第十九話:気配


 夕暮れをバックに、俺たちはそこにあるコンビニに入ることにした。


 北条の後に俺は続く。


 コンビニの自動ドアが、うぃん、と気の抜けた音を立てて開いた。


 その瞬間、俺たちの体を包んでいた夕暮れの冷たい空気は、店内の人工的な暖気によってあっけなく追い払われる。目に飛び込んできたのは、蛍光灯が隅々まで照らし出す、あまりにも見慣れた光景だった。総菜コーナーで弁当を選ぶ作業着姿の男性。冷凍ケースの前でアイスを品定めするカップル。レジカウンターの奥で商品を補充する、眠そうな顔のアルバイト店員。そして、店内に大音量で流れる、どこかのアイドルグループが歌う底抜けに明るいポップソング。

 その全てが、俺たちがさっきまでいた、あの異質な山道とは完全に断絶された、平和で、退屈で、そして何よりも正常な『日常』そのものだった。西の空がオレンジ色から深い紫色へと移り変わっていく、そんなありふれた時間の流れ。ここには、あの橋にいた女のような、この世の理から外れた存在が入り込む隙間など、どこにもないように感じられた。


「はー、あったけー。やっぱ文明は最高だな!」


 俺の隣で、北条が大きく伸びをしながら言った。その声はいつもの調子を取り戻している。彼女にとって、さっきまでの俺の狼狽ぶりは、単なる俺の過剰反応くらいにしか思っていないのだろう。


 だが、俺には分かっていた。

 この店の明るさが、騒がしさが、人の多さが、あの女の存在を打ち消してくれるわけではないということを。

 俺の鼻腔には、まだ、あの川底の匂いがこびりついていた。

 店内に充満する揚げ物の油の匂いなどに紛れて、だが確実に、あの湿った水草と腐った土が一緒になったような、不快な匂いが存在している。

 そしてその発生源は、言うまでもなく、俺のすぐ隣にいる北条スズ、その本人だった。いや、正確に言えば、彼女の背中にぴったりと張り付いている、あの白いワンピースの女からだ。


「とりあえず、なんか温かいもんでも飲むか。ナオト、お前もなんかいるだろ?」


 彼女は俺の返事を待たずに、ずんずんとドリンクコーナーの方へと歩き出した。

 もちろん、あの女も一緒についていく。北条の歩調と寸分違わぬ動きで、まるで彼女の身体から生えたもう一つの付属物のように、すうっと滑るように移動していく。その足は、白く清潔なタイルの床から数センチ浮いたままだった。


 俺は、その光景から目を逸らすことができずに、ただ立ち尽くしていた。

 周りの客は誰も、その異常に気づいていない。当たり前だ。彼らの目には、ごく普通のギャルが一人、飲み物を選んでいるようにしか見えていないのだから。この店内で、この地獄のような光景を認識しているのは、世界でただ一人、俺だけだった。


 この圧倒的な孤独感。


 それは、あの廃病院で感じた、直接的な死の恐怖とはまた別の、じわじわと精神を内側から蝕んでいくような、陰湿な暴力性を帯びていた。


「んー、どれにしよっかなー。ココアか、ロイヤルミルクティーか……。やっぱ、こういう時は甘いやつだよな!」


 北条は、ホットドリンクが並んだ棚の前で、真剣な顔で悩んでいる。その無防備な横顔を見ていると、俺の腹の底から、どうしようもない焦りがこみ上げてきた。

 早く、早くここから連れ出さなければ。いや、違う。この女から、あの霊を引き剥がさなければ。


 だが、どうやって?


 祓う力も戦う力もない俺に、一体何ができるというのか。俺にできるのは、ただ視て、危険を察知することだけ。そのあまりの無力さが、今は呪わしくさえあった。

 俺がそんな無力感に打ちひしがれている間にも、北条の背後にいる女は、静かに、だが確実に、その存在感を増していた。

 女は、北条が手を伸ばそうとしているココアの缶を、まるで品定めでもするかのように、その顔のない顔でじっと見つめている。そして、すうっとその濡れた腕を伸ばし、北条よりも先に、その缶に触れようとした。もちろん、その指は缶をすり抜けていく。物理的な干渉はできないらしい。だが、その行動には明確な意思のようなものが感じられた。

