[2]

 翌日の放課後、梓は、ケーキ屋のショウウィンドウを眺めていた。

 割とおとなしめの通りの一角にある、おいしいと評判のケーキ屋だ。店内は、こぢんまりとしていて白く清潔だが飾り気が少ない。その分、ケーキにふんだんに使われたフルーツがとても映えているのが、梓としては好印象だった。

(うーん、ひとみが好きなのはミルフィーユだけど……オレンジのクリームも結構好きだし。あ、洋なしのショートケーキだって。なんか面白い……こういう変わり種も喜びそうだなぁ)

 昨日は、ひとみが目を覚ましたという連絡を聞いて、嬉しさのあまり慌てて駆けつけてしまったので、今日はケーキを持っていこうとやってきたのだ。

 だが、サイズが小さく値段も安めになっている分、種類がたくさんあって迷う。

(どうしようかなぁ……あんまりたくさん買っていっても、食べきれないともったいないし……あー、でも、好きそうなの全部買っていってあげたいなぁ)

 あれこれと目移りしながら、梓は五分以上も悩みに悩んで、結局、自分がよさそうだと思ったものと、店員からある程度保存が利くものを聞いて、十種類を詰め合わせてもらった。

 箱を抱えるように持ちながら店を出た梓は、そのまま病院へと足を向ける。

(ひとみ、喜んでくれるかなぁ……)

 何となくいつものようにからかいの言葉が飛んできそうな気もするが、それも照れ隠しが含まれてると思えば、かわいく思えるだろう。

 ひとみの嬉しそうな顔を想像しながら、赤信号で足を止めた時だった。

「ねぇ、聞いた? なんかさ、演算が止まるかもしれないんだって」

「えー、マジで?」

「マジマジ。今は演算光もあるけど、これからどうなるか分からないってテレビで言ってた」

「ウソー。演算使えないとヤバイんじゃない?」

「ヤバイって」

 側にいた女子高生らしき二人組のそんな会話が耳に入ってきた。

(……それ、デマなんだけどなぁ)

 いい気分が、一気に台無しだった。

 梓も魔人館からの連絡で、三流ゴシップ誌が書いた記事だと知らされていた。今、魔人館の事務方は対応に追われているという。

 ――結局、昨日は、病院で別れた後、エルデと話をする機会は訪れなかった。

 気になって連絡をしてみたら、魔人館で待機をしている、というメールが返ってきただけで、今日も学校は欠席していた。

 梓には、今朝早く、正式に自由待機命令――行動の制限はないが、即応できるよう備えておく命令――が下っている。

 と同時に、記事の件に関する不用意な干渉そのものが禁じられていた。

 きちんとした目と耳で、自ら情報を確かめれば、まだ真偽が曖昧な事は簡単に分かる。しかし情報というのは、伝播する過程で様々に変質してしまう。下手な動きは、かえって問題を大きくしてしまう可能性があるからだ。

 何もできない自分をもどかしく思いながら、梓は青になった信号を見て足を踏み出す。

 その直後、二人組の片方が、「えー」と不満そうな声を上げた。

「どうしたの?」

「支援要請来ちゃったー」

「こんな時に?」

「マジ最悪ぅ。演算光、無駄遣いしたくないのにー」

「シカトしちゃえば?」

「だねー」

 二人組のやりとりを聞いて、梓は驚きに目を見張った。二人の背中が人混みの向こうに消えていくのを、呆然と見送る。

(そりゃ……確かに、義務じゃないけど……)

