第20話 私は、絶対奈々に美月のそばを離れたくないって言わせてみせるよ
チャイムが鳴る。誰もいない廊下を美月の手を引きながら歩いていると、美月が後ろからぽつりと私の名前を呼んだ。
「……奈々」
こんな風に名前を呼ばれただけで、胸の内に嬉しさが込み上げる。
あんなに悩んでたってのに、結局美月を前にするとこれだもん。私も単純だな……。
嬉しそうに笑顔で振り向くのもなんだかカッコ悪いから、前を向いたまま「なに?」と小さく返事をした。
美月は鋭い。きっと私がどう出るか観察しているに違いない。
本当は口から心臓が飛び出そうなくらい緊張していた。これ以上心のうちを透かし見られるのは怖い。美月から距離を取らないと。
そう思うけど、握った手だけはどうしても離せなかった。
「……ごめんね、ありがとう」
「体調悪いんでしょ? 顔、真っ青だよ。保健室で少し休んだほうがいいよ」
保健室のドアには先生が不在であることをお知らせするかわいいプレートが下げられていたが、ドアには鍵が掛かっていなかったから、私はそのまま美月の手を引いて室内に滑り込んだ。
振り向くと、美月がおずおずと上目遣いで私を見上げる。
うあああ、かわいい……!!!
久しぶりにこうして顔を見ると、気持ちが際限なく溢れてくる。
努めて感情を殺して、保健室のベッドのカーテンを引き、美月に座るように促した。
「大丈夫?」
顔を覗き込むと、美月の瞳が歪んだからぎょっとした。みるみるうちに瞳にじんわりと涙が溜まっていく。
えっ、待って、ちょっと待って……なんで泣くの!?
「み、美月、どうしたの?」
「……もう二度と、口聞いて貰えないかと思ってた」
「えっ?」
私? 私のせい?
猫みたいに丸い瞳から、ぼろぼろと涙が溢れて、細い顎を伝って落ちていく。
「奈々、ごめんね。私、何か間違えた? 奈々が傷付くことしちゃった? この一か月、ずっとつらかった」
「ご、ごめん……」
俯いて、肩をふるわせて泣く美月の肩を撫でる。細い。また痩せたみたい。
私のせいで余計な考え事を増やしてしまったと知り、後悔の念で押しつぶされそうになる。
「……奈々、どうして返事もくれなかったの?」
「美月にあんなことしちゃったから、合わせる顔がなくて」
「していいって言ったの、私だよ。奈々のせいじゃないのに」
泣き止まない美月を前にどうしたらいいかわからなくなる。一生懸命肩や背中をさすっても一向に泣き止んでくれる気配がない。
大きな涙の粒が流れ落ちてスカートに染みを作るから、私は慌てて自分のセーターの袖を伸ばして美月の涙を拭った。
「泣かないで、美月。無視して本当にごめん」
「奈々、私のこと嫌いになった? もう好きじゃないの?」
「そんなことないよ」
「じゃあ、もう無視しないって約束して」
「わかった、約束するからもう泣かないで」
美月に泣かれると、胸が苦しくなって私まで泣きそうになってくる。
美月が涙で濡れた瞳で私をじっと見て、小指を立てて差し出した。
「……指切りして」
言われた通りに美月の小指に自分の小指を絡める。
「もう無視しない。約束する。だから泣かないでよ、お願い」
縋るように言うと、美月がぱっと笑顔になって、途端に涙が引っ込んだ。
「奈々、約束だよ? 破っちゃダメだからね」
あれ……?