 『お前が選ぶもの』『お前が触れるもの』その全てを、自分もまた共有しようという、粘着質で、独善的な意思。

 女は、北条がミルクティーの缶に視線を移せば、同じようにミルクティーの缶に腕を伸ばす。彼女が雑誌コーナーに移動すれば、その後ろから雑誌のページを一緒に覗き込む。

 それは、まるで彼女の行動を逐一トレースしているかのようだった。あるいは、これから自分が乗っ取る肉体の『使い方』を学習しているかのようにも見えた。

 その一つ一つの行動が、俺の神経をやすりのように削っていく。


「よし、決めた! やっぱミルクティーだな!」


 北条は、一本の缶を手に取ると、満足げに頷いた。

 その瞬間、彼女の背後にいた女が、ゆっくりとこちらを向いた。

 顔は相変わらず、濡れた黒髪で覆われていて見えない。だが、その髪の隙間から、俺に向けられた明確な『意識』を感じる。


 それは、嗤いだった。

 音にならない、だが脳に直接響くような、甲高い嘲笑。


 『お前は無力だ』と、そう言われているようだった。


 俺は、奥歯を強く噛み締めた。拳が、自分の意思とは関係なく、わなわなと動いてしまう。


「おーい、ナオト。あんた、マジで何もいらねーの? 奢ってやんぞ?」


 北条が、俺が突っ立ったままなのを見て、不思議そうな顔で声をかけてきた。


「……いや、いい。俺も何か買う」


 そう言って、俺は彼女の隣を通り過ぎ、同じようにドリンクの棚へと向かった。

 彼女の横を通り過ぎる瞬間、ひやりとした冷気が肌を撫でた。そして、あの川底の匂いが、一瞬だけ強く香る。俺は吐き気を堪えながら、適当な缶コーヒーを一つ手に取った。

 今は、とにかく彼女から離れてはいけない。俺が少しでも目を離した隙に、何が起こるか分かったものではないからだ。


「じゃ、会計すっか」


 俺たちがレジカウンターへと向かうと、ちょうど前にいた客の会計が終わったところだった。俺たちは、その客と入れ替わるようにして、カウンターの前に並んだ。


「いらっしゃいませー」


 アルバイトの店員が、感情のこもっていない、マニュアル通りの挨拶を口にする。年の頃は、俺たちとそう変わらないくらいだろうか。少し気だるげな表情で、レジのパネルを操作している。

 北条は、手に持っていたミルクティーの缶を、カウンターの上にこつんと置いた。


「これ、一つ」

「はい、温かいミルクティーですね。百三十円になりまーす」


 ごく普通の、どこにでもあるコンビニでのやり取り。

 だが、その時、俺は視てしまった。

 北条がカウンターに置いた缶。そのすぐ隣に、女が、すうっと自分の手を置いたのを。

 濡れた、真っ白な手。その指先から滴り落ちた水滴が、カウンターの上に小さな染みを作った。

 だが、俺が瞬きをした次の瞬間には、その染みは跡形もなく消えていた。


 幻覚か?


 いや、違う。肌に残った悪寒だけが、あれが現実だったと告げている。


「小銭あったかな……」


 北条が、財布を探りながら呟いた。

 その彼女の背後で、女がゆっくりとその顔を、レジの店員の方へと向けた。

 その瞬間、店員の動きが、ほんのわずかだが、ぎこちなくなったように見えた。


「……百三十円、ちょうどですね」


 店員はそう言って、北条から小銭を受け取った。その声は、さっきと何も変わらない。表情も、気だるげなまま。

 気のせいか。

 俺の神経が、過敏になりすぎているだけなのかもしれない。


 そう思いかけた、その時だった。


 店員は、受け取った小銭をレジに入れると、商品を渡すために、北条が置いたミルクティーの缶へと手を伸ばした。

 そして、その指先が缶に触れた、ほんの一瞬。

 店員の顔が、ぴくり、と痙攣したのを、俺は見逃さなかった。


 その目は、一瞬だけ焦点が合っていないように見え、その唇が、ほんのわずかに、何かを呟くように動いた。


『……えっ?つめたい……』


 声にはなっていなかった。だが、その唇の動きは、はっきりとそう読めた。

 温かい、と表示されているホットドリンクの缶に触れて、冷たい、と。

 店員は、はっと我に返ったように一度だけ小さく首を振ると、何事もなかったかのように北条に商品を差し出した。


「袋、ご利用になりますか?」

「いらねー」


 北条が短く答える。


「ありがとうございましたー」


 その声は、やはり感情のない、ただの業務用の音声だった。


 だが俺にはもう、確信があった。

 あの女は、ただ憑いているだけではない。

 周囲の人間にも、無意識レベルで、その存在を、その冷たさを、ほんの少しだけ『誤認』させているのだ。

 それは、この世界に自分の存在を確立させるための、布石のようなものなのかもしれない。

 じわじわと、この日常の世界を、自分の色に染め上げていこうとしている。


「んじゃ、俺のも頼む」


 俺は、動揺を悟られないように、できるだけ平静を装って、自分の持っていた缶コーヒーをカウンターに置いた。

 俺が会計を済ませている間、先に買い物を終えた北条は、店の出口近くで俺のことを待っていた。

 そして、彼女の背後には、もちろん、あの女も。

 女は、店の自動ドア。そのガラスに映る自分の姿を、じっと見つめていた。

 いや、違う。

 彼女が見ているのは、ガラスに映った北条の姿だ。

 そして、その北条の姿に重なるようにして映っている、自分自身の、ぼんやりとした輪郭。

 まるで、新しい服を試着して、その着心地を確かめているかのように。

 その光景は、俺の背筋を、冷たい氷でなぞられたかのような、悪寒を走らせた。


「お待たせ」


 俺は、袋を受け取ると、早足で彼女の元へと向かった。


「おう。んじゃ、帰るか」


 彼女はそう言うと、何の気なしに、自動ドアへと歩き出す。


 コンビニの外は、日が暮れそうな風景が広がっていた。


 俺は、手の中にある、まだ温かいはずの缶コーヒーが、まるで氷の塊のように、ひどく冷たくなっているのを感じていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る