第8話 大草原の温泉宿で
「健ちゃん、どっか興味あるところある? 行ってみたいところ」
自動にした操縦席からこちらを向いて雪乃が聞いた。
「任せるよ、適当に走ってくれ」
ここらの植物相は、所々(ところどころ)に大きな広葉樹、他には椿や桜など花の咲く木々、桃やリンゴなど実のなる木々、その根元に草花という構成になっている。
花は散らないし果実は食べ放題。草木が枯れないので葉も落ちない。樹下には、どこまでも薄茶色の地面が続き、遠くまで見渡すと少し味気ない思いをするほどの環境だ。人々が食べた果物やその他の食べ残しは地面に落ちれば瞬時に消えるので掃除の必要はない。
草食動物や肉食動物、昆虫などは捕食することも捕食されることもなく、広大な草原のあちこちに分散して住んでいる。
例外として、人に飼われていたペットが元の飼い主と共に暮らす場合もある。
木々の間を縫うように走る道の脇にはテーブルと椅子が配置され、食べ物や飲み物を囲んで老若男女が楽しそうに談笑していた。
やがて雪乃が自分の膝をポンと叩いた。
「そうだ、近くに温泉があるのよ、行ってみようか?」
この流れで温泉かよ? ここには火山なんて物騒なもの無いだろう。とは思ったが面白そうなので賛成した。
林を抜けて草原を走り、大きな丘を二つ超えたところに温泉街は現れた。
川の両脇には三階建てや五階建ての大きな旅館が軒を並べている。
欄干を赤く塗られた橋を渡った先を右折し、ポチは五階建ての豪壮な旅館の玄関前に静かに停止した。
巨大と言って良い四階建ての和風建築だ。各階ともにガラス窓が多いので夜になり明かりが灯ればさぞや幻想的で美しいだろう。
雪乃が〈一泊していこうか〉と提案したので、まぁそれもいいかと思い同意した。
受付を済まし、五十代と思える中居さんの案内で長い階段を上り、角部屋で眺望の良い四階の和室に通された。
障子を開(あ)け放つと温泉街が一望でき、ガラス戸を開けると同時に川を渡ってきた春風が室内を通り抜けていく。
こうしてみると、自然環境や人間関係、あるいは旅館の廊下が小さく軋む音など、現世と来世のあいだには感覚的な違いが、さほど見当たらない。
もちろん現世と比べれば、この世界には動物であろうと植物であろうと、生・老・病・死で悩み苦しむことが無いという決定的な違いがあるとしても。
「健ちゃん、お風呂行こうか。
あっ、いま期待したでしょう? ダメ、お風呂は別々よ」
チッ、つい鼻の下が伸びていたようだな、油断ならない娘だ。
——せっかくだからという事で屋外の岩風呂に入ることにした。
旅館の廊下から裏の小高い丘にかかる橋を渡ると、手入れの行き届いた植え込みが姿を現した。七分咲きのツツジや真っ赤な藪椿を横に見ながら歩けば、やがて男女別に分かれる地点に差しかかる。そこで雪乃と別れ、不満タラタラ気分で男用の岩風呂へと進んだ。
岩風呂と言うだけあってお湯の周囲から中まで岩だらけだ。
中心付近に座って肩までつかり、はるか向こうの丘や小山の連なりを眺める。
この町には高い山が見当たらないが、このように波のような起伏を繰り返すだけの単調な景色もまた良いものだ。
他に誰もいないので、仰向けに湯に浮かんでみた。
夕暮れ時の茜色に染まった浮雲が、この世のものとは思えないほど美しい。
まぁ、それはそうだろう、ここはあの世である。
こういう時は家族や友人たちの顔が夕焼け空にポッカリ浮かびそうなものだが、生前の出来事や人間関係は薄っすらとしか覚えていないので誰の顔も出てこない。
それにしても、この世界の1日は長い。感覚的には既(すで)に三日か四日は経っていると思うが、太陽は未(いま)だ二つの丘の間にあり、沈んでなるものかと抵抗している。
さて、宿に帰ってビールでも飲もうかと思案しているところに七~八人の団体客が入ってきた。実年齢なのか若返っているのか定かではないが二十代から五十代という幅のある年齢層——互いに当り障りのない挨拶を交わした。
大声で世間話に興じているが、この人達は現世に残してきた家族や友人のことを一言も話題にしない。
無理して避けているとは思えない。たぶん、ここでの暮らしが十分に充実して幸せなので満足し、生前の生活状況や家族関係を忘れてしまったのだろう。
この世界に来ると生前の記憶は徐々に薄まり、やがては消滅するという。
オッ! 別に観察していた訳ではなく見るともなく見ていたのだが、まず間違いない。五十代後半で布袋様とも見まがう、ひときわ恰幅の良い男性の目が真っ青に染まっているのを確認した——この男は憑かれている。
さて、どうしたものか——友人たちの目前で紫色の魔物を出したりすれば岩風呂の中はハチャメチャの大騒ぎになるに決まっている。
ああでもない、こうでもないと自問自答している内に肝心なことに気が付いた。言いわけ無用の大失態である、銃を携帯していない——忘れた!
