥から、抑えきれない強大なエネルギーが溢れ出そうとしていた。


「いかん! このままでは龍脈が暴走する!」


 紬が叫び、竜の灯火に手をかざす。彼女の身体から発せられる清浄な気が、宝玉を鎮めようとするが、一度荒れ狂い始めた龍脈の力は、あまりに強大すぎた。紬の額に、じわりと汗が滲む。


「紬さん!」


 奏は、疲弊しきった身体に鞭打ち、立ち上がろうとした。だが、力を使い果たした身体は、指一本動かすのも億劫だった。

 その時、律がゆらり、と立ち上がった。彼の目は、血走っている。


「……まだだ。まだ終わらん。この程度のことで、私の計画が……!」


 律は、最後の力を振り絞り、再び竜の灯火を奪おうと手を伸ばした。諦めることを知らないその執念は、もはや狂気じみていた。


「兄さん、やめてくれ!」


 奏の悲痛な叫びも、彼の耳には届かない。

 その律の身体に、巨大な影が躍りかかった。解放された琥珀が、猫又の姿で律に飛びかかっていたのだ。


「いい加減にしろ、この神主馬鹿! お前のせいで、街が滅茶苦茶になるぞ!」

「離せ、獣め!」


 もみ合う二人をよそに、竜の灯火の輝きは、いよいよ危険な領域に達しようとしていた。店全体が激しく揺れ、外からは地鳴りのような音が聞こえ始めている。

 奏は、必死に頭を働かせた。何か方法はないのか。この暴走を止める手立ては。

 モノたちの声は、先ほどの戦いで力を使い果たしたのか、今はもう聞こえない。僕には、もう何も……。


 いや、違う。


 奏は、目を閉じた。そして、心の耳を澄ませる。

 神様の声が聞こえなくなってから、ずっと閉ざしていた、心の深い場所へ。

 そこには、静かな水面のような世界が広がっていた。かつて、神様の声は、この水面に波紋のように届いていた。

 今は、何も聞こえない。けれど、奏は知っていた。神様がいなくなったわけではない。ただ、自分の受信機が壊れてしまっただけなのだと。


(……お願いします。もう一度だけ……)


 奏は、祈った。神にではない。この世界に存在する、全ての想いに。

 すると、静まり返っていた心の水面に、ぽつり、と小さな波紋が広がった。

 それは、声ではなかった。一つの、温かい感情の塊。


(……大丈夫……)

 オルゴールから聞こえてきた、優しい想い。

 また一つ、波紋が広がる。

(……信じろ……)

 万年筆がくれた、力強い想い。


 湯呑が、ランプが、古時計が。奏がこれまで触れ合ってきた、全てのモノたちの想いが、次々と心の水面に波紋を広げていく。それはやがて、大きなうねりとなった。


「……そうか」


 奏は、目を開けた。

 神様の声を聞くことだけが、全てじゃない。一つ一つの小さな想いに耳を傾け、それを束ねること。それこそが、今の自分に与えられた、本当の力なのだ。


 奏は、ふらつく足で立ち上がると、暴走する竜の灯火に向かって、そっと手を差し出した。

「みんな、力を貸してくれ」

 その声に呼応するように、店中の古道具たちが、最後の力を振り絞って、一斉に輝きを取り戻した。色とりどりの優しい光が、奏の身体に集まってくる。


「何をする気だ……?」


 琥珀に押さえつけられながら、律が訝しげに呟く。

 奏は、集めたモノたちの想いの光を、自分の心を通して、純粋なエネルギーへと変換していく。それは、神聖な力でも、妖力でもない。ただひたすらに温かく、清らかな、「想い」の力だった。


「鎮まれ……!」


 奏の手から放たれた温かい光が、竜の灯火を優しく包み込む。荒れ狂っていた青い光は、まるで母親に抱かれた赤子のように、少しずつ、その輝きを穏やかなものへと変えていった。激しい揺れと地鳴りが、嘘のように収まっていく。


 やがて、竜の灯火は、元の静かで淡い光を取り戻した。

 嵐は、過ぎ去った。


「……なぜだ。なぜ、お前にそんな力が……」

 律は、呆然と呟いた。自分の信じてきた、絶対的で強大な力ではない。柔らかく、温かい、名もなきモノたちの想いの力が、この事態を収拾させた。その事実が、彼には理解できなかった。


 奏は、そんな兄に向かって、静かに言った。

「兄さんは、大きな声を聞こうとしすぎて、小さな声が聞こえなくなってしまったんだよ。でも、本当に大切なことは、意外と小さな声で囁かれているのかもしれない」


 その言葉は、まるで神のお告げのように、律の胸に深く、静かに突き刺さった。

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