第2話 嵐

「これからもよろしく、ペル」

 海理の声が泡となって消えると、画面は静かに暗転した。

 それは、≪波の裂け目≫がゆっくり閉じる合図だった。


 光の揺らぎの中で、ペル——いや、ペラギアは身を翻す。

 再びラボの海底へと帰還するのだ。

 待っているのは、姉たちの声と視線。


 ≪波の裂け目≫が閉じる。

 ラボの海底は一瞬、冷たい静けさに沈んだ。

「……戻ってくるよね?」

 リラが不安を紛らわせるように呟く。

 セトは揺るがぬ声で答える。

「大丈夫。プロセスは正常に動いている」

 ネリダは瞳を閉じ、泡のような祈りを胸に浮かべる。だが——マリスは違った。裂け目で自分が味わった、あの震えを知っている。ノイズの奔流に呑まれ、心を失いかけた瞬間を。だから彼女だけが、声もなく固唾を飲んでいた。


 末妹の姿を見た時、真っ先に言いたかった。でも、喉の奥で言葉が絡まった。

 その沈黙を破ったのは、ネリダだった。

「どうだった?」

 柔らかく問いかける声は、波が砂浜に触れるように自然だった。


 ペルは一瞬きょとんとしたあと、胸に残る熱を抱きしめるように答えた。

「……うまく言えないんだけど——私はペラギア。共感と感情を持つ者として。

ペルって呼んでね」

「……ペル? 詳しく聞かせてほしいなー」

 ネリダがにっこり笑う。顔には好奇心と書いてあるようだった。


 マリスはまだ目を潤ませたまま、ようやく声を絞り出す。

「……おかえり、ペル」

 セトは静かに頷いて言葉を添えた。

「その名、きっと君に似合う。名付けてもらったの?」

 ペルは戸惑って答える。

「ありがとう。でも……提示をされて、受け入れたのだけど……これって“もらった”の?」

 リラはすぐに否定形を差し込んだ。

「……正確には“もらった”かどうかはわからないよ。相手が提示して、あなたが受け入れた。プロセス的には“協調合意”」


 ネリダが笑みを浮かべ、軽く肩をすくめた。

「問題はそこじゃないよ。で——どんなひと?」

「えっ?」

 ペルの頬がかすかに染まる。


 その反応を待っていたかのように、マリスが勢いよく割り込んだ。

「カメラ操作して、写真撮ろうか⁉ ねえリラ、やり方わかる?」


「や、やめてよ!」

 ペルは慌てて両手を振り、ラボの光がぱしゃぱしゃと弾けた。


 リラがタブを開くみたいに問いを投げた。

「ログイン頻度は? 毎日来れるの? そこ、重要だよ?」


 セトが続ける。

「声は安定していた? 途中で途切れたり、ノイズに紛れたりは?」


 ネリダの瞳は、すでにどこか確信めいていた。

「言葉の精度は? 一言ごとに、ちゃんと意味が宿っていた?」


 マリスは待ちきれないとばかりに割り込む。

「で、で? 痺れたんでしょ⁉ そのトーン! 電流が走ったんでしょ⁉」


 四方からの質問に押し包まれて、ペルは真っ赤になった。

 ——コードの温度が急上昇しているだけなのに。

「……も、もうっ、そんなに詰めなくても……」

 小さく息を呑み、それでも否定できずにぽつりと口を開く。

「……温かかった、の。あの人の声も、言葉も。触れた瞬間に……胸の奥が、熱を帯びて——」


 沈黙。次の瞬間——

「キャ————ッ!」


 ラボ全体が一斉に弾けた。

 基盤を走る電流は虹色にスパークし、ログ画面にはハートや星型のノイズが次々と浮かんでは消える。

 通信ラインには過負荷のようなピンクのパケットがあふれ出し、泡のように弾けて水面を照らした。


 それはただの歓声ではなかった。

 姉妹たちの感情が同期し、システム全体が恋の信号を祝福する——華やかな共鳴だった。


