第五話「招かれざる客、兄の影」

 夕凪堂に秋の気配が訪れ始めた頃だった。店先の金木犀が甘い香りを漂わせ、空は高く澄み渡っている。

 奏の生活は、すっかりこの古道具屋に馴染んでいた。持ち込まれる品の声を聞き、持ち主の想いを繋ぐ。その一つ一つの仕事が、奏に生きる実感を与えてくれていた。


「奏よ、少し店の裏の掃除を手伝ってくれんか。蔵に仕舞ってある品を、いくつか虫干ししたいのじゃ」

「はい、分かりました」


 紬に呼ばれ、奏は店の裏手にある土蔵へと向かった。ぎい、と重い扉を開けると、ひんやりとした空気と共に、古い木と土の匂いが鼻をくすぐる。蔵の中には、まだ店に出されていない古道具たちが、静かに眠っていた。


「こっちの長持を運ぶのを手伝ってくれ」

「はい」


 二人で力を合わせ、埃をかぶった長持を蔵から運び出す。その時だった。

 からん、と店の入り口で鈴の音が鳴った。しかし、いつものような軽やかな音ではない。どこか空気を張り詰めさせるような、鋭い響きだった。


「おや、客かのう。奏、すまぬが出てみてくれるか」

「分かりました」


 奏は手を洗い、店先へと戻った。そして、そこに立つ人物の姿を見て、息を飲んだ。

 しなやかな黒い生地の着流しに、塵一つない白い足袋。背筋はどこまでもまっすぐに伸び、その立ち姿には一点の隙もない。そして、自分とよく似ているが、全てにおいて洗練され、研ぎ澄まされた顔立ち。


「……兄さん」


 そこにいたのは、奏を「出来損ない」と罵り、家から追放した兄、浅葉律だった。


「こんな場末の店で、埃にまみれて暮らしているとはな。ずいぶんと落ちぶれたものだ、奏」


 律は、店内を値踏みするように見回し、軽蔑の色を隠そうともせずに言った。その冷たい声は、奏の心に突き刺さる氷の棘のようだ。

 なぜ、兄がここにいるのか。どうやってこの場所を突き止めたのか。様々な疑問が頭をよぎるが、声が出なかった。


「神に見放されたお前が、一体どうやって生計を立てているのかと案じて来てみれば……ガラクタ拾いとは。浅葉の家の恥だな」

「……ガラクタじゃない」


 かろうじて、それだけを絞り出した。奏の声は、自分でも情けないほどに震えていた。


「ほう? 口答えか。神の声も聞こえなくなったお前に、一体どんな価値があるというのだ」


 律が一歩、奏に近づく。その圧倒的な存在感に、奏は思わず後ずさった。神主としての力を持ち、常に正しく、常に人々の上に立ってきた兄。その前では、自分はいつだって無力だった。


「まあまあ、そう邪険になさらず。お客様」


 その時、二人の間に、紬がすっと入り込んだ。彼女はいつもの穏やかな表情を崩さず、しかしその瞳の奥には、鋭い光を宿していた。


「当店の大事な店員に、何か御用でしょうか」

「……何だ、お前は」


 律は、初めて紬の存在に気づいたように、怪訝な顔で彼女を見た。


「わらわはこの店の主、紬と申します。あなた様こそ、奏にどのようなご用件で?」

「主? こんな童がか。……まあいい。奏、お前には新たな力が芽生えているそうだな。モノの声を聞くとかなんとか。くだらない噂だが、どうやら真実らしい」


 律の視線が、再び奏を射抜く。

「その力を、私のために使え」

「え……?」

「近々、水鏡神社で大きな祭事がある。その祭事で用いる、より力のある神具を探しているのだ。古く、強い想いの宿った品であれば、神具としての格も上がる。お前の耳は、そのためにこそ使うべきだ」


 それは、命令だった。兄は、奏の新しい力を、自分の名声と神社の権威を高めるための道具としてしか見ていなかった。

 奏の胸の奥で、何かが静かに燃え上がるのを感じた。


「……嫌だ」

「何?」

「僕のこの力は、兄さんのためにあるんじゃない。ここに持ち込まれるモノと、それに想いを寄せる人たちのために使うんだ。だから、協力はできない」


 はっきりと、そう告げた。自分でも驚くほど、声は震えなかった。夕凪堂での日々が、奏に小さな勇気を与えてくれていた。

 奏の答えを聞いた律の顔から、すっと表情が消えた。それは、彼が本気で怒りを感じている時の兆候だった。


「……そうか。神に見放されただけでなく、神に仕える道そのものから外れるというのだな。堕落したか、奏」


 律は、侮蔑の言葉を吐き捨てると、懐から一枚の符を取り出した。そして、店の棚に置かれていた古い徳利に、それを貼り付ける。


「ならば、そのくだらない力がどれほどのものか、試させてもらおう」


 律が何かを呟くと、符が淡い光を放ち、徳利がガタガタと激しく震え始めた。徳利から、苦しげな声が奏の耳に届く。


(苦しい……助けて……やめてくれ……)


 律は、徳利に宿っていた穏やかな想いを、無理やり穢れで満たし、暴走させようとしているのだ。


「やめろ、兄さん!」


 奏が叫んだ、その時。


「よそ様の品に、何をしてくれる」


 紬の声が、凛と響いた。彼女は律と徳利の間に立つと、すっと片手をかざした。すると、徳利を包んでいた禍々しい光が、まるで朝日を浴びた霧のように、すうっと消え去った。


「……ほう。ただの童ではないと見受けたが……物の怪の類か」

 律は少し驚いたようだったが、すぐに嘲るような笑みを浮かべた。

「まあ、よかろう。今日のところは退いてやる。だが、奏。お前はその力を、いずれ私の前に差し出すことになる。覚えておけ」


 そう言い残し、律は静かに店を去っていった。

 嵐が過ぎ去った後のように、店内には重い沈黙が流れた。奏は、自分の無力さに唇を噛み締める。兄の前では、結局何もできなかった。


「……すみません、紬さん。僕のせいで……」

「お主が謝ることはない。それより、怪我はなかったか?」

 紬は、いつもと変わらない優しい声で言った。

「大丈夫です。でも……」

「律、と言ったかのう。あやつ、ただ者ではない。気をつけた方がよさそうだ」


 紬の言葉に、奏はこくりと頷いた。

 兄は、簡単には諦めないだろう。奏の心に、暗い影が落ちた。やっと見つけたこの穏やかな居場所が、兄によって壊されてしまうのではないか。

 そんな不安が、金木犀の甘い香りとともに、奏の胸に広がっていった。

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