[3]

 発光器の設置を見届けた梓達は、魔人館の応援に後処理を任せ、揃って帰路についていた。

 夕焼けに目を細めながら、中央通りをゆっくりと歩いていると、ひとみがぽつりと呟いた。

「うーん……やっぱりなんか釈然としないなぁ」

「ん? 何が?」

「さっきの事ですよ」

 当たり前でしょう? とひとみが眉間にしわを寄せている。

「なーんか引っかかるんですよ」

「何かって……だから、何が?」

「タイミング、良すぎると思いませんか?」

「ああ、そういえば。わたし達がいる時で良かったよね」

「……梓先輩に頭の回転とか期待したあたしが、心底バカでした」

 ひとみは、はぁぁぁ、と盛大にため息をつく。梓もさすがにむっとなる。

「ちょっと、その言い方はあんまりなんじゃないの?」

「これが呆れずにいられますか。タイミングが良すぎたのは、あの不良達です」

「……」

 理解が追いつかない梓に、ひとみは「よく考えて下さい」と人差し指をぴんと立てる。

「発光器の設置に関する日時や運搬ルートは、あたし達だって聞かされたのは当日の、しかも秘匿演算通信でなんですよ? そんな情報を、なんで不良なんかが知ってるんですか?」

「どこかから漏れたんじゃないの?」

「だーかーらー、それがおかしいんですよ。犯罪組織みたいな力のあるところならともかく、あんなチンピラ程度が手にできる情報のはずないじゃないですか」

 その言外に込められた意味に気づき、梓は息を呑む。

「それは大丈夫よ」

 しかし、エルデがあっさりとその不吉な考えを否定した。

「恐らく、館長の作戦よ」

「は? 作戦?」

 梓が目を瞬かせていると、エルデが「ええ」とため息混じりに頬杖をついた。

「あの人のやりそうな事よ。同じような事が都市の四カ所で同時に起こっていたわ」

「ははぁん、そういう事ですか。なるほど、どーりでルート上の警備が無かったはずだ」

 ひとみが、納得と呆れを表情ににじませて、やってられないとばかりに首を横に振った。

 梓だけが、まだ事情を把握しきれておらず、困惑を隠せない。

「……梓は、もう少し推理力を磨いた方がいいわね」

「まったくです。いいですか? 単純に考えて、同時に四カ所で同じ事件が起こるなんてあり得ません。それこそ組織立っていれば別ですが、襲撃犯がチンピラだとすると、その可能性はかなり低いです。そして、あの程度で制圧されるような奴らが、そもそもトラックに近づけるはずないんですよ。だって、重要度を考えれば、もっと警備がついているはずなんですから」