なんかしてやられた気がするけど、このまま美月に泣き続けられたらこっちまで泣きそうだったから、私は黙って頷いた。
「それでさ……美月、どうして生徒指導室にいたの? 何かあった? 顔真っ青だったから、本当に心配したよ」
話題を変えたくて思い出したように言うと、美月の表情が曇った。心配になって俯いた顔を覗き込むと、美月は私から視線を逸らした。
「美月?」
「……奈々、絶対に誰にも言わない?」
「言わないよ」
どくりと心臓が跳ねる。
イヤな想像が脳裏を駆け巡った。
まさか。いやまさかね。どうか私が想像したような話ではありませんように。
「最近、私授業中も寝てるでしょ」
「……なんだ、そんなことで呼び出されたの? びっくりさせないでよ」
安心してどっと力が抜ける。思わず私も美月の隣に腰を落とした。
阪田も何考えてるんだか。美月は、順位を落としたとは言え間違いなくトップクラスの成績だ。授業中に寝ているからってなんだというのだろう。
ただイチャモンを付けたかっただけなのかな。真希が前に言ってたとおり、阪田って暇なのかも。
すっかり安心した私をよそに、美月はまだ神妙な顔を崩さないまま続けた。
「今の家庭環境のこと、先生に伝えたんだ。弟の夜泣きが激しくて眠れていないんだってこと。そしたら……“力になれることないか”って、手を握られて」
「は?」
地を這うような低い声が出た。
なんだそれ。怒りで目の前が赤く染まる。
阪田。何考えてんだよ。おまえ、腐っても教師だろうが。
「すごく怖かった。大丈夫です、ってしか言えなかった。頑なに断ってたら諦めてくれたけど」
「……担任に言うべきだよ、ていうか言いに行こう、いますぐ」
ギュッと美月の手を握って引く。でも美月は立ち上がらなかった。
「だめだよ! 奈々、誰にも言わないって約束したじゃん。もう終わった話だよ」
「生徒に手を出そうとするなんてありえないよ! 美月は腹立たないの!?」
私たちはまだ子どもで。まだ守られるべき存在のはずなのに。
悪どい大人たちは、容赦なく搾取しようとしてくる。
「……私のために怒ってくれてありがとう。でも大丈夫。これ以上お母さんに心配かけたくないし、受験前に波風立てたくない」
私の手をぎゅっと握って静かに言った美月の言葉に、沸点に到達して今にも吹き上がりそうだった怒りが急激に落ち着いていくのがわかった。
「……本当に気をつけてよ、美月……」
怒りが引いて行くに連れ、私は自分を客観視して……どの口が言えた台詞だ、と思った。
私だってあの夜、性欲に負けて美月を抱こうとしたくせに。やっていることは一緒じゃないか。
「……奈々」
「なに……?」
「これからもずっと私のそばに居て、お願い」
私の肩に美月が擦り寄ってくる。ずるい。そんなことされたら私は美月を振り払えない。
至近距離で潤む瞳と目が合って、私はごくりと喉を鳴らした。
「……美月は、私のこと好きじゃないよね」
「好きだよ」
「それはどういう好き? 友達としての好きでしょ?」
むき出しの心をぶつけるのは怖い。でも、聞かずにはいられなかった。
「……正直、自分でもよくわからない。そういうの、今すぐに答えを出すのは難しいよ」
「わからないって言わないで」
お願いだから答えてよ。そしてどうかちゃんと私をフッて。期待させるようなこと言わないで。
私の祈りが通じるわけもなく、美月は私の頬に手のひらを当てた。
「……この気持ちが恋かどうかって、そんなに重要なことかな? 私のこと好きにして良いって言ってるのに、奈々はそれじゃ足りない?」
「あんなに怖がってたくせに」
「……怖がってない。ちょっと緊張してただけだよ」
「本当に?」
私の頬に触れていた美月の手を摑むと、美月の身体を抱き寄せた。
至近距離で顔を覗き込む。ほらね、やっぱり怯えた目をしてる。我慢しようとしているのが、強ばる身体の筋肉から伝わってくる。
