田村 計

第1話

 ああ、女だ。

鹿島孝三郎は、そう感じずにはいられなかった。

 うっすらと汗ばむ初夏の夜だった。居間で風呂上がりの缶ビールを傾けながら、孝三郎は隣の和室に目をやっていた。目線の先には我が子、春の姿があった。『我が子』と言っても実子ではない、妻の連れ子だ。薄いブルーのシャツ一枚羽織った姿で、亡き妻が使っていた古いドレッサーの前に正座して、春が鏡の中の自分を見つめていた。眉をひそめて口元をオーの形に突き出すと、右手の先でつまんだ口紅を下唇へ軽くおしあてている。濃い紅が左から右へ柔らかな弧を描く様子を、孝三郎はぽかんと見つめていた。

 目撃というには余りにもありふれた光景だ。だが、その様が孝三郎に現実を突きつける。

 春の化粧姿など見慣れていたはずだった。今は家を出て、月に一度くらい顔を見せるだけの我が子だが、いつ見てもきっちり化粧を決めている印象しかない子だった。化粧した春の笑顔は亡き妻の面差しによく似ていた。

それでも、この子を女性だと意識したことはなかった。連れ子だとしても、妻が亡くなって二人だけになったとしても、自分にとってはたった一人の大事な子どもであってそれ以外の何者でもないのだ。そう思ってきたし、そう接してきたつもりだ。

 だが思ってしまった。女だと。

「どうしたの?」

 鏡の中の目が、ぎこちなくこちらを向いた。

「化粧してるの、そんなに気になる?」

「いや」

「そっか、そうだよね、別にみても面白くもないし」

「まあ、そうだな」

 口からうまく言葉が出てこない。どぎまぎしながら、孝三郎は目をそらす。

 お前に女を感じたなんて、そんなこと口に出せるわけがないじゃないか。

 態度がおかしいと感じたのだろう、春がふっとため息をついた。

「もしかしてこの間の話、気にしている?」

 この間の? 問い返そうとして孝三郎は口をつぐんだ。あんな大事な話を一瞬忘れていたなんて、とても春には言えなかった。

「気になるといえばそうだな。お前が連れて来たあの若い男、どう見てもまともに見えなかったし」

 よく分からない横文字の職業を孝三郎に告げ、その男は丁寧に頭を下げた。胡散臭いというのが第一印象だった。春はこの男に騙されているんじゃないか。耳触りの良い甘い夢をささやかれて、その気になっているだけなんじゃないか。うがった見方と言われるかも知れないが、こんな男に着いていくなんて辞めておけと言いたかった。

 だが。

 孝三郎は立ち上がった。妻の仏壇の下の引き出しを開けると、奥に隠した紙切れを引っ張り出す。

「おい」

春の鼻面に、孝三郎はその薄っぺらな紙を突き付けた。

「これでいいか」

 目を見開いて、春が孝三郎を見つめる。それからそっと手を伸ばして、孝三郎の手から紙切れを受け取った。

「いいの? 本当に?」

「いいも何も、それがお前の望みなんだろう」

「うん、だけど、お父さんが許可してくれないなら、……あきらめるつもりだったよ」

 紙に記された孝三郎のサインを春が指先でなぞる。

「手術の保証人」欄に書かれた、右上がりの太い文字。その名前に触れながら、春がうつむいた。 

「性転換手術なんて、女性になるなんて許してくれないかもって」

 春に女を意識したことはなかった。どんな服を着ていても、どれほど化粧を決めていても、春は孝三郎にとってたった一人の大事な息子だったのだから。

 だが思い知ったのだ。この子は女なのだと。

「お前の好きにしたらいい、ただ、あのうさん臭いコーディネーターはやめとけ」

 下唇だけ色づいた、無骨な春の表情がゆがむ。半分笑い半分泣いたようなその顔で、春が手術書類を抱きしめる。その様を見やりながら、孝三郎はビールを飲み干した。

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田村 計 @Tamura_K

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