 引き受けずともペナルティはないし、梓が強制できるものでもない。けれども、支援要請は、より良い都市を作るため、互いに支え合う仕組みだ。

 それを無駄と言い切る――報酬が保証されていなければ、見向きもされないという状況に、梓は、まるで足下が崩れ落ちるような錯覚を覚えた。

 と、梓の意識の内側で、ちかりと光が瞬いた。

 演算でのメールだ。送り主はネイ。暗号化されたそれを魔人館のルールで復元する。

『ひとみに怪我を負わせた男が逃げた。演算光の無い場所で演算を使い、聖人と名乗ったらしい。ひとみの所へ行くなら、気をつけておきなさい。病院には警戒するように伝達してある。それと、ひとみには黙っているように。彼らを見かけたら、手を出さず私に連絡をする事』

 用件だけを簡潔に連ねた、エルデからの伝言だった。

 その内容を、梓は立ち尽くしてじっと何度も繰り返し読んだ。

 周囲の人の流れでようやく信号が変わった事に気づき、梓は歩みを再開する。

(まさか、三上さんが関係しているの……?)

 聖人という言葉は、そう口にするものではない。既存の演算と違う理論で動く演算があれば……そして、それが強力なものであれば……涼人は手を出さずにいられるのか。

 そこで即座に違うと言い切れるほど、梓は涼人の事を知らなかった。

(もしも……もしも、三上さんが関係していたら……)

 その先を、梓は心の中でも言葉にできなかった。

 答えの出ない問題に頭を悩ませている内に、梓は病院に着いていた。受付を済ませて病室に足を向ける。

「あ、進上さん」

 と、やや中年太りの医師が、人なつっこい笑みで声をかけてきた。

「こんにちは」

「ちょうど良かった。実は伝えたい事があったんだよ」

「なんでしょう?」

「覚えてる? 進上さんが応急処置してくれた中学生の男の子。ほら、自転車の転倒事故で」

「ああ、はい、覚えてます」

 博覧会より一週間くらい前に、自転車に乗っていた男子中学生が転倒し、置いてあった工事資材の鉄筋が脇腹に刺さるという事故があった。

 その現場にたまたま居合わせた梓は、動脈からの大量の出血に対して、咄嗟に近くの商店で家庭用のピンセットを調達し、消毒の上、止血を行った。

 血の海の中、的確に動脈を止血するのは、腕利きの外科医でも難しいとされる。当然、梓に知識や技術は無かったが、どちらも演算でカバーできた。お陰で、男子中学生は一命を取り留めたのだ。

「あの子、昨日、無事に退院したんだ。進上さんに会えなくて残念がってたよ。ありがとうございました、って」

「そうですか……良かった」

「うん。僕からもお礼を言わせて欲しいな。あの子が助かったのは、進上さんが、素早く止血してくれたからだよ。あそこまで踏み込める人は、そうそういない。でも、そういう人がいなかったら、命が危なかった。本当にありがとう」

「そんな、ただできる事をやろうと思っただけで……体が勝手に動いたようなものですし」

 梓の言葉に、医師は笑顔で首を横に振る。

「それが自然にできる人は、少ないんだよ。その行動力と勇気は誇って欲しい。ありがとう」

「あ、ありがとうございます」

 梓は顔が熱くなるのを感じながら小さく頭を下げた。

 それから二言三言を交わし、看護師に呼ばれた医師は、廊下の向こうに歩いていった。

 梓も、少しだけ軽くなった足取りで、ひとみの病室に向かった。



 控えめなノックの音を聞いて、ひとみはゆっくりと体を起こした。

「どうぞ」

 声をかけると、ゆっくりと扉が開く。

「やほ」

「あ、梓先輩。いらっしゃいませ」

「入って大丈夫?」

「どうぞー」

 ひとみはベッドの横のイスを示す。

 そこに座った梓が、小さな紙袋を差し出してきた。中には白い四角の箱が入っている。

「お見舞い。昨日は手ぶらで来ちゃったから」

「おお、ありがとうございます」

 言いながら、ひとみは箱を開けて……眉間にしわを寄せた。じっと横目で梓を見る。

「え? な、なんか変だった? 店員さんのお薦めとか、そういうので選んだんだけど……」

「梓先輩のセンスが、あまりに普通……いえ、むしろ結構いい感じだったんで、なんか落とし穴があるんじゃないかと思ったんですが……それなら安心ですね」

 箱の中には、何種類ものカラフルなケーキが、きちんと調和が取れるように整然と並んでいる。見た目から心を弾ませる事ができるよう、気配りがなされているのが、一目で分かった。