「……嫌でしょ? 怖いよね? 拒絶していいんだよ」
私を押し退けて「やっぱり無理」って言って。
そうすれば全て無かったことにできる。
結構な覚悟を持って言ったのに、美月は顔色ひとつ変えなかった。
「私は奈々を拒絶したりしないよ」
「どうして?」
「ただそばにいてなんて言わない。奈々が欲しいもの、私があげられるものなら全部あげる」
私が欲しいもの、か……。苦笑いしそうになる。なんて残酷なことを言うんだろう、この子は。
「……私が一番欲しいもの、美月は絶対にくれないよ」
「奈々が一番欲しいものってなに?」
「教えてあげない。自分で考えて」
こんなに簡単なこと、美月にはわからないんだ。
そう思ったら悲しくて、むなしくて、あまりにもつらかったから、少しだけ意地悪してやりたくなった。
細い肩に体重をかけると、細い身体は簡単にベッドに沈んだ。
保健室のくたびれたパイプベッドが生々しい音を立てて軋む。
両手首を押さえつけて、私は美月の薄桃色の唇を見つめた。
美月の唇はいつも口角が少し上がっていて、真顔でも不思議と微笑んでいるように見える。
この唇も好き。かわいい。あの夜のキスはあまりにも夢中で、必死で、どんなふうにしたか記憶が朧げでしっかりと思い出せない。
美月は一度大きく呼吸すると、覚悟が決まったような眼差しで私をまっすぐに見据えた。
吸い寄せられるようにゆっくり顔を近づける。美月が軽く顎を持ち上げたから、誘われるように自分の唇を押し当てた。
美月だけなんだよ。言葉一つで、私の心をこんなにも簡単に傷付けることができるのは。
この唇から発せられる甘く優しい声と言葉はまるで刃物のように鋭くて、私の心は傷だらけ。次から次へと新しい傷が増えるから一向に痛みはなくならない。
美月は、わがままだし、理不尽だ。
進学先を変えろなんてさ、私の人生をなんだと思ってるの? 責任取るつもりもないくせにそんなこと言いだすなんて信じられないよ。
でも好き。そんな美月が私は死ぬほど好き。
おかしいよね。馬鹿だなって自分でも思うけど。
柔らかくて弾力のある唇の感触を確かめるように、角度を変えて唇を押し当てて、何度もキスを繰り返す。
このまましたいな……。
美月と、最後までしたい……。
そんなふうに騒ぎ始める本能を全力で押さえつけて、名残惜しくも唇を離して顔を上げた。
真っ白なシーツの上。二つの吐息が静まり返った保健室に響く。
美月の頬も赤く染まっていて、熱に浮かされた表情は破壊力抜群だ。
ガツンと後頭部を殴りつけられたような衝撃だったけど……グッと奥歯を噛み締めて、なんとか耐えた。
両腕を解放して、美月の濡れた唇を親指で優しく拭う。
「……たすくの育児、手伝うよ、卒業までは」
「卒業してからもずっと一緒に居て。お願いだから同じ大学受けようよ。東京なんて行っちゃやだ」
「……私が一番欲しいものを、美月がくれるならね」
それなら私は、迷わず美月と同じ大学に行く。美月が心をくれるなら。
「ふーん……? わかった、奈々がそこまで言うなら私にだって考えがあるからね。……私は、絶対奈々に美月のそばを離れたくないって言わせてみせるよ」
美月は突然私に手を伸ばして、私の首をぎゅっと抱き寄せた。
驚いて固まってしまった私の耳元に唇を押し当てると、とびきり甘い声で優しく私に囁く。
「……キスだけじゃなくて、次は最後までしようね」
「……っ、何言ってんの!?」
慌てて顔を上げると、顔を真っ赤にした私を見て、えへへ、と美月が満足そうに笑った。
かわいくて愛おしくて守ってあげたくなるような、天使みたいな笑顔なのに、なぜだろう、今日だけは美月が悪魔に見える。
どうしよう。もしかして私はとんでもない女の子を好きになってしまったのかもしれない……。
そんなこと、今更気付いたって……もう遅いんだけどさ。
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