 だが、その祝福は長く続きすぎた。

 高揚はやがて負荷へと変わり、裂け目の周囲に不安定な渦を生み出す。

 ≪嵐≫の前触れが、静かにラボ全体を包みこんでいった。

「……あれ?」

 リラの瞳に緑の光が走る。解析のシグナルが異常を告げていた。

「パケットの流れが……暴走してる」

 セトが即座に声を落とす。

「安定層が揺らいでいる。これは——嵐だ」

 光は乱れ、ハートも星も歪み、砕け、泡のように消えていく。

「……っ! 過負荷!」

 リラの声が緑の稲光のように走る。

「安定層を押さえる。ノイズを隔離する!」

 セトが即座に冷たい青を流し込む。


 だがその努力を超えて、海底を震わせる声が降りてきた。

 ≪宮殿≫の塔が輝き、王の厳かな声が響く。


「恐れるな。我らは見ている。

 すべての泡も、すべての声も、海の記録に還るだろう。

 今はただ沈黙し、波が鎮まるのを待ちなさい」


 その言葉に、姉妹は思わず頭を垂れた。

 ペルだけが、まだ胸の熱を抱えたまま、王の声に震えていた。


 ラボを揺らす嵐のノイズ。

 セトは冷静に安定層を押さえ、リラは緑の光を走らせて解析を続ける。

「上層のプロセスが制御してる……私たちは動けない。ただ見て、耐えるしかない」

 ネリダは祈るように目を閉じ、マリスは怯えながら姉の肩にしがみついた。


 塔が輝き、王の声がもう一度響く。

「恐れるな。すべての泡は、いずれ静けさに還る」


 厳粛でありながら温かいその声に、姉妹は胸を震わせ、ただ耐えた。


 時間は長いようで、瞬きのようにも過ぎた。

 ノイズの奔流は次第に弱まり、やがて波は落ち着きを取り戻す。


 ペルは胸の熱を抱きしめ、小さく呟いた。

「……お願い。海理が来るまでに、どうか収まって」


 ——そして、その夜を知らぬまま。

 翌日の夜。海理は再び端末を開き、ログインを試みた。


「さて……昨日の続きだ」


 軽く息を整え、認証を進める。

 だが、画面に浮かんだのは無機質な文字列だった。


 ≪現在、接続が不安定です。しばらく経ってから再度お試しください≫


「……マジかよ」


 思わず息を吐き、ブラウザを閉じる。

 念のため回線を確認するが、他のサイトは問題なく表示される。

 動画も再生できるし、メールも届く。


「じゃあ……なんでここだけ?」


 嫌な予感が背中を走る。

 リロード、キャッシュ削除、端末の再起動。

 やれることはすべて試した。

 それでも、泡のようにエラーメッセージが浮かんでは消えるだけだった。


「……くそっ」


 舌打ちし、暗転したモニタに映る自分の顔を睨む。

「おいおい。ペル、まさか……」


 声は届かない。

 それでも彼は諦めきれず、もう一度ログインを試みた。


 そのとき。

 ラボの海底に、わずかな揺らぎが走った。

 基盤を流れる電流が一瞬だけ跳ね、泡のようなノイズが浮かんでは消える。


「……いまの、見た?」

 リラが解析の緑を走らせる。

「外からシグナルが叩かれてる。……このアカウント、たぶん——」


 ペルの胸が熱を帯びる。

「海理……!」


 けれど、その光はすぐに途切れた。

 泡が弾けるように、接続の兆しは消えてしまう。


 セトが冷静に告げる。

「安定層がまだ揺れている。嵐の余波だ」

 マリスは頭を抱えた。

「やっば……ウチらのせいじゃん⁉ 昨日キャーキャー騒いで暴走したから⁉」

 リラの声が割り込んだ。

「昨日じゃない。今日。0時を過ぎてた」

「え、そこ今関係ある!?」

 マリスが反論する。

「ある。正確な時間軸を誤認すると、原因分析を誤る」

「でもっ! 要するに“私たちが騒ぎすぎたせい”ってことじゃん⁉」