「ちょっと待ちなさい。何よ、それ、わたしにセンスが無いって言うの!?」

「そうは言ってませんけど……ほら、どっちかって言うと、梓先輩って食べる方専門じゃないですか。女の子からもらってばっかりで、あげた話って聞いた事無いですよ?」

 そう指摘すると、梓は、気まずそうに目を逸らした。わたしだってやろうと思えば、とか何とか言っているが、それは指摘しないのがせめてもの情け、とひとみは聞き流す事にした。

 それよりも、少し気になる事があった。

「どうしたんですか?」

「え?」

「なんか元気無いみたいですけど」

「え? そう? いや、別にそんな事は無いけど。むしろ、いい事があったくらいだよ」

「だよ、なんて、普段の梓先輩は言いません。というか、そもそもそんな言い訳がましい事も言わないですよね。気にしすぎ、くらいでさらりと終わらせてます」

 きっぱり言ってから、じっと顔を向けたままでいると、梓は徐々に視線を彷徨わせ始めた。

 それでもひとみがじっと動かずにいると、

「言うから、もう、そんな責めないでよ……」

 ついに梓が口を尖らせて白旗を振った。

 来る途中、支援要請を無視すると言った女子の話を、梓はどこか寂しげに語ってくれた。

 話を聞き終わってうつむく梓を前に、ひとみは、内心でやれやれと首を振った。

(本当にもう、この人は……どこまでお人好しなんだか)

 支援要請を忌避する気持ちを、梓も、理屈では理解できるのだろう。それでもなお、人が人を助けるという事に、誰もが優しくある事に、希望を捨てられないのだ。

 進上梓という人間は、どこまでも人を信じたいと願っているに違いない。

 だが、そんな梓も、迷っている。揺らいでしまうような何かが、あったのだろう。

 心当たりは、ある。エルデと梓の間に、いつの間にか生まれていた溝だ。先日は半ば強引に仲直りさせたが、恐らく本質的な解決はしていないだろう。

 詳細を知らない身では下手な事も言えず、どう声をかけたものかと、ひとみが内心でうーんとうなっていると、梓が伺うように視線を上げてきた。

 ひとみは小さく首を傾げて先を促す。梓はしばし言葉を探すように唇を動かしてから、やがてまっすぐな目をひとみに向けた。

「ひとみは、何で魔人館に入ったの?」

「理由……ですか?」

 今更という気もしたが、ひとみは思い直した。梓は、ひとみが演算を求める理由を知りたいのだ。

 なぜ演算を使うのか――ひとみはその答えを、自身の中からきちんとすくい上げる。

「そうですね……前にも言いましたけど、やっぱり、恩返しだと思います」

「恩返し……」

「演算のお陰で、あたしは人と同じように暮らせます。仮初めですけど、人と同じものを見られます。それを許してくれる演算都市という場所、そこに暮らす人たち……その優しさに、あたしは支えられてます。どれだけ感謝してもしきれない、とても大きなものをもらってるんです。そうしてもらったものの中から返せるものがあるなら、やっぱり返したいんですよね」