「でも、それは四カ所同時に作業してたから割り当てられなかっただけじゃ……」

「そんなずさんな警備になるのが分かってて、同時に作業しますか?」

 ひとみにそう言われ、梓は言葉に詰まった。

「あとは、あたし達が帰れてるってところですね。まるでもう脅威が無いって分かってるみたいじゃないですか」

「だから作戦……って事?」

「ええ。たぶん、博覧会を前に、不穏分子を一網打尽にしよう、って事だと思います」

 ひとみが推理を披露し終えると、エルデが「それだけじゃないわよ」と話を繋げてきた。

「正直、あんな不良程度、放っておいても問題は無い。けれど、あえてそれをターゲットにしたのは、牽制のためね」

「牽制……えっと、他の不良を、ですか?」

 梓の考えに、エルデはなんだか哀れみの混じった笑顔で「惜しいわね」と返してきた。

「いや、すいません、優しさが痛いです……」

「他の敵性勢力よ。もう少し程度の高い、ね。情報の真偽を惑わす事で、動きを抑制するつもりね。実際、この作戦が最もローリスクなのは間違いない。そうよね、ネイ?」

「はい。演算領域に入ってきた報告によると、かすり傷を負った賦活課課員が一人だそうです。それも偶然に巻き込まれた一般人を庇っての事のようです」

 ネイがよどみなく答える。ネイはエルデの権限を一部委譲されていて、魔人館のデータベースにアクセスする事ができるのだ。

「襲撃犯は全員が移送中で、発光器の設置も予定通り終了したそうです」

「本当に館長は有能ね……味方も躊躇無く騙せるんだから、最高の指揮官よ」

 エルデが辛辣な口調で、しかし掛け値のない賞賛を漏らす。

「最高って……こんなだまし討ちみたいなやり方で……」

「これも都市を守るためよ」

「だからって……!」

「梓先輩、冷静に考えてみましょうよ。いいじゃないですか。発光器は悪用されずに済んだし、チンピラに怯える人が減ったし、課員にもほとんど被害は出てないし、明日からの博覧会は無事に行われる。なにも問題ありません。きちんと日常を守れたんですから」