どうしようもないので、しばらく様子を見ることに決め、雪乃を待たず急いで部屋に帰った。部屋なら橋を見張るのに都合が良いので、ひたすら見張る。
しばらくして、さっきの浴衣姿の団体客が賑(にぎ)やかに橋を渡りだしたのでスッ飛んで行き、布袋様に似た男が一人になるのを物陰で待つ——
「健ちゃん何してんの? 部屋でピール飲もうぜ」
肝心な時に邪魔すんじゃないよ、このノー天気娘は。
向こうから下駄をカラコロ鳴らして雪乃が騒々しく帰って来た。それに団体客が気付いて、こちらをジーッと興味深そうに眺めている。
シメシメ——温泉街の散策に出かけたのか? 奴だけいないぞ。
「ビールは後(あと)だ! 何とかして、あの団体客を引き留めといてくれ」
雪乃が〈ハ~イおじさま方、お元気?」と中年どもに作り笑顔で近づいていくのを背中で聞いて階下に降り、コッチだろうと見当をつけて夕闇が迫る川沿いの道を小走りで追いかけた。
いた! 〈射的〉や〈ピリヤード〉と物寂しい大正・昭和の看板が立ち並んだ路地を浴衣姿で、のんびり歩いている。
やがて男は川を隔てた旅館街につながる古びた石橋を渡り始めた。
後に続き、十メートルの距離から問答無用で撃った! その瞬間、青い霧が空気中に噴き出し、すぐ跡形もなく消えた。
これを卑怯と言っても受け付けない。実戦とは、いつだってこんなものだ。
今回は確信があって省略したが、本来なら〈その人から出なさい〉と手順を踏む。
「——健ちゃん、やったわね、初仕事にしては上出来よ!」
憑いていた魔物が消滅したのも知らずボカンとしている布袋様に似た男の目の前で、雪乃が片手をヒラヒラさせて意識を確認している。
「どうしたのだろう、私は?」
憑き物が落ちて明晰夢(めいせきむ)から覚め、やっと魔物との二人三脚から解放された布袋様のような男は、さっきよりも血色が良くなった。
「もう大丈夫ですよ、厄介な同居者は去りましたからね——ところで、お名前は?」
身元を記録したいので質問した。魔物と契約した住民が何名ぐらい居るのか管理人さえ把握していないのだ。今のところ、見つけるたびに処置して数を減らす以外に方法はない。
「私は牟田○……という。それで勘弁してもらえないか」
なるほどね、それで分かった。歴史上の人物だ。
〈お前に富と名誉と快楽を与えるから憑いても良いか〉と、魔物が当てにならない契約を迫った場合、〈了解した〉と承諾して初めて人に憑けるという。
古代から続いている約束事らしいが、契約した結果を気にしない愚かな人間は、いつの時代にも一定数は必ず居る。
元々が残忍で強欲な性格の持ち主に限って魔物を利用したがるのだが、うまくいく筈がない。魔物はもっともっと残忍で強欲で狡猾だ。
やはりと言うべきか、よっぽど過去の行状を隠したいのか、この男は名字だけ教えて他はグダグダと話をはぐらかす。
これ以上聞いても答えることはないと判断して追及をやめた。
己の無能ゆえに約三万人という膨大な数の兵士を餓死・病死させ、撤退する道のわきには累々と白骨を放置して兵士を辱(はずかし)め、行軍した道は後に〈白骨街道〉と呼ばれた。それでも責任を取らなかった男。
いつ何処で憑かれたのか——戦場に派遣される前なのか後なのかは不明だが、どちらにせよ、この男には魔物に目を付けられるだけの資質があった。
負けると分かっていた戦争に駆り出され、こういう卑劣漢の下に配属されたばかりに、心ならずも異国の地に屍をさらした兵士たち。あまりにも悲惨であり、あまりにも哀れである。
あぁ——一件落着とはいえ後味は最悪だ。やめときゃ良かった。
「さぁてと——とりあえず一つ片付いたし、宿に帰ってビール飲もうか」
まったく、お気楽な娘だよ。こっちは膝ガクガクなのに。
宿に着く頃になると先ほどまで残っていた夕暮れの薄明かりが、すっかり闇に駆逐され、宿に灯された黄色味を帯びた照明が昭和の風情を醸(かも)し出していた。
