小さな冒険者――食べることにも苦労した僕が未来を見つけるまで

とと

第1話 路地裏からの逃走

 パンを盗んだ。

 それだけで胸が裂けそうに早鐘を打つ。

 息が詰まり、喉が焼ける。

 リットンは小さな体でパンを抱え、石畳を必死に駆け抜けていた。


「待てっ! 泥棒だ!」

「こっちだ、追え!」


 遠くで怒号が響く。

 商人か、店主か。

 大人たちの声が迫ると、恐怖で足がさらにもつれる。


 けれど止まれば死ぬ。食わなければ死ぬ。

 リットンは走るしかなかった。


 腹はもう何日も空っぽだった。

 胃が背中に貼り付いたみたいに痛み、足は鉛のように重い。

 それでもパンの重みだけは確かに腕にある。

 その温もりが命綱だった。


「はぁ、はぁ……っ」


 裏通りに飛び込み、角を曲がる。

 鼻を刺す腐臭と汚れた水たまり。

 だが逃げ道はそこしかなかった。

 走り抜けようとした瞬間、影が四方から立ちはだかった。


「へへっ、何してんだリットン」

「いいもん持ってんじゃねぇか」

「腹、減ってんだろ? そいつ寄こせよ」


 同じ孤児たちだった。

 ボロ布をまとい、骨と皮ばかりの少年少女が、牙をむくような目でリットンを取り囲む。

 彼らもまた生きるために必死。

 だからこそ、容赦はなかった。


「や、やだ……これは、ぼくのだ!」


 リットンは胸にパンを抱きしめ、後ずさる。

 だが背後は壁。逃げ場はない。


「はっ、盗んできたくせに偉そうに!」

「お前一人で食えるわけねぇだろ!」


 ひとりが飛びかかり、腕を掴む。

 リットンは必死に振り払おうとするが、細い体ではどうにもならない。

 もうひとりがパンをひったくり、残りが押し倒してくる。


「やめろっ! 返せっ!」

「がはは、もうお前のじゃねえ!」


 小さな拳が容赦なく頬に当たる。

 腹に、背に、足に。

 地面に叩きつけられ、肺の空気が一気に抜けた。


「っ……く、うぅ……!」


 泥と埃にまみれ、口の中に血の味が広がる。

 腕を伸ばすが、パンはすでに遠く。

 笑いながら奪い合う声が耳を刺した。


「見ろよ、まだあったけえぞ!」

「うめぇ! うめぇ!」

「もっとくすねてこいよ、リットン!」


 喉が焼ける。

 涙が勝手ににじむ。

 誰も助けてはくれない。

 自分が弱いからだ。

 生きるために盗んだ。生きるために必死に走った。それでも奪われ、踏みつけられる。


「……いやだ……死にたくない……」


 声にならない呻きが喉に詰まる。

 胸が裂けるように痛い。

 息ができない。

 けれど、まだ生きたい。

 腹いっぱい食べてみたい。

 笑ってみたい。


 折れた腕を動かし、泥の上に這うように伸ばした。

 誰か、誰でもいい。

 この手を、掴んで――。


 拳の雨が止まない。

 頬に、腹に、背中に、次々と打ちつけられ、痛みと衝撃で思考が霧散していく。

 泥に押し付けられた顔は呼吸さえままならず、視界はすでに赤黒く染まっていた。


「はぁ……っ、や……めろ……」


 声を出したつもりでも、喉からかすれた息しか漏れない。

 殴る側の孤児たちの笑い声と罵声が、耳の奥でごうごうと響く。


「もっとやれ! こいつ弱ぇぞ!」

「パンくすねるなんて生意気なんだよ!」

「俺たちの腹を満たしてから死ね!」


 リットンはもう反撃する力もなかった。

 ただ、か細い腕を泥の上に伸ばす。

 届くはずのない誰かに向けて、震える指を突き出した。


 ――助けて。


 言葉にはならなかった。喉がつぶれ、唇は血で固まっていた。

 けれど確かに心の奥底で、そう叫んでいた。


 その瞬間、空気が裂けた。


「……ガキども、何をやってやがる」


 低い声が響いた。

 重たい靴音とともに影が落ちる。