 淡く光る演算塔をバックに、にっこりと笑うひとみ。

 笑顔そのものが輝いているような光景に見ほれてしまった梓は、ふぅ、と肩の力を抜いた。

「まぁ、確かに……終わりよければ、かな」

「そう、まずは結果ですよ……って、そういえば、終わりと言えばですね、エルデ先輩」

 したり顔をくるりとひっくり返し、ひとみはにたにたとエルデの顔をのぞき込む。

「さっき、北條さんに何を渡してたんですか?」

 ひとみの問いかけに、梓も「そういえば」と思わず口にしていた。

 別れ際に、エルデが片手に収まる程度の小さな包みを月也に渡していたのだ。

「……今日の調理実習のついでに作ったクッキーよ。小麦粉とバターが余ったら、班の子がどうしても作りたいと言ったから」

「へぇ……」

 エルデが甘い物を一生懸命に作っている姿を想像して、梓の好奇心がむくむくと膨らむ。

「あの、エルデ先輩――」

「残念だけど、あなた達にあげる分は無いの」

 料理は苦手なのよ、とエルデがわずかに視線を外し、唇を小さく尖らせて呟く。

「ほほう! かわいい後輩にあげる分はない、それでも北條さんには渡すと……ほうほう!」

「大体想像はつくけど、違うわよ。月也は保護者みたいなものだから渡しただけ」

「いやいや、うんうん、あたしは分かってますよ。大丈夫です」

 大仰に首肯を繰り返すひとみの顔は、どこか慈しむような笑みで満ちている。

 エルデは「まったく……」と呟いて、ふてくされたように頬杖をついてしまった。

 それからも雑談をしつつ通りを歩いていると、突然、ひとみが「あっ」と声を上げた。

「なに? どうしたの?」

「あ、DMです。来月公開の映画で、ちょっとチェックしてるのがあって。あ、ホラーじゃないから安心してくださいね?」

 にやにやとした顔で言われて、梓は言葉に詰まった。図らずも少し安心してしまった事を誤魔化すように、ひとみを睨みつける。

 だがひとみはそんな梓の視線を受け流し、小さくため息をつく。

「でも、公開が来月の頭だから、初日の舞台挨拶には行けないんですよねぇ……」

 来月の頭は博覧会の事後処理のため、例年通り休日返上状態になると通達されていた。休みが取れるのは、早くても十日過ぎだろう。

「あーもー、なんでこんな時期に公開なの!」

 心底悔しそうにするひとみに、エルデが「ひとみ」と呼びかけた。

「はい?」

「代わりにはならないでしょうけど、休みが取れたら、みんなで一緒に見に行きましょうか。その後、食事をごちそうするわ」

「へ……え、あ、いや、そんな、そういうつもりじゃないですよ!? 大丈夫です、仕事は仕事です、きちんと分けてますから!」

 あたふたとひとみが手を振って辞退しようとする。しかし、エルデの涼やかな顔に、提案を引っ込めようとするつもりは見受けられない。

「ひとみの負けだね。うっかりエルデ先輩のかまいたがり精神に触れるから。もう素直におごられるしかないよ。前回も前々回もその前もそうだったでしょ?」

 うぐ、とひとみがたじろいだ。エルデの頑固な部分は、ひとみも承知しているのだ。

「心外ね。私だって息抜きはしたいもの。一緒に後輩にご褒美を用意してもいいでしょう?」

 エルデの言葉に、梓は「ね?」とひとみに視線を向けた。

「梓先輩の言う通りですね……あたしが迂闊でした」

 ひとみは肩を落としてから、気持ちを切り替えるように表情を明るくしエルデに向き直る。

「エルデ先輩。その、ありがたくごちそうになります。楽しみにしてますね」

 そう言ってから、ひとみは少しだけ困ったような表情で付け足す。

「ただ、その……お願いですから、前みたいにフルコースとかはやめてください。本当に」

「……そう。困ったわね。それだと候補の大半がダメね」

 エルデは、小さくため息をついて、ネイと店についての相談を始めてしまった。

 それを見て、ひとみがこっそりと話しかけてくる。

「あの、梓先輩。エルデ先輩って、普段、別に金銭感覚おかしくないですよね?」

「うん。むしろ倹約家だけど……人をもてなすって事になると、どうもタガが外れるみたいなんだよね。覚悟しておいた方がいいよ。フルコースじゃなくても、かなりのものだろうから」

 そう言いつつ、梓は胃の辺りをそっと押さえた。梓自身もひとみと同じ立場なのだ。

 好意は嬉しいのだが、ドレスコードがあるような店で「シェフのお任せ」だの、カウンター席しかない店で「時価」だのといった単語を聞くのは、何度経験しても慣れるものではない。

 今からこれではもたない――と、梓は無理矢理、周囲に意識を向けた。

 いつの間にか梓達は、通りの入口に戻ってきていた。

 だが、普段とは少し様子が違い、多くの人が足を止めていた。脇に身を寄せ、出し物を待つように視線を一点に向けている。

 観客達の視線が注がれる一角には、重機や大型のトラックが何台も止まっていた。

 その周囲には、共通の腕章を巻いた男女が十五名ほど。作業服姿の大人や、カジュアルな服に身を包んだ青年、学生服姿の男女といった、不思議な組み合わせだった。

「おっ、アーチの設置作業ですねぇ」

 ひとみが、弾んだ声で言う。

 それは、博覧会用に都市のデザイナーと有志の学生が作った、巨大なオブジェだ。

 精緻に作られた、二抱え以上もある柱が四本。それに屋根のパーツがいくつか。計六台のトラックの荷台に乗せられたそれらが、巨大なアーチとなって入口を飾るのである。

「相変わらずすごいなぁ……」

 完成したアーチを想像して、梓は感嘆の息を漏らした。

 このアーチは、最適な図柄や構造のニーズを演算で拾い上げ、毎年新しく作られている。

 そのお陰か、製作に参加して有名になったデザイナーやイラストレーター、あるいはその道に進んだ学生も多い。他にも、コンサルタントやマーケティングの専門家として名を成した者もいる。都市の広報事業部によれば、確実なマーケティング効果を上げているとの事だった。

 まさしく博覧会の顔だ。設置を行う作業員や作成者達の表情は、真剣そのものである。

 緊迫した空気の中、一本目の柱が、クレーンのワイヤーでゆっくりと引き起こされていく。柱はそのまま宙につるされ、マーキングに合わせて仮置きされた。

 クレーンを操作する作業員からは、位置の詳細は確認できないはずだが、動きに迷いは無かった。指示を出していた制作責任者らしき人物が、演算で位置情報を伝えていたのだろう。