すでに夕食の準備が整っていたので鍋に火を入れ、中居さんに勧められるまま猪肉を試してみる。
味も肉質も猪(いのしし)そのものだが、もちろん本物の肉ではなく植物性の蛋白質ですらない。材料は海や山と同じで、この世界を構成するエネルギー体だ。
ここでの食事は、動植物の命を頂いて申し訳ないという罪の意識を感じずに済むので気分が良い。それが偽善や欺瞞に満ちているにしてもだ——
「お肉もおいしいけど、野菜やキノコも絶品よね。
ホラ、健ちゃん、このマイタケなんて最高よ」
話す間も惜しんで肉とビールを交互に口に運んでいた雪乃が、ようやく口を開いた。頬が少し赤くなっているのは、食物が喉の奥で消えてしまうのと違いアルコールが本来の効果を発揮するからだ。
ただし、酒場でも旅館でも同様、建物から一歩でも出るとアルコールは跡形もなく体内から消滅する。この要らぬ気配りに対し〈勿体ない事するなよ!〉と住民が怒りの反対運動を起こす可能性は決して小さくないだろう。
「あのなぁ、さっきの牟田ナントカのおかげで気分が悪いんだよ。
ア~ァ、事前に身元が分かっていたらなぁ——」
管理人に、身元調査の後でないと仕事しないぞって言おうか、それとも、お願いしますと頼み込んだ方がいいかな。と九谷はまだ引きずっていた。
「あ、そういえばお客さん。さっきね、ここから少し行った石橋で変というか不思議というか、何か面白そうな事件があったみたいですよ」
ビールをチビチビやりながらボヤいていると、仲居さんが右手を招き猫のように振って話に入ってきた。
「いえね、酒屋の若旦那が向こう岸へ渡ろうとしていたそうなんです。ところが、まぁ大変。前を歩いていた人から急に青い煙が噴き出したって言うんですよ。
その人バッタリ倒れたけど、すぐ起き上がって歩き出したそうです。
何があったんでしょうね、ここじゃ病気にならない筈なのに」
「フム、若旦那に俺が見えなかったという事は、魔物がらみの事件に限って、俺たちの関与は無かったことにされるという事だな」
中居さんに聞かれないように小声で雪乃に耳打ちした。
「そのほうが、いちいち騒ぎにならないから好都合じゃない。
でも、間に合って良かったわ。アレと同化する寸前だったんじゃないの?」
「違うな、奴ら納得ずくの相思相愛だね。相性が良くて居心地がいいもんで、ホントはどっちも離れたくなかったんだと思うぞ。いらぬお世話だったって訳だな」
追い出すべきじゃなかった。管理人に頼んで、一緒に魔物国に送っても構わない奴のリストを創ろう——九谷は本気でそう思った。
「あの人、あたしも名前ぐらい知ってるけど、酷(ひど)いことするもんよね。
内地に帰った後は陸軍の学校長をしてたって言うんでしょう? あんなのが教育するのよ! そりゃぁ負けるわ」
雪乃が怒るのももっともだ。もっと怒っていい。
「顔を見ただろ? いかにも人の良い小父さんみたいに何食わぬ顔してんだよ、見つけるのは大変だぞ。
それに、岩風呂で気付いたが、正面から見ないと目玉が青いかどうか確認できなかった。斜めからじゃ駄目みたいだな」
おそらく魔物の一体が強制送還された情報は奴らの仲間に知れ渡っている。これまで以上に用心するようになるだろう。
それにしても雪乃がこんなに大酒のみとは思わなかった。何しろベロンベロンに酔っぱらっても部屋から出れば酔いが醒めるので、延々とそれを繰り返している。住民も反対しているようだし、この仕組みは廃止したほうが良くはないか。
しばらくして、眠る必要はないが、せっかくだから温泉旅館に一泊という雰囲気でも味わおうと、雪乃とは別々の部屋で横になった。
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