02:追放講師と元教え子
ルーンヴァルト魔法大学から追放同然の扱いを受け、学長に直談判するも、アンブロシアの嘲笑と共に無慈悲に切り捨てられた。
その後、バジル・アークライトの足は、自然と馴染みの酒場『止まり木亭』へと向いていた。
かつては多くの学生や講師たちで賑わったこの店も、最近はめっきり客足が遠のき、煤けた木のカウンターと数えるほどのテーブルが寂しげに並んでいる。
店内に漂うのはチープなエールの香りと、どこか諦めにも似た埃の匂い。
賑わいの名残はただの残響となり、バジルの心に一層の虚しさを刻みつけるようだった。
安物のエールを頼み、カウンターの隅で一人グラスを傾ける。
喉を滑り落ちる琥珀色の液体は、ぬるく、そして舌に残る苦みが今の自身の惨めさと重なるようだった。
脳裏をよぎるは、学部長の苦渋に満ちた顔、学長の冷酷な言葉、そしてアンブロシアの蠱惑的でありながら毒を含んだ笑み。
そして、もう自分の手には届かない、学生たちの輝く瞳と、研究に打ち込んだ日々の記憶。
それらはまるで、心に突き刺さる氷の刃のように、冷たく、深く、彼の精神を蝕んでいく。
(これから、どうすればいいのだろう…)
またもや溜息が、今度はエールの苦みと共に喉の奥へと消えていく。
その時だった。
「あ…もしかして、バジル先生…ですか?」
鈴を転がすような、しかしどこか遠慮がちな若い女性の声が、彼の背後からかけられた。
薄暗い店内に、その声はまるで、不意に差し込んだ一筋の光のようだった。
驚いて振り返ると、そこには数年前に卒業した元教え子が、少し頬を赤らめ、緊張した面持ちで立っていた。
その顔に見覚えはある。
彼女は在学中から聡明で、それでいて控えめな優しさを持つ学生だった。
バジルにとっても、印象深い教え子の一人だ。
今日は、当時の魔法大学の制服とは違い、上質な素材だとひと目でわかる、落ち着いた色合いのワンピースに身を包んでいる。
まるで、どこかの良家のお嬢様が、ふらりと下町の酒場に迷い込んだかのようだ。
名前はたしか…。
「…ア、アイリス…さん?どうして、君がこんなところに…」
バジルは動揺を隠せずに問い返す。
女性と話すのは元々得意ではない。
ましてや、こんな打ちひしがれた姿を、かつての教え子に見られるのは何ともバツが悪かった。
心臓が、妙な音を立てて早鐘のように鳴り響く。
彼は無意識に言い訳を探すように視線を彼女の顔から逸らしてしまう。
「先生こそ…お久しぶりです。少し前に、先生が大学をお辞めになったという噂を耳にして…心配で、ずっと気になっていたんです。それで、もしかしたら先生がよくいらしていたこのお店ならお会いできるかと思って…」
アイリスは、バジルのそっけない態度にも気落ちした様子を見せず、むしろ彼の顔色を窺うように心配そうに言葉を続ける。
その大きな瞳は、純粋な懸念の色をたたえてバジルを真っ直ぐに見つめている。
(まだ辞めたわけではない…が、まあ、もうすぐそうなるよな…)
バジルは自嘲気味に心の中で呟いた。
彼女の言葉には嘘や計算は感じられない。
ただただ、恩師の身を案じる元教え子の誠実な気持ちだけがそこにあった。
「あ、あの、もしご迷惑でなければ、少しだけお話しさせていただいてもよろしいでしょうか…?」
アイリスはおずおずと尋ねる。
その姿は迷子の子犬のように健気で、庇護欲を掻き立てるものがあった。
バジルは一瞬ためらったが、彼女の曇りのない眼差しに、彼の心に張り付いていた冷たい膜が、ごく微かに、しかし確かに溶け出すのを感じた。
それは、まるで凍てついた大地に、初めて陽の光が差し込むような感覚だった。
「…ああ、構わないよ。こんなところで良ければだけど…。」
そう言って、彼は自分の隣の空いていたスツールを無言で示した。
