池の面

香月文恵

1

 揃って書斎に入り、その後暫く出て来ない両親のことを思い出し、わたるは「またか」と顔をしかめかけた。なぜ自分が嫌がることを、自分に黙って、決めてしまおうとするのだろうか。


 しかし、両親の身になってみれば、わからないでもなかった。理はこの田賀家の長男。理は病弱。父の潮はこの村の村長を長年務めている。とくれば、息子の身に何か起きないうちに早いところ後継ぎをこしらえてもらわにゃあ、とおせっかいな連中がやきもきし出すのも無理はない。そのおせっかい派の大将が、父の再婚相手である、理にとっては義母にあたるおれん。彼女が夫をけしかけて、日ごと書斎にしけこんで方々の令嬢を品定めしているというわけだった。


 そうして選び出された令嬢の写真を幾度、理は見せられたか知れない。勿論その度にはねつけていたのだが。


「……坊ちゃま、旦那様と奥様がお呼びでございます」


 ほうら、お出でなすった。理は内心嘲笑しつつ、女中を振り返る。


「嫌だと伝えてくれたまえ」

「でも……」

「いいから、そう伝えておいてくれたまえよ。怒られても君の責任ではないのだし」

「はあ……」


 女中は渋々引き下がっていった。ちょっと酷だったかと思ったが、すぐに気を取り直した。どうせまた遣わされてくることはわかり切っている。


 再び一人になって、理は読みさしの本を弄びながら昔日の風景に思いを馳せた。


 ……生みの母のお照は、優しく賢く美しい、村でも評判の婦人であった。理とその妹・芙沙の面差しは、母のそれによく似ているといわれる。そのせいか知らないが、兄妹は父よりも母によく親しんだ。


 その母が、数年も前、気分が悪いといって寝ついてから見る見るうちに衰弱していき、遂には帰らぬ人となった。彼女が亡くなるまでの間は、理が世話をしていたのだが、葬式の後、彼もまた疲労がたたって倒れてしまう。健気な妹の芙沙は、まだ十にもならぬ身で兄の看病を引き受けた。大人でも重労働だというのに、幼い少女が一人でこの役目を担ったのであるから、彼女もまた兄と同じ運命を辿ることは誰の目にも明白であった。果たして、兄の病状が回復の兆しを見せ始めた頃、芙沙は肺と心臓を悪くして横臥する羽目に陥ったのだった。


 子供二人に無理をさせて、父の潮はこの間一体何をしていたか? 即ち、全くもって従来通りの生活を続けていたのである。朝は少し遅めに起き、日も大分高くなってから役所に行き、仕事終わりには馴染みの料亭で芸者とふざけ、真夜中になって酔っ払い機嫌で邸に帰る。息子が寝込んでいようと、娘が臥せっていようとお構いなし。家長は奥のことに手を煩わすべきでない、と堅い信念を抱いているのかどうか、ともかく、子供のことなどまるで眼中になかったことは確かである。その証拠に、子供達が亡き母を悼んでいる最中に、贔屓の芸者を落籍して結婚するという冷徹な行為に及んでいた。その芸者が、今の妻おれんであることは言を俟たない。


 それでもおれんが前妻の子供達を慈しんでくれたならば、まだ一家の絆は回復のしようがあっただろう。しかし、おれんもまた主人と同様、否主人以上に自己中心的で、このためにますます親子の間の溝を深める結果となった。


 彼女は自分が村長の妻の座に収まるや否や、それまで一家に仕えていた女中達に暇を出した。代わりに雇ったのが、頻りに自分のご機嫌伺いをするような娘達。この娘達は、奥様以外のことにかけてはまことに気が利かないという定評で、理などいつも苛々させられた。いわんや、芙沙においておや……。女中達の看病を日がな受けていた彼女に、一番の皺寄せが来るのは当然のことである。そうして、父母対兄妹の対立構造が一層明確になっていった。


「……坊ちゃま、坊ちゃま」


 襖の影から、呟くような呼び声がする。先程の女中が、もう一度引き返してきたらしい。理は暫く沈黙を守っていたが、ふとある考えが浮かんだ。


 自分の妻になるべき人は、当然、芙沙の姉にもなる。自分は、自分ひとりの妻を選ぶのではなく、芙沙の姉を選ぶ心持ちで、父母の希望を入れればよいのだ。そうすれば、誰も損