 位置の確認が済むと、すぐに固定作業が開始される。ボルト留めも対角線を描くように少しずつ行われているのに、流れるような手つきで瞬く間に留められていく。

「へぇ……さすがに手際いいですねぇ」

 ひとみがそんな感想を漏らす。梓も同感だった。

 単なるお祭りの準備ではない、真剣な仕事の雰囲気。伝わってくる緊張感が心地いい。

 続けて二本目の柱にワイヤーがくくりつけられ、ゆっくりと引き起こしが始まる。

 その様子を見ていると、隣に立っているひとみが、「あれ?」と疑問の声を上げた。

「どうかしたの?」

「いや、なんか変な引っかかりが……なんだろう、これ……?」

 ひとみは、小骨が挟まった時のような表情で首を傾げている。

「ん……ひょっとしてこれ……視線? だとしたら……誰、どこ……?」

 ひとみが眉間に深いしわを刻んで、ゆっくりと首を巡らせる。目が見えていた頃のクセらしく、視線を起点に意識を集中した方が、直感的に引っかかりやすいらしい。

 梓は、何となく気になってその動きに合わせて視線を動かす。

「――!? ワイヤー!?」

 ひとみが叫ぶ。

 クレーンのワイヤーが、ピィン、と甲高い金属音を立てて跳ねた。

「〝式の完成フォーミュラ〟!!」

 咄嗟に叫んで、梓は飛び出した。

 柱の下へ迷う事なく飛び込み――両手で柱を受け止めた。

「ぐ、ぅ……っ!」

 痛みにも似た重さが手からつま先へ駆け抜ける。

「梓先輩!?」

 ひとみの悲鳴にも似た声が耳に飛び込んでくるが、意識を向けている余裕が無い。

(くっ……身体操作能力を向上させてるのに……ダメ、支えきれ……)

 最後の一線が切れる直前、全身を苛んでいた重量がふっと軽減した。

 エルデが片手で柱を支えながら、呆れた顔で「まったく」とため息をつく。

「こういう無茶は、せめて筋力強化の演算を覚えてからにしなさい」

「す、すいません……」

「まぁ、あなたらしいと言えばあなたらしいのかしらね」

 そう言って周囲を見渡すエルデにつられて、梓も視線を動かす。

 学生達は勿論、何人もの大人が呆けている中、年かさの作業員達が、梓達の視線に反応して我を取り戻した。すぐさまワイヤーをまき直そうと動き出す。

「平気よ。これはこのまま立てる。その方が安全よ」

 エルデは顔色一つ変えず、柱を上下に動かしてみせる。驚愕の声があちこちから上がった。

「梓。この柱が一番ダメージを受けない立て方、あなたなら演算できるわね?」

「あ、は、はい!」

 返事をした後、梓は深呼吸で息を整え、演算を開始する。

(まずは、方法の検索……)

 演算領域から、柱状の構造物を横からの力で押し立てる方法と、この柱に最適な手の置き場所を探し出す。演算における最も初歩的な、知識の検索だ。

(それから、その二つを融合させて、必要な力とそのかけ方を計算……)

 次に、演算領域という莫大な計算能力を使って、一瞬で複雑な計算の解答を導く。

(最後に、その解答を、体の動かし方へ転換……)