アイリスは「ありがとうございます!」と花が綻ぶような笑顔を見せ、お淑やかな仕草でスツールに腰を下ろした。
そして、改めてバジルの顔を見つめると、その表情を曇らせた。
「先生…お顔の色が優れませんけれど、何かおありになったのですか…?大学のこと、もしよろしければ、私にお話しいただけませんか…?」
その声には、心からの同情と心配が滲んでいた。
バジルは、彼女のその純粋な優しさに触れ、強張っていた心の奥底に、ゆっくりと温かい雫が染み渡っていくのを感じた。
女性は怖い。しかし、目の前のこの元教え子は、どこか違う。
そう思わせる何かがあった。
彼は、ぽつりぽつりと、当たり障りのない範囲で大学を離れることになった経緯を語り始めた。突然解雇を宣告されたことなどを。
しかし、その背後にあるアンブロシアの影や、学長の理不尽な仕打ちまでは、まだ彼女に話す気にはなれなかった。
それは、この純粋な元教え子を、薄汚い大学の権力争いに巻き込みたくないという思いからでもあった。
バジルの話を聞き終えたアイリスは、目に涙を浮かべ、自分のことのように悔しそうな表情を浮かべた。
「そんな…ひどいです…。先生ほど学生思いで、素晴らしい講義をなさる方が、どうしてそんな目に…」
彼女はハンカチで目元を押さえながら、それでもバジルを元気づけようと必死に言葉を探しているようだった。
その健気な姿に、彼は思わず、自身の口元がほんの少しだけ緩むのを感じた。
本当に、この数日の中で唯一感じた温かい感情だった。
しばらくの沈黙の後、アイリスは何かを思いついたように顔を上げた。
「あの、先生!学校をお辞めになった、いえ、辞めたも同然とおっしゃいましたけれど…」
アイリスは言葉を選びながら話しているようだった。
「もし、よろしければなのですが…私、以前勤めていた会社に少しツテがありまして…そこなら、先生のお力が必要とされるかもしれませんの!」
彼女は身を乗り出し、熱っぽく語りかける。その瞳は希望の光に輝いていた。
その輝きは、絶望の淵にいたバジルの心に、忘れかけていた『未来』という言葉を、かすかに蘇らせた。
「マジカルサイネージ用のコンテンツ制作や、新しい魔導具の企画開発などを手掛けている会社なのですけれど…先生のご専門分野にぴったりかと!もしご興味がおありでしたら、ご紹介させて頂けませんか?」
その提案は、あまりにもタイミングが良く、そしてバジルにとっては何よりも魅力的なものだった。
しかし同時に、うまい話には裏があるのではないか、という疑念も頭をもたげる。
「…君が、以前勤めていた会社?」
「は、はい!その…あまり大きな会社ではございませんけれど…でも、きっと先生のお力を高く評価してくださるはずですわ!」
アイリスは、ただただ必死に、そして誠実にバジルに語りかける。
その姿には、『お淑やかな元教え子』として、恩師を助けたいという純粋な想いだけが感じられた。
バジルは、アイリスの真摯な瞳をじっと見つめた。
そこには、一点の曇りもなかった。
(この子は…本当に僕のことを心配してくれているんだな…)
そう思うと、断る理由はどこにも見当たらなかった。
『もう失うものは何もない』と思っていた心が、今、この温かい光に触れて、何かを得るかもしれない、という微かな予感に震えていた。
「…ありがとう、アイリスさん。もし、本当にそんな話があるのなら…お願いしても、いいだろうか」
バジルがそう言うと、アイリスは
「はいっ!もちろんですわ!」
と、満面の笑みで力強く頷いた。
その笑顔は、今のバジルにとって、暗闇を照らす確かな希望の光そのものだった。
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