 孤児たちが一斉に顔を上げ、次の瞬間、蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。


「ひっ……!」

「や、やべぇ……!」

「逃げろ!オーガだ!」


 リットンの視界に、巨体が映り込む。

 茶色の髪、岩のような肩、丸太のような腕。

 光の乏しい路地裏で、その姿は本当にオーガの化け物に見えた。


 その男――タチヌイは、泥に倒れたリットンを一瞥した。

 巨大な手が伸びてくる。殴られるのか、それとも……。


「……生きたいか」


 かすれた声で答えられない。

 だがリットンの手は、勝手にその腕を掴もうとしていた。

 男の口元が、にやりと歪む。


 ――そこで意識は途切れた。


 次に目を覚ましたとき、柔らかな布団の中だった。

 見慣れない天井。

 かすかに木の香りが漂う。

 体を起こそうとした瞬間、全身が悲鳴を上げる。


「まだ寝てなきゃだめ」


 澄んだ声がした。

 金色の髪を揺らした女性が椅子に腰掛け、盆を持ってこちらを覗き込んでいた。

 美しい――と思うより先に、リットンは体をこわばらせた。

 知らない大人は、怖い。


「水を飲める? ほら、口を開けて」


 女は湯気の立つ椀を差し出す。

 中身は薄いスープだった。

 リットンは警戒心で体を強張らせながらも、乾いた喉が勝手に動く。


「……」

「大丈夫。毒なんて入ってないわ」


 微笑んで匙を口に運ばれると、思わず受け入れてしまった。

 口の中に広がったのは、温かくて優しい味。

 塩気と肉の出汁。


 涙がにじむ。


「……う……」


 次の瞬間には、がつがつと椀に口をつけていた。

 止まらない。

 喉が、胃が、全身が欲していた。


「ゆっくり。そんなに急がなくてもなくならないから」


 女が笑う。

 だがリットンの耳には届かない。

 まるで野犬のようにスープを飲み干し、残りを啜り尽くした。

 椀を置いたとき、肩で荒く息をしていた。


「ふふ。よく食べたわね。……まだ警戒してる顔だけど」


 女は盆を置き、そっとリットンの髪を撫でた。

 リットンは思わず体をこわばらせる。


「ここは宿屋よ。あなたを拾ったのは――親父さん。大きくて怖そうな人、見たでしょう?」


 あのオーガみたいな男が脳裏に蘇る。

 リットンは震えた。


「怖くないわ。……まあ、顔はちょっと怖いけど」


 女はくすりと笑い、続ける。


「安心して。あなたを叩いたりはしない。むしろ、ここで生きる道をくれたのよ」


「……道?」


 リットンの声は小さくかすれていた。

 彼女はうなずく。


「そう。安心していいわ」


 信じていいのか分からない。

 温かさと優しさが、逆に恐ろしい。

 リットンは布団を握りしめ、警戒の目で女を見つめ続けた。


 温かいスープで少し落ち着いたリットンに、金髪の女はゆったりとした声で告げた。


「ここは宿屋よ。名前は風灯デンロゾーの宿。私はトチェイ、この宿の女将。あんたを拾ったのは、うちの親父さん――タチヌイ」


「……おやじ、さん?」


 リットンの瞳が揺れる。

 路地裏に立っていた巨体。

 思い出すだけで喉が縮む。


「そう、怖そうでしょ。でも、心配いらないわ」


 女将は小さく笑い、振り返った。

 そこに立っていたのは、まさにその「怪物」だった。


 木の梁よりも分厚い肩、岩を削ったような顔。

 茶髪の大男が、腕を組んでこちらを見下ろしていた。

 リットンは思わず布団をかき寄せる。


「……ひっ」


 男は眉をひそめ、低い声で言った。


「生きたけりゃ、働け」


 それだけだった。

 だが、荒々しい響きの奥に、どこか優しさがあった。

 突き放すようで、突き放し切らない。

 リットンは言葉を失い、ただ頷くしかなかった。


「ふふ、あんたにしては優しい言葉ね」

「余計なこと言うな」


 女将と大男が軽口を交わす。