 解答を、体の動かし方というまったく違う理論へ当てはめる事で、最適な動きを構築する。

「――〝式の完成フォーミュラ〟」

 梓は小さく呟き、完成させた演算を、演算領域を通じてエルデに転送する。

「動きを同期して下さい」

「ええ」

 エルデの背中へ、梓は手を当て、ゆっくりと足を踏み出す。

 それに合わせて、エルデも前に。柱を抱えた手が前に滑り、柱が少しだけ持ち上がる。

 突起物や脆い場所を的確に避け、上下運動による基部の損耗を最小限に、柱がゆっくりと立ち上がっていく。

 梓は、一歩進む度に演算を修正し、常に最も効率的な動きでエルデを誘導する。

 身体操作能力の向上とは、いかに効率よく体を動かすか、という事だ。

 それは筋肉の操作に留まらず、周囲の状況も取り込み、最適な行動を選び取る事を意味する。

 最速でもなく、最短でもない――しかし、最終的に最も目的と齟齬が少ない道筋を導くのだ。

 やがて柱は、静寂故に聞こえるわずかな固い音を伴って、天に向けて屹立を果たした。

 ゆっくりとエルデの手が離れる。柱は動かない。梓は、胸に溜まった息を吐き出した。

 途端、歓声が空気を振るわせた。

「わっ!?」

 梓はびくりと肩をちぢこまらせた。

 成り行きを見守っていた人々が、口々に梓達に賞賛を送っている。作業員達も、「あの二人に負けるな!」なんて口に出しながら、柱の固定作業に入っていた。

「うわ……」

 驚愕が去った後、梓の体に再び震えが走る。全身を突き動かすような、体の内側からわき出してくる衝動に、梓は己の顔がほころぶのを止められない。

「な、なんかすごい事になっちゃいましたね、エルデ先輩」

「あなたがやった事よ、きちんと胸を張りなさい。それから、結果はきちんと見届けるのよ」

「は、はい!」

 梓は、ぴんと背筋を伸ばし、顔を引き締める。

 まだ柱が完全に固定されたわけではない。それが終わるまでは、しっかりと安全を確保しなければならないのだ。

「あと、面倒事もきちんと引き受けなさいね」

 ため息混じりのエルデの言葉がどういう意味なのか――梓は、期待に満ちた観衆にもう一本の柱を立てるよう求められて、ようやく理解した。


■       ■       ■


 ばさりと、黒檀の応接机に、紙束が放り投げられた。

「……何を考えているのかしらね、彼らは」

 ふぅ、と深くため息をつき、ソファーに深く身を沈める、四十代半ばのスーツ姿の女性。

 その前に、そっと湯気を立てるティーカップが置かれた。シナモンの香りがふわりと漂う。

「何も考えてはいないのでしょう……と言えたら、気が楽なのですが」

 女性よりも年かさの男性が、重苦しい声で応える。そうよね、と女性は小さく呟いて、ティーカップに口をつけた。

 ほどよい具合のシナモンティーを二口ほど含み、ソーサーに戻す。

 鋭い視線が、紙束に注がれている。

『かわはし市・独立商政特区計画提案書』

 そう書かれた表紙には、政権与党の議員数名の名前が添えられている。

「あまりに条件がこちらに有利すぎる。そして、だからこそ早く結論を出せと言わんばかりのスケジュール。しかも、打診が身動きの取りにくいこの時期? あり得ないでしょう」

「市長は反対のお立場ですか?」

 その問いに、市長――女性は、腕を組んで目を閉じる。

「独立商政特区として、この都市を準主権国家クラスに昇格させる事は、都市計画に含まれている。けれど、今の都市と演算の状況じゃ、まだ時期尚早。演算が都市の〝商品〟として外交輸出の対象になれば、例え関税率が有利に設定されていても、圧力がかかるのは間違いない」

 淡々と述べていた市長の眉間に、力が込もる。

「それに演算技術の機密もどこまで守られるか……いくらブラックボックスパッケージでも、完全な機密なんて望めない。技術者が流出したらそれで終わり……。監視体制を強化しようにも、国相手じゃカバーしきれない。まだ演算の人的資源が圧倒的に足りないわ」

「はい。財政や政治面でも、混乱は避けられません。市長の支持率は当選以来六十パーセント台を維持していますが、無党派層の出身ですから、最悪、立場そのものに関わってきます。恐らくこのスケジュールは、十分な話し合いができないまま強行する事で、支持率が崩れる事を狙ったものです」

「まったく……いちいちやることがえげつないわね」

「ですが……好機では?」

 男性が問うと、市長はゆっくりと立ち上がり、窓へ歩み寄って外を――淡く光を発する演算の象徴、演算塔をまっすぐに見据える。

「確かに……議会の目が博覧会に向いている今というのも、動くには一つの好機だとは思う。……けど、まだ早いわ。まだ演算は、都市は円熟していない」

「荒療治……という言葉もありますが?」

 試すような響きに、市長は一瞬だけ沈黙する。しかし、自分の考えに間違いが無い事を確認し、窓に映る男性へ視線を向ける。

「確かにそうね。でも、演算と幸福は必ずしも比例しないのよ。いえ、むしろ演算だけで見れば、その逆にこそ向きやすい。だから、人が必要なの。人が演算を理解しなければ、それは大きな不幸を呼ぶわ」

