神様に見放された僕ですが、モノの声が聞こえるので古道具屋「夕凪堂」で人生やり直します

藤宮かすみ

第一話「神様に見放された日」

 ざあ、とアスファルトを叩きつける雨音が、世界の全ての音を塗り潰していくようだった。

 浅葉奏は、ずぶ濡れになった前髪から滴る雫を拭うこともせず、ただぼんやりと灰色に染まった空を見上げていた。

 ほんの数時間前まで、自分には帰るべき家があったことが、まるで遠い昔の出来事のように感じられる。


『──もう、お前の声は聞こえぬ』


 それが、幼い頃からずっと奏の耳にだけ届いていた、神様の最後の言葉だった。

 代々、神様の声を聞く能力者「聞き手」を輩出してきた水鏡神社の分家、浅葉家。その家に生まれ、歴代でも類を見ないほどの強い力を持って生まれた奏は、かつて「神童」と呼ばれていた。

 神様のお告げは絶対だった。日照りが続けば雨乞いの最適な日取りを伝え、街に災いが訪れる前には人々に警告を与えた。その声に導かれるまま、彼は多くの人を助け、感謝され、そして崇められてきた。それが奏の世界の全てであり、彼の存在意義そのものだったのだ。


 十八歳の誕生日を迎えた、今日の昼までは。


 ぷっつりと、糸が切れるように神様の声は消えた。何度耳を澄ませても、心の中で呼びかけても、返ってくるのは冷たい沈黙だけ。

 その事実を、本家の跡継ぎである兄の律に伝えた時の、彼の氷のように冷たい視線を、奏は生涯忘れないだろう。


「やはりお前は出来損ないだったな。神も、ようやくそれに気づかれたようだ」


 兄にとって、奏は常に比較対象であり、嫉妬の対象でもあった。神主としての才覚も、人々からの信望も、兄は全てにおいて奏を上回っていた。唯一つ、神様の声を聞く能力を除いては。

 その最後の砦が崩れた今、兄の目には侮蔑の色しか浮かんでいなかった。荷物をまとめる僅かな時間だけを与えられ、奏は生まれ育った家から文字通り放り出された。まるで、使い道のなくなった古い道具のように。


 降りしきる雨は、容赦なく奏の体温を奪っていく。行く当ても、頼れる人もいない。空腹と疲労で、意識が朦朧としてきた。このまま道端で倒れてしまうのだろうか。

 そんな弱音が胸をよぎった時、ふと、路地の向こうに小さな明かりが灯っているのが見えた。まるで、こっちへ来いと手招きしているような、温かい光。

 最後の力を振り絞り、吸い寄せられるようにその光へ向かうと、そこには古びた木造の建物がひっそりと佇んでいた。軒先には、「古道具 夕凪堂」と右から左へ書かれた、年代物の看板が掲げられている。


 雨宿りだけでもさせてもらおう。

 震える手で格子戸に手をかけ、ゆっくりと開けると、からん、と軽やかな鈴の音が鳴った。


 店内は、想像していたよりもずっと広く、天井まで届きそうな棚に、ありとあらゆる古道具が所狭しと並べられている。ランプ、古時計、万年筆、陶器の数々。どれもが長い年月を経てきたことを示す、静かな風格を漂わせている。そして、それらの古い品々が放つ独特の匂いに混じって、ふわりと心地よいお香の香りが鼻をくすぐった。


「……あの、すみません」


 声をかけても、返事はない。店の奥は薄暗く、人の気配は感じられなかった。勝手に入ってしまった手前、どうしたものかと思案していると、奥の襖がすっと静かに開いた。


「おや、お客さんかのう。このような雨の日に、ようこそおいでなすった」


 現れたのは、少女だった。年は十五、六といったところか。腰まである艶やかな黒髪を一本に結い、深い藍色の地に白い撫子の花が描かれた、少し古風な着物を身にまとっている。透き通るような白い肌と、人形のように整った顔立ち。そして、全てを見透かすような、年齢にそぐわないほど落ち着いた黒い瞳が、まっすぐに奏を見つめていた。


「あ、いや、雨宿りを、させてもらえないかなと……」

「ふむ。ずいぶんと濡れておるのう。風邪を引いてしまう。ささ、こちらへ」


 少女は奏を手招きし、店の奥にある小さな囲炉裏へと案内した。パチパチと心地よい音を立てて燃える炭火が、冷え切った身体をじんわりと温めてくれる。


「わらわは紬。この店の主じゃ。お主は?」

「浅葉……奏、です」

「奏、か。良い名じゃな。少し待っておれ。温かいお茶を淹れてやろう」


 紬と名乗った少女はそう言うと、慣れた手つきで鉄瓶の湯を使い、小さな湯呑に透き通った琥珀色のお茶を淹れてくれた。

 どうぞ、と差し出されたそれを受け取り、一口飲む。ふわりと広がる優しい香りと、身体の芯まで染み渡るような温かさに、張り詰めていた緊張の糸が、ふ、と緩んだ。


「……美味しい」

「そうか、それは良かった」


 紬は嬉しそうに微笑んだ。その時だった。


 ざわ……。


 奏の耳に、不思議な音が聞こえ始めた。それは人の声ではない。囁きのような、呟きのような、無数の音が混じり合った、ざわめき。


(……また会いたい……)

(あの日の夕焼けは、綺麗だったな……)

(ごめんね、大切にできなくて……)


 映像が、感情が、断片的な言葉となって頭の中に流れ込んでくる。

 驚いて顔を上げると、その「声」が店中に置かれた古道具たちから発せられていることに気づいた。壁の古時計から、棚の上のオルゴールから、隅に置かれた古い箪笥から。それらは皆、かつての持ち主との記憶を、想いを、奏に語りかけてきていた。


 神様の声とは全く違う。けれど、確かに聞こえる。これは、一体……?


「どうやら、聞こえるようじゃのう」


 目の前の紬が、全てを承知しているかのように、静かに言った。


「モノたちの、声が」


 奏は言葉を失い、ただ目の前の不思議な少女を見つめ返すことしかできなかった。

 神様に見放されたこの日に、彼は新たな声を聞くことになった。それは、温かくて、どこか少しだけ、寂しい声だった。

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