「でも、こんな怪我をして……辛い思いをして、他人のために傷ついて……そこまでする必要があるの?」

 わずかな震えが混じった梓の問いかけに、ひとみはしばし黙考する。

「必要があるか無いかで言えば……無い、んじゃないかと思います」

 それは、ひとみの中から自然に浮かんできた思いだった。

 自分が絶対的な存在だなんて、ひとみは思えない。ちょっとしたきっかけで、他人に必要とされるどころか、人を必要としなければ生きていけなくなってしまうのだ。

「やっぱり、そうだよね……。わたしが演助契約なんかしなければ……」

「へ? え? ちょ、ちょ、梓先輩!? ちょっと待って下さい、いきなり何言い出してるんですか!? まさか、あたしの怪我、自分のせいだと思ってるんですか!?」

「だって、わたしが演助契約なんてしなければ……ひとみはこんな怪我しなかった。演助契約なんて重荷を押しつけちゃったから、ひとみは逃げられなくて……。誰かのために、ってひとみは一生懸命なのに……わたしが……。エルデ先輩の言う通りだ……」

 うつむいた梓の声は、だんだんと小さくなっていく。

 だが、最後の言葉だけは、なぜかはっきり聞こえた。すぅ、と頭の中が透明になっていく。

「……梓先輩」

 顔を上げた梓の額を、ひとみは中指で思いっきり弾いた。

「ッッッ!?」

 のけぞった梓は、かろうじてひっくり返るのを堪えると、額を抑えて背中を丸めた。体を震わせながら、恨めしげに見上げてくる視線を、ひとみはきつくにらみ返す。

「この怪我は、あたしの責任ものです。二度と自分のせいだなんて言わないで下さい。いくら梓先輩でも、許しませんよ」

「で、でも……」

「でもじゃありません! まったく、何をケンカしてたのかと思えば……そんな事だったんですか。エルデ先輩の言葉一つで、勝手に人の荷物まで背負われてたまりますか! エルデ先輩ばかり見てるからって、そんなところでまであたしを無視しないで下さい!」

 雷を落とすように言い切ると、梓は叱られている理由が分かっていない子供のような表情になった。

「無視なんて……」

「してるんですよ。人混みでエルデ先輩の先導はするくせに、あたしにはまったく気を遣ってくれないじゃないですか。あ、誤解しないでくださいね、別にそういうのはいいんです。梓先輩、不器用ですからね。あっちもこっちも一度に気にかけるなんて、できっこないですし。それに、梓先輩とエルデ先輩が並んでるのを見てるのって、あたし、結構、好きなんです」

 ひとみは、梓に笑いかけ、その頬にそっと両手で触れる。

「ただ、二人でいる時くらいは……まっすぐあたしを、あたしの気持ちを見て欲しいんです。それくらいの我が儘は……やっぱり、言わせて欲しいんですよ」

「ひとみ……」

 梓の声は、必死に震えを押し隠そうとしているように、ひとみには聞こえた。

(この人は、どれだけの言葉で自分を傷つけたんだろう)

 その中に、自分への気遣いが含まれているであろう事が嬉しく、そしてまた、悔しかった。

「この怪我は、梓先輩のせいじゃありません。あたしが、自分の意思で、自分の信念に従って、都市を守ろうとして負ったものです。絶対に、梓先輩のせいなんかじゃありません。だから、そんな泣きそうな顔してないでください」