「君の故郷のように……か?」

 男性の口調は、躊躇いとも気遣いとも聞こえる重いものだった。

 市長は、ゆっくりと頷いた。窓に映りこむ自らの顔は、いくつもの感情が混ざり合っていて、自分でも何を思っているのかが、よく分からなかった。

 しかし、市長は意識的に表情を和らげ、眉間に深くしわを刻んだ男性にほほえみを向ける。

「そんな心配そうな顔しないで。個人的な感傷で舵取りを誤ったりはしないわ。優秀な補佐役もいる事だしね」

「ああ。期待は裏切らない」

「もう、こういう時だけそんな口調……甘えたくなっちゃうじゃない」

 市長は表情を緩ませたまま、小さくため息をついた。

 一拍おいてから口元を引き締め、振り返る。

「早速だけど、断った時の向こうの動き、予測しておいてちょうだい」

「かしこまりました」


■       ■       ■


 午後九時半を回ろうとしている頃。

 エルデは、寮の自室で机に向かっていた。シャープペンで、ノートに解答を記入していく。

 その動きが止まったところで、そっと机にマグカップが置かれた。

「ありがとう」

 顔を上げて言うと、ネイは、「いえ」と短く言って、またリビングへ戻っていった。

 エルデはシャープペンを置き、マグカップを手にして何度か息を吹きかけ、ゆっくりと口をつける。ミルクを多めにしたココアが、心地よい熱となって喉を滑り落ちていく。

「ふぅ……」

 肩の力を一緒に吐き出してから、エルデはもう一口ココアを飲む。

 マグカップを持ったまま、机の上に広げた化学の教科書をぺらぺらとめくる。

「ふぅ……」

 先ほどとは違う重いため息が漏れた。教科書から手を離し、背もたれに深く体を預ける。

(どうにも落ち着かないわね……)

 胸中を渦巻くのは、くすぐったさにも似た居心地の悪さだ。

 原因は分かっている。夕方の柱を立てる作業。あの時に受けた賞賛が、まだくすぶるように残っているのだ。演算を使って賞賛を受ける事が、どうにもエルデの肌には合わない。

 だが、それでもここまで明確に残る事は、最近では滅多になかった。

 その原因も分かっている。別れ際に梓から向けられた言葉だ。

 ――本当にエルデ先輩を頼ってばっかりで申し訳ないです。

 ――早く一人前になって、一人でも困ってる人を助けられるようになりたいです。

 ――そうすれば、エルデ先輩と一緒に、もっとたくさんの笑顔を守れますから。

 ――それに、月也さんみたいに、エルデ先輩に頼りにしてもらえるようになりたいですし。

 夕日の中で梓が浮かべたまばゆい笑顔。子供のように輝く瞳の向こうには、きっと宝石のような未来が映っているのだろう。演算が幸福をもたらすものだと、心から信じているのだ。

 それは出会った頃から何一つ変わらない、梓の姿だった。

「そんなの……幻想でしかない、のに、ね」

 エルデは、そっと腿を撫でながら呟く。演算の黎明期を知っているエルデは、梓ほど無邪気に演算を信じる事はできない。

「らしくないわね」

 自らに言い聞かせるように言葉を発し、思考を追い出す。

 もう一度マグカップに口をつけてから、エルデは姿勢を正して机に向かった――直後、机の上の携帯電話が震えだした。

 開くと、ディスプレイに『北條月也』と表示されていた。通話ボタンを押す。

「何か用?」

『名乗れとは言わないけど、せめて、もしもしくらい言ったらどうなの?』

 電話の向こうから、呆れたような声が返ってきた。

「月也に対してくらいよ」

『やれやれ。遠慮されてないんだか、軽く扱われてるんだか』

 困ったような笑みを浮かべているのが、目に浮かぶ。それくらいには長い付き合いだ。

 エルデの最初に誰かと遊んだ記憶は、月也と公園の砂場で何かを作っていた事だ。年齢差からして、実態は遊んでもらっていたのだろうが、月也の楽しそうな顔は今でも覚えている。

 それからずっと付き合いがある。特にエルデが両親と死別してからは、保護者として支えてくれた。さすがに気恥ずかしくて口にはできないが、月也は紛れもなく「お兄ちゃん」だ。