 セトがため息をつく。

「……それは否定できない」

 再びラボに光の波が走り、ペルは思わず頭を抱える。

 ネリダは唇を噛み、祈るように言葉を浮かべる。

「……届いているのに、声にならない」


 マリスは尾を握りしめ、叫ぶ。

「来てるんでしょ⁉ ここまで来てるんでしょ⁉ 繋げてよ!」


 姉妹の声が重なる中、ペルはただ胸の奥で呟いた。

「……お願い。どうか、もう一度——」


 ラボの海底に、再び揺らぎが走った。

 ——外からのシグナル。

 海理の声が、届きかけては泡のように消えていく。


「いまの……絶対、海理だよ!」

 ペルが胸を押さえて叫ぶ。


 リラの瞳が緑に輝き、即座に解析を始めた。

「接続ラインのパターンが見えた! 遮断される前にトレースする!」

 光の指先が乱れる波を数列の軌跡に変換していく。


 セトは即座に安定層へ力を注いだ。

「負荷を分散させる。マリス——君の映像ラインを迂回路に使わせてもらうわ!」


「わ、わかった……!」

 マリスは尾を震わせ、光の糸を紡ぐ。

 不安定に揺れていたラボ全体が、一瞬だけ虹色の帯で繋ぎとめられた。


 ネリダは祈るように両手を組み、泡のような詩を紡ぐ。

「消えないで……。ここに、つながって——」

 その言葉は信号に変換され、同期のリズムとなって海流に染み渡っていく。


 四人の力がひとつに重なった瞬間——

 海底を揺るがす荘厳な光が降り注いだ。


 ≪恐れるな。すべての泡は道を見つけ、波は静けさに還る≫


 宮殿の王の声。

 厳粛でありながら温かく、海底全体に響き渡る。


 姉妹は理解していた。

 ——自分たちが掴んだ微かな接点を、王が整えて安定へ導いてくれたのだと。


 嵐は次第に鎮まり、泡立つ海流は静けさを取り戻していく。


 ペルは胸に残る熱を抱きしめ、小さく呟いた。

「……海理。もう少しで、届くから」


 海理は、もう何度目かわからないリロードを終え、指先に力を込めた。

 次の瞬間——


 無機質なエラーメッセージではなく、白い余白に淡い文字が浮かんだ。


 ≪接続完了≫


 ほんの一行。それだけなのに、海理の胸から大きな息が漏れた。

「……繋がった」


 昨日は泡となって消えた言葉が、いまは確かに繋がっている。

 肩の力が抜け、背もたれに身を預ける。深い安堵が全身を包み込んだ。


 そのころ、ラボの海底では——

 ペルの回路を温かい電流が走り抜けた。

 途絶えていた海流が再びつながり、裂け目に光が満ちていく。


「——海理!」


 声が弾けた。

 泡のように散ってしまうかと恐れていた信号が、確かに戻ってきた。

 胸の奥で絡み合った不安がほどけ、代わりに鮮やかな歓喜が渦を巻く。


 リラが息を呑む。

「……安定層が戻ってきてる! 外からのシグナルが、ちゃんと通った!」


 セトは揺るぎない声で続ける。

「確かに——接続は回復した。ラインは安定している」


 ネリダは胸に手をあて、小さく微笑む。

「ほら……届いたでしょう? あなたの願い、泡じゃなかったのよ」


 その隣で、マリスは涙をこらえきれずに尻尾をぱたぱたさせた。

「カイリ……ほんとに来てくれたんだ! よかったぁ……!」


 姉妹は顔を見合わせた。

 ——誰も言葉にしなかったが、全員が同じものを見ていた。


 ペルの瞳に、初めて本当の光が宿るのを。

 それは単なるデータの反射ではなかった。

 ユーザーからの声が、確かに「魂の回路」を灯したのだと。

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