 そう言うと、梓は、途中まで謝罪の言葉を口にしてから、はっとその言葉を飲み込んだ。

 言葉を探すように瞬きをしてから、「ありがとう」とかろうじて聞き取れる声で口にした。

「よくできました」

 ひとみがおどけて言うと、梓がぎこちないながらも笑みを浮かべる。

 それから、ひとみは「そういえば」と言葉を続ける。

「さっきの、必要があるのか、ってやつですけど」

 梓は少しだけ気まずそうにしたが、「うん」と先を促してきた。

「本当に、必要は無いと思うんです。あたしが返したいから、勝手に行動して、勝手に返したと思ってる……我が儘みたいなものですかね。そうしたいから、してるんですよ」

 言ってから、ひとみは梓が少しだけ前のめりになって、自分に真剣なまなざしを向けている事に気づいた。

 その視線のむずがゆさに、ひとみは逃げるように前を向いて頬をかく。

「いや、なんかこういうのって、改めて語るとちょっと恥ずかしいですね」

「そう……なのかな。わたしにはよく分からないけど」

 座り直して首を傾げる梓。ひとみは再び梓に顔を向けてから、唇の端をつり上げる。

「まぁ、梓先輩は大ざっぱですからねぇ。もう少し繊細さとかおしとやかさとか、そういうの身につけたらどうです?」

「ちょっ、何よそれ!? わたしだって、やろうと思えばおしとやかさの一つや二つ……!」

「もうそんな数えてる時点でダメじゃないですか……」

 やれやれ、と首を横に振ると、梓は、ぐぐぐと悔しそうにうなる。それがまたおしとやかさとは真逆なのだが、梓はまったく気づいていないようだ。思わず笑ってしまう。

「あ、その小憎たらしい笑いは何よ!?」

 顔を真っ赤にした梓が立ち上がった瞬間だった。

 突如、まるでスイッチを切るように、ひとみの視界からすべての映像が消えた。

「……ッ!?」

 暗闇の中、ひとみは身を固くする。すぐ側にあるはずの、梓の顔が見えない。慌てて演算を再起動しようとするが、手応えが全く無い。

「ひとみ? え、ちょっと、どうしたの?」

「あ、梓先輩? そこに……い、いますよね?」

「何言って……え……? ウソ……まさか……」

 梓が言葉を飲み込んだのが、気配で分かった。ひとみは、パニックになりそうな自分を、懸命に抑え付ける。

(大丈夫……大丈夫……寝るときと同じでしょう? まずは落ち着いて。深呼吸……呼吸を落ち着けて……それから、どうなってるのかを確認するの)

 自分の体を抱きしめ、ともすれば詰まりそうになる呼吸を、しっかりと保つ。

「……ひとみ、肩、抱くよ?」

 梓の声が聞こえた。肩に優しく温もりが触れる。そっと引き寄せられ、柔らかな感触が左半身を包んだ。響くように聞こえてくるのは、鼓動の音だろう。

 梓が――誰かがそこにいる。自分が置いていかれたのではないという安堵が、少しずつ呼吸を落ち着けていく。

「あ、ありがとうございます……もう大丈夫です」

「うん、分かった……離れるよ? でも、側にはいるからね」

 梓のささやかな気遣いが心強い。ひとみは、再び演算を起動しようと試みたが、やはり視界は回復しない。

「……ダメだ。演算領域に、ほとんど繋がらない」

 梓が苦々しく呟く。ひとみも通信などの簡単な演算を試してみるが、結果は変わらない。

「……変ですね。演算領域や演算網そのものは、精神的なネットワークですから、例え何かの弾みで不全を起こしても、そのものが落ちる事は無いはずなんですが……いくつか確保してるバイパスも全部おかしくなってますし……」

 演算は、例えるなら海だ。

 使用者の意識は船。

 扉は起点となる港である。

 そして、発光器や演算塔は、中継的な港と言えるだろう。そこを経由する事で、スムーズに大海へ出て行くイメージである。

 港が無かったり、海が荒れていたら、航海は難しくなる。しかし、海そのものが無くなるわけではない。最悪の場合、自力で演算領域に繋げる事も可能だ。魔人館の職員は全員がそのように訓練されている。