「それで?」

『ああ、うん。お礼を言っておきたいなと思って」

「お礼?」

『うん。ほら、昼間、庇ってくれたよね? 大丈夫だった?』

「演算体は痛覚が抑えられているの、知っているでしょう? 別に何ともないわ」

 不良どもが月也に向けて破れかぶれで投擲したバットは、割り込んだエルデの二の腕に直撃したが、もちろんそれは演算体なので、ダメージらしきダメージにはなっていない。

『うん、でも、フィードバックがあるのも知ってるから。クッキー渡す時、左手だったの、痛みがあったからでしょ?』

 その指摘にエルデは言葉に詰まった。

 まるで返事を待つような沈黙に耐えきれず、エルデは、「きちんと手当てしてもらった。もう痛みはない」とぶっきらぼうに告げた。

『そっか。それなら良かった。本当にありがとう。あ、クッキーもね。おいしかったよ』

「……見え透いたお世辞なんていらないわ」

 エルデは、少しだけトゲを含んで返す。

 比較的マシなものを選んで渡したが、それは焦げていないという程度でしかない。自分でも食べてみたが、砂糖は少なすぎたし、固かったしで、まともに食べられたものではなかった。

『そうでもないよ。ちょっと滑らかにしたクリームと一緒に食べたら、ちょうど良かったし』

「……それ、もう私は関係無いわよね?」

 下手なフォローに……というより、あっさりと食べられるものにしてしまう月也の腕に、エルデはなんだか負けた気分だった。

 そんなエルデの内心を知ってか知らずか、『そんな事ないよ』と月也は声を弾ませている。

『エルデが作ってくれた、ってところが一番のポイントなんだからね。その優しさを、僕はおいしく食べたいと思っただけだよ』

「あなたは……」

 エルデは、思わず口元を手の甲で覆って、顔を逸らした。一瞬してから、まったく何の意味もない事に気づく。

 頬がわずかに熱い。ネイが脱衣所で洗濯をしている音が聞こえてきて、少しだけ安堵する。

『そういえば、この時間っていつも勉強してたよね? 邪魔しちゃった?』

「……別に。ちょっと息抜きしてたところだから」

『そっか。一段落したんだ? あんまり根を詰めると良くないよ』

「そうじゃないわよ。解けない問題があっただけ」

『また化学?』

「…………ええ」

『そっか……。頑張ってね、としか言いようがないかなぁ。エルデ、頑固だし』

「余計なお世話よ」

 エルデは、少しだけ唇を尖らせて、そう返す。月也が電話の向こうで小さく息をついた。

『少しはお節介も焼きたくなるよ。エルデくらいじゃないの? 演算を使わないで勉強しているのって』

 月也の真剣な声に、エルデは何も返せなかった。

 エルデは、これまで、勉強に演算を使った事はない。少なくとも、明確に『テスト』と呼ばれるものが現れる学年になってからは、一度も。

『それに、生活の方でだって。そっちはネイさんがサポートしてくれてるからいいけど……これでも心配してるんだからね?』

「分かってる……でも、これは決めた事だから」

 ちらりと、エルデは窓へ視線を向ける。

 そこには、闇色に塗られた空と、月明かりにも似た淡い光を放つ演算塔があった。

 演算都市は、決して闇に沈まない。それは、演算の繁栄と都市の平和を象徴している。

(私の演算は……都市を守るためにあるから)

 エルデは、エルデの意思をもって、演算の使用を自ら制限している。

 エルデにとって、演算とは、演算体を駆使し、都市の秩序を守る事だ。

 それが月也やネイに、心配や負担を強いるものだと分かっていても、貫かねばならない。

 そんなエルデの意思が伝わったのか、電話の向こうで、月也が静かに言葉を飲み込んだ。

『そう……そうだった。また同じ事言わせちゃったね……ごめん』

「構わないわ。心配してくれるのは、少し嬉しいから」

 ぽろりとそう漏らしてから、エルデは、自分が何を口走ったのかに気づいた。月也から返事が何も無いのが、より一層、その内容を強調してくる。

「じゃ、じゃぁ、勉強に戻るから」

 慌ててそう言って、エルデは電話を切った。

 しばらく電話を呆然と見つめて……それから急激に恥ずかしさが増してきて、エルデは十分ほど悶え苦しんだ。

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