The beginning of|あかり★★★


 見兼ねたママがあかりに中絶することを説得したのは、妊娠二十週になろうかという時期だった。ママが懇意にしている産婦人科に予約を入れた。堕胎手術の当日、受付を済ませて待合室で名前を呼ばれるのを待っていた。目の前には、まもなく予定日を迎えるであろう女性が、夫と思われる男性と和やかに話をしていた。どちらの顔にも、大きな喜びが浮かんでいた。その表情を見た瞬間、あかりのなかを恐怖が走り抜けた。



 この子を失ったらコウが居た痕跡は完全に消えてしまう。



 それは同時にあかりの一部も消えることを意味していた。確信した。あかりは咄嗟に立ち上がり病院を逃げ出した。学校も、アルバイトも行かずに、携帯電話の電源を切り、部屋にこもった。連絡の取れないあかりを心配したママが実家に連絡を入れ、両親が部屋に駆けつけたとき、お腹の子はすでに八ヶ月を過ぎていた。産むしかなかった。



 事情を知った父親は押し黙り、言葉を発することがなかった。以来、あかりと父親が言葉を交わすことはなくなった。互いに互いの存在を打ち消し合った。母親は、「こんな環境で育てられるわけねえに」と言って、学校を中退して実家へ戻り、子を産み育てろと主張した。お腹の子の父親について詮索されたが、あかりは喋らなかった。その頃には、コウはすでに学校をやめていて、どこへ行ったかもわからなかった。吸っていた煙草のけむりのように、忽然と行方を晦ました。



 あかりは学校を辞めはしたが、実家へは戻らず、一人で子を産んだ。



 産後の体が回復すると、再びクラブで働き始めた。学歴も資格も持たないあかりを正規に雇ってくれる会社などなかった。夜の仕事をしながらの子育ては、想像していた以上に困難を極めた。すべてが初めて尽くしの育児は何が正しいのかもわからず、あかりの不安を徐々にではあるが確実に大きくさせていった。あかりはママが教えてくれたゼロ歳時保育と二十四時間保育を実施している認可保育園に子を預けることにした。夜の仕事を終えて、朝、子を迎えに行き、ふたりで部屋に帰った。微睡のような束の間の睡眠は、わが子の泣き声によってしゃぼん玉のように弾けて消えた。子の父は、コウ以外に考えられなかった。在籍していた美容学校に事情を話せば、恐らく、コウの実家を突き止めることはできただろう。しかし、あかりはコウを探し出すことはしなかった。あかりのなかに微かにでも残っていた幻想に縋りたかった。縋りたい幻想が何なのかは、あかりにも分からなかった。ただ、その幻想を残しておくことが、あかり自身を生かしていてくれるような気がした。だから、




 だからコウの名前をとって、ひかると名付けた。






 あかりのなかに作られたコウの居場所だったところには、大きな穴が開いていた。穴は、光さえも飲み込むほどに暗く、深かった。穴の淵に立つと、どこまで続くかわからない底の方へと吸い込まれる引力に引き摺られた。穴を埋め合わせるために、あかりは、それまで応じることのなかった客と肉体関係を持つようになった。仮初の薄い皮膚を通した関係でも、精神安定剤一錠分の効果をもたらした。そして、少しの間だけ、沈殿した心の滓を紛らわせてくれた。しかし、その効果が長続きすることはなかった。行為の終わりとともに、夜も明けぬまま、気分は白けて現実へと突き戻された。そうして、また、ひかりを迎えに行く日々が続いた。


 ほかの男に抱かれる度に穴は深くなり、いつしか、そこにいたのがコウだったのか、コウなどおらず、初めからあかりのなかに穴が存在していただけなのか、判断出来なくなった。深い闇は、一層、深さを増した。虚無であった。あかりの心は虚無に侵食されて、緑黄色の感情という栄養素がひとつ、また、ひとつと失われて行った。



 新月の夜、あかりが色彩のない世界の住人として迎えられた日に出会ったのが、サクだった。

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