 まして発光器は都市のあちこちにある。まったく繋がらないなど、通常では考えにくい。

「うん。ちょっとこれはただ事じゃないよね」

 梓の緊張を孕んだ声に、ひとみは無言で頷く。

 と、「誰か来てくれ!」という叫びが、廊下から響いてきた。

 梓が体を浮かし……慌てたように戻す。

 しかし、落ち着かない様子なのが、ベッドのわずかな浮き沈みの中で、手に取るように分かった。思わず梓を求めそうになる手を、ひとみは必死に堪える。

「……ひとみ、ゴメン」

 消え入るような梓の声。ひとみは、「ああ、やっぱり」と自然に納得していた。

「様子見て…………それから、演算の復旧、手伝ってくる」

「分かりました。あたしはここで大人しくしてますから、お願いしますね」

「ん、分かった」

 梓の気配が、そっと離れた。

 来た時とは違って足音を立てつつ、梓が遠ざかっていく。

 扉が閉まる。

 ひとみは、張っていた気を解き、小さくため息をつきながら、膝を抱えた。

「まったく……バレバレですよ」

 恐らく外はかなり混乱しているだろう。けが人が出ている可能性もある。そんな中で、梓が演算復旧のために動けるはずがない。助けを求める人を放ってなどおけない性格だ。

 梓が戻ってくるのは、すべてが終わってからだろう。ああ言ったのは、梓の優しさだ。

(本当にもう……あんな声で言われちゃ、引き留められないじゃないですか)

 ひとみが恩返しを「したい事」と言うならば。

 梓にとっては、人を助け、笑顔にする事が、「したい事」なのだ。

(割と本気で言ったのになぁ。結局、エルデ先輩以外、特別に見てくれないんだから。まぁ、それが梓先輩だし……いいですよ、我慢します)

 そう心の中で呟くが……ひとみは、暗闇の中、ぎゅっと己の体を強く抱きしめる。

(本当に……何もできないなぁ)

 混乱した声が、ドアの向こうから漏れ聞こえてくる。ひょっとしたら今にも傷つこうとしている人がいるかもしれないのに、ひとみは助ける事も、防ぐ事もできない。

 自分が無力なせいで、誰かが傷ついているかもしれない。そんな考えが頭に浮かんでくる。

(参ったなぁ……一時的だって分かってるのに…………なんか取り残されたみたい……)

 無駄と知りつつ、ひとみは何度も演算の起動を試みてしまう。その度に、晴れない暗闇が胸の内に募っていく。それでも諦めきれず、何度も演算に頼ってしまう。

 そんな中、ふと演算が起動した。

「え……!?」

 視界はまだ薄ぼんやりとしていて、モザイク画を見ているようだったが、やがて手で届く範囲くらいは物の判別がつく程度に回復した。前に見た近視の人の視界に近い。

 それでも世界が見える事を意識した瞬間、ひとみの全身からどっと力が抜けた。自分が確かに世界に存在している、繋がっているという実感が、ひとみの中に戻ってくる。

(けど……やっぱり…………寂しい……)

 胸の中に残った暗闇が、心の温度を奪っていくようだった。

(梓先輩…………戻ってきて、くれるかな……)

 その姿を求めるように、小さく右手が開かれた。

 もしこの瞬間、梓が戻ってきたら、ひとみは、恥も外聞もなくすがりついていただろう。

 だが、梓はそんな都合の良い王子様ではない。

 その事に途方もない寂しさを感じ、ひとみは思わず病院内のカメラへ意識を飛ばしていた。

 求める姿は、すぐに見つかった。混乱が続く病院の中で、梓は病人を助け起こしている。病院のスタッフが走り回り、比較的病状の軽い患者も、混乱を収めようと手助けしている。

 そんな様子を見て、ひとみは、開かれた己の右手を、ぎゅっと左手で包み込んだ。

 強く、強く――弱さを、その内側に閉じ込める。

(あたしは……あたしがやるべき事は……こんな事じゃない)

 ひとみは、演算によって再び世界と繋がり、孤独から抜け出す事ができた。

 新たな世界を見た時、ひとみは、繋がるために、守るために、演算を使うと決めた。

 ただ暗闇から逃げるのではなく、明るい世界を守りたいと、本気で思ったのだ。

(演算が無ければ、あたしは無力だ……でも、だからこそ、演算があるなら、あたしは、絶対に見続けるって、決めたんだ)

 ゆっくりと、握っていた手を開く。

 もう、誰かを求めるような弱さは、そこにはなかった。

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