第四話「ふたつの湯呑が願うこと」
「いらっしゃいませ」
からん、という涼やかな鈴の音とともに、奏の声が店内に響く。
夕凪堂で働き始めてひと月が経ち、店番の仕事もすっかり板についてきた。最初は戸惑うことばかりだったが、紬や琥珀に助けられながら、少しずつこの店の流儀を学んでいた。
今日の夕凪堂は、いつにも増して穏やかな空気が流れている。窓から差し込む西日が、店内の古道具たちをキラキラと照らし出し、まるでそれらが生きているかのように見えた。
奏は、柔らかい布で古い飾り棚を拭きながら、一つ一つの道具に宿る、静かな声に耳を澄ませていた。それは、奏にとって心地よい子守唄のようなものだった。
そんな平穏を破るように、店の戸が勢いよく開けられた。
「すみません! これ、買い取ってもらえませんか!」
息を切らせて駆け込んできたのは、三十代半ばほどの、少し疲れた表情の女性だった。彼女はカウンターの上に、風呂敷包みをどさりと置くと、乱暴にそれを解いた。中から現れたのは、素朴ながらも味わいのある、一対の夫婦湯呑だった。
「もう、いらないんです。こんなもの、見てるだけで腹が立つから!」
女性はそう吐き捨てるように言った。その剣幕に、奏は少し気圧されてしまう。
紬が奥から出てきて、落ち着いた声で女性に話しかけた。
「まあまあ、お客さん。まずは一息ついてくだされ。冷たい麦茶でもいかがかな?」
紬が差し出した麦茶を、女性はためらいながらも受け取った。こく、こくと喉を鳴らしてそれを飲み干すと、少しだけ落ち着きを取り戻したようだった。
「……すみません、取り乱してしまって」
「いえ。何か、おありになったのじゃな」
紬に促され、女性はぽつりぽつりと事情を話し始めた。その湯呑は、彼女と夫が結婚した時に、共通の恩師から贈られたものだという。しかし先日、些細なことがきっかけで夫と大喧嘩をしてしまい、夫は家を飛び出してしまったらしい。
「あんな頑固な人、もう知らない! この湯呑も、あの人との思い出の品だから、もう顔も見たくないんです!」
そう言って唇を噛む女性の瞳は、怒っているというよりも、どこか悲しそうに見えた。
奏は、そっと二つの湯呑に触れてみた。すると、二つの異なる声が、同時に流れ込んできた。
(ごめん、あんなこと言うつもりじゃなかったんだ……)
(どうして、素直になれないんだろう……)
二つの湯呑は、まるで持ち主である夫婦の心を映すかのように、同じことを思い、後悔していた。喧嘩をしたまま離れ離れになってしまったけれど、本当は仲直りがしたい。その想いが、痛いほど伝わってくる。
「お客さん、この湯呑は……とても素敵なものですね」
奏は、思わず口を開いていた。
「色合いも、手の収まりも、なんだかしっくりくる。きっと、贈ってくださった方は、お二人のことを想いながら、これを選んだんでしょうね」
奏がそう言うと、湯呑から温かい感情がふわりと広がった。
(そうだよ、先生はいつも私たちのことを気にかけてくれていた)
(この湯呑で飲むお茶は、なんだかいつもより美味しく感じたんだ)
「この湯呑たちは、離れ離れになりたくない、と言っています。まだ、お二人と一緒にお茶が飲みたい、って」
「え……?」
女性は、驚いたように目を見開いた。奏は続ける。
「旦那様も、きっと同じ気持ちだと思います。この湯呑が、そう教えてくれています」
奏の言葉に、女性の強張っていた表情が、少しずつ和らいでいく。彼女はずっと、湯呑を見つめていたが、やがて、ぽろりと一筋の涙をこぼした。
「……私、馬鹿ね。一番大事なこと、忘れちゃうところだった」
女性は、「売るのをやめます」と深く頭を下げると、再び丁寧に湯呑を風呂敷に包み、大切そうに抱えて帰っていった。その後ろ姿は、来た時とは比べ物にならないほど、足取りが軽く見えた。
「奏。ずいぶんと様になってきたではないか」
「え?」
いつの間にか隣に来ていた紬に褒められ、奏は少し照れくさくなった。
「わらわは最初、お主の力を、モノの記憶を読み解くためだけのものだと思っておった。じゃが、違うようじゃな。お主の力は、モノを通じて、人の心を繋ぐ力なのじゃ」
紬の言葉が、すとんと胸に落ちた。
神様の声を聞いていた頃、自分はただの一方的な伝達者に過ぎなかった。けれど、今は違う。モノの声に耳を傾け、人の心に寄り添い、その間を繋ぐことができる。それは、神様にはできない、自分だけの力なのかもしれない。
失いかけていた自信が、確かな輪郭を持って胸の中に芽生え始めているのを感じた。
「おーい、二人とも! いい話の途中悪いが、腹が減ったぞ! 今夜はまんぷく食堂の唐揚げ定食がいいな!」
縁側で寝転んでいた琥珀が、大きなあくびをしながら言った。その言葉に、奏と紬は顔を見合わせて、ふっと笑った。
このささやかで、温かい日常。
奏は、この場所でなら、きっと自分らしく生きていける、と強く思った。
しかし、そんな穏やかな日々に、静かな影が忍び寄っていることを、この時の奏はまだ知らなかった。
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