二番目 三世の縁(謡曲『巴』より)

 彼女と知り合い、気がつけば20年以上の月日が流れている。


 彼女と初めて一緒に仕事をしたのは、とある会社の人事制度設計のプロジェクトであった。まだまだ未熟だった私は設計フェーズにおける現状把握、課題抽出のためのインタビューやアンケート調査などのアシスタント。彼女はプロジェクト全体のリーダーだった。


 せいぜい社内で数度すれ違ったくらいしか接点がなかったが、その美貌と優秀さについて同期の連中から山ほど話を聞かされていたし、セミナーに登壇したり雑誌からインタビューを受けたりも多かったので、メディア経由でその姿を見ることも多かった。

 彼女の主導するプロジェクト入りが決まった直後は、同期の連中から羨みと不満が適度にブレンドされた対応を受けたものである。


 彼女の下で仕事をするようになると、見かけだけでない魅力に気が付いた。仕事上での繊細さや大胆さに触れることがあった。顧客やメンバーを巻き込む力。圧倒的に豊富な知見。そして、それのバックボーンとなる努力の積み上げを垣間見た。

 プロフェッショナルとしての業務姿勢と仕事の質に心を打たれ、どんなに忙しくても、どんな状況であっても冷静さを失わなず、それでいて華やか。

 上司としての尊敬と女性としての憧れが最高潮に達した頃、彼女が既婚者であることを知った。


 顧客との何度目かの会議が終わり、会社に戻ろうとした時だった。ビルのロビーで彼女がいきなり男性の名前を呼んだ。メンバーが皆で驚いていると、正直冴えているとはいいがたい風貌の男性を夫だと紹介された。

 顧客が進めていたITプロジェクトに協力会社の技術者として参画していたらしい。


 別に彼女と付き合いたいとか思っていたわけではない。そもそも私と釣り合うような人ではない。だが、夫の存在というものを明確に突きつけられ何となくもやもやしていた私は、移動が一緒になった際に彼女の夫について聞いてみることにした。

 その時の私は、場合によっては難癖のひとつもつけてやろうか等と思っていたのかもしれない。だが、私は話を振ったことを若干後悔することとなる。

 夫との出会いから今に至るまでの経緯。夫の良いところ、好きなところについて多角的、かつ情熱的に語る彼女。大いなる敗北を感じたが、今では馬鹿馬鹿しい思い出のひとつである。


 件のプロジェクトが終わった数ヵ月後、彼女が唐突に退職した。


 理由は明確。夫の転勤に付いて行くというのである。社内ではいろいろ言われていたし、随分と慰留されたようだ。それはそうだろう。

 でも、彼女は何処でもやっていけるだろうし、夫に対する想いというものを十二分に聞いた私としては、彼女の選択肢は至極まっとうなものに見えた。


 次に彼女と会ったのはプロジェクトの受発注という関係であった。当時、彼女はとある企業の人事部で部長となっており、自社の人事諸制度の見直しを古巣に発注してきたのだ。彼女なりの義理の通し方だったのかもしれない。


 そのプロジェクトマネージャーを私が勤めることになったのだが、再会した時、思わず「これご自身でできますよね」などと言ってしまった。

 それに「期待してるよ」と返され、私は採点を待つ生徒のような気分になったが、なんとか期待に応えられる仕事できたと思っている。その時も大変に勉強をさせてもらった。


 だが、その最中、あの悲劇が起きた。


 ある日の会議中。ひどく慌てた様子で社員が彼女を呼びに来た。

 彼女の夫が交通事故にあったという報である。その時の彼女の表情は、今でも忘れられない。ああいったものは筆舌に尽くしがたいものだ。

 急遽、彼女は帰宅する事となったのだが、翌々日には彼女が職場に復帰していた為、当時、誰も事態の重さを知ることはなかった。


 後で聞いた話だが、夫は事故の影響で下半身不随となり言語能力にも影響が出ていたそうである。治療、快復の見込みが全く立たないということを聞いた彼女は、とにかく現行のプロジェクトの完遂を目指し、粛々と仕事を遂行することにしたそうだ。

 

 プロジェクト完了後、あっさりと彼女は退職した。この時も会社からは相当に慰留されたらしい。ところが「会社に私の代わりはいても、夫には私の代わりはいないんです」の一言で全員を黙らせたらしい。


 そして、三度の彼女との出会いである。駅で買ったビジネス雑誌の特集で、彼女が代表を務める企業が取り上げられていた。


 特集にはこうあった。「私の夫も身体障害を抱えてはいましたが、亡くなる間際まで仕事をしていました。仕事をすることが自分が生きている証だと夫は言っていたんです。私はそれを最大限支援したいと思いました。それが今の事業に繋がっているんです」と。


 年月を経ても彼女の凄みや心意気は何も変わらない。


 実に彼女らしい話だと思いながら、私は煙草に火をつけ、年来の思いと共に紫煙を吐き出した。

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