 そのやり取りに、リットンはほんの少しだけ肩の力を抜いた。


 昼下がり、リットンは女将に連れられて食堂へ降りた。

 広い木造のホールには長い机がいくつも並び、陽の光が差し込んで床板を照らしている。

 数人の子どもたちが椅子を拭いたり、皿を並べたりしていた。


「新しい子よ」


 女将が声をかけると、年上の少女が振り向いた。

 栗色の髪を三つ編みにした、穏やかな目の娘。


「ローヌ。面倒を見てあげて」

「はい。――こんにちは」


 少女はにっこり笑った。

 リットンは思わず視線を逸らした。どう返せばいいのか分からない。


「……」

「恥ずかしがり屋さん? 大丈夫、すぐ慣れるよ」


 彼女の隣には、筋肉質な少年が立っていた。

 粗末な服でも背筋はしゃんとしている。


「こっちはクーガン。力仕事は任せてる」

「……おう」


 短くうなずくだけで、表情は硬い。

 だが目は冷たくはなかった。


 さらに奥から、同い年くらいの少年がひょっこり顔を出した。

 髪はぼさぼさ、目だけがきらきらと輝いている。


「お、新入りか! 俺はバンター! よろしくな!」

「……」

「名前は? えっと……」

「リ……リットン」


 ようやく口に出せた自分の名前。

 バンターは満面の笑みでうなずいた。


「いい名前じゃん! じゃあ今日から仲間だ!」


 その無邪気さに、リットンの胸が少しだけ温かくなる。


「ほら、あんたも働きなさい」


 ローヌが桶を差し出す。

 皿洗いだった。

 冷たい水に手を突っ込み、皿をこすり落とす。

 慣れない作業に指がかじかみ、皿を落としそうになる。


「大丈夫。ゆっくりでいいの」

「……うん」


 ローヌの声は柔らかく、叱るというより寄り添うようだった。

 一方でクーガンは、無言で隣に立ち、落としかけた皿をさっと支える。


「手首で押さえろ。力じゃなくて、角度だ」

「……ありがとう」


 ぶっきらぼうだが、それは確かに助ける手だった。

 リットンは胸の奥がざわつく。誰かに支えられることなんて、今までなかった。


 夜。

 長い一日を終えると、食堂に大鍋が運ばれてきた。

 湯気を上げるシチュー。

 分厚いパン。

 焼いた肉。

 子どもたちも従業員も、みな机に集まって椅子を並べる。


「ほら、遠慮しないで座りなさい」


 女将に促され、リットンは恐る恐る端に腰を下ろす。

 目の前に盛られた皿。

 香ばしい匂いに、喉が鳴った。


「いただきます!」

「いただきます!」


 声が重なり、一斉に手が伸びる。

 リットンも、震える手でスプーンを取った。


 一口。舌に広がる濃厚な旨味。

 二口。腹に落ちた熱が全身を駆け抜ける。

 三口。もう止まらなかった。


「……う、うま……っ」


 夢中で食べる。

 バンターが横で笑った。


「ははっ、犬みたいだな!」

「バンター、からかわないの」


 ローヌがたしなめる。


「いや、いいんだ……」


 リットンは息を切らしながら言った。


 腹が、膨れていく。

 こんなに満たされたことはなかった。

 知らぬ間に、目から熱いものが零れていた。


「……泣いてるの?」


 ローヌがそっと尋ねる。


「え……あ、いや……」


 リットンは慌てて袖で拭う。

 けれど止まらなかった。

 あまりに温かく、優しく、幸せすぎて。


 タチヌイが遠くの席からちらりとこちらを見た。

 目は怖いが、その奥には確かな光があった。


「……ここで食って、生きろ」


 ぶっきらぼうな声が響く。

 けれど、それはこの夜一番の安心を与える言葉だった。


 リットンは声にならない嗚咽を漏らしながら、再びスプーンを握った。

 初めて『居場所』というものを、心から感じていた。

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