第七話「失われた光、夕凪堂の危機」
紬が店を飛び出していくと、それまで満ちていた温かい空気が、すうっと引いていくのを感じた。まるで、家の主がいなくなった途端に、建物そのものが心細さを感じているかのようだ。
奏は竜の灯火の前に座り、神経を研ぎ澄ませていた。隣では、琥珀が低い唸り声を上げ、全身の毛を逆立てている。
「……来たな」
琥珀の呟きと同時に、店の入り口の格子戸が、音もなく、ゆっくりと開いた。
そこに立っていたのは、やはり律だった。しかし、彼の雰囲気は以前と明らかに違っていた。その身にまとう霊力は、比べ物にならないほど増しており、まるで夜の闇そのものを背負っているかのように、濃密な威圧感を放っている。
「やはり、お前が残っていたか、奏。あの物の怪の女は、まんまと罠にかかったようだな」
律は、楽しむように言った。彼の視線は奏を通り越し、祭壇の上で淡く光る竜の灯火に釘付けになっている。
「兄さん……本気でこれを奪うつもりなのか。街がどうなってもいいのか!」
「感傷に浸っている暇があるのか? 神の声も聞こえぬお前に、私を止めることなどできはしない」
律は、まるで路傍の石を蹴るかのように、何の躊躇もなく店の中へと足を踏み入れた。その一歩が踏み込まれた瞬間、店内の空気がびりりと震え、棚に並べられた古道具たちが、一斉に悲鳴のような声を上げた。
(いやだ……!)
(怖い……!)
(こっちへ来るな……!)
モノたちの恐怖と苦痛が、濁流のように奏の頭の中に流れ込んでくる。律が放つ強大な神聖な力が、古道具たちに宿るささやかな想いを圧迫し、傷つけているのだ。
「うっ……!」
奏は、あまりの情報の奔流に、思わず頭を抱えた。
「ガタガタうるさい蝿どもだ。少し黙らせてやろう」
律が面倒そうに呟き、すっと片手をかざす。すると、彼の周囲から金色の光の波紋が広がり、店内の古道具たちを打ち据えた。
モノたちの声が、ぷつり、と途絶える。まるで、蝋燭の火を吹き消されたかのように、それらの輝きが失われていくのが分かった。いつもは温かい光を放っていたランプも、美しい音色を奏でそうだったオルゴールも、今やただの古いガラクタのように、黙り込んでしまった。
夕凪堂から、光が失われていく。
店の核である紬が不在な上に、その身体を構成する古道具たちの想いが力を失ったことで、店全体が急速に弱まっていた。
「やめろ……! みんなを、傷つけるな!」
「やらせるかァッ!」
奏の叫びと同時に、琥珀が弾丸のように飛び出した。その身体は見る間に大きくなり、本来の猫又の姿──二本の尾を持つ、巨大な化け猫へと変貌を遂げる。鋭い爪が、律の喉笛を狙って閃光のように走った。
しかし、律は身を翻すこともなく、ただ無造作に手を差し出した。彼の前に、見えない壁のようなものが現れ、琥珀の爪をたやすく受け止める。
「……猫又か。少しは楽しませてくれるかと思ったが、所詮は獣だな」
律が指を鳴らすと、琥珀の身体が金色の鎖によって縛り上げられ、床に叩きつけられた。
「ぐ……っ!」
「琥珀!」
頼りの琥珀までもが、いとも簡単に無力化されてしまった。奏は、なす術もなく立ち尽くす。
律は、もはや奏にも琥珀にも興味を失くしたように、ゆっくりと祭壇へと歩を進めていく。一歩、また一歩と近づくたびに、竜の灯火の光が、不安げに揺らめいた。
(どうすれば……)
(このままじゃ、紬さんが帰ってくる前に、宝玉が……)
奏の心は、絶望に支配されかけていた。神様の声を聞いていた頃の自分なら、何かできたのかもしれない。けれど、今の自分には、モノのささやかな声を聞くことしかできない。その声すら、今はもう聞こえない。
自分は、なんて無力なんだ。
「さて、いただくとしようか。その大いなる力を」
律の手が、竜の灯火へと伸びる。
その指先が、宝玉に触れようとした、その瞬間だった。
(……諦めるな……)
か細い、けれど、確かな声が聞こえた。
それは、律の力によって沈黙させられたはずの、古道具たちの中から聞こえてきた声だった。見ると、奏が初めて修理した、あのオルゴールが、僅かに輝きを取り戻している。
(……お前は、一人じゃない……)
オルゴールの声に呼応するように、別の道具からも声が聞こえ始める。亡き父親の想いを息子に届けた、万年筆。喧嘩した夫婦の心を繋いだ、対の湯呑。奏がこれまで関わってきた、すべての道具たちが、最後の力を振り絞るように、彼に語りかけてきていた。
(……俺たちの声を、力にしろ……)
(……奏なら、できる……)
それは、神様のような絶対的な力ではない。けれど、一つ一つは小さくても、温かくて、純粋な想いの光だった。奏の胸の奥で、それらの光が一つに集まっていくのを感じた。
そうだ、僕は一人じゃない。
この店で出会った、たくさんの想いが、今、僕の背中を押してくれている。
奏は、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、もう絶望の色はなかった。
「……兄さん。それには、指一本触れさせない」
竜の灯火の前に、奏は毅然として立ちはだかった。その小さな背中は、しかし、この世の何よりも大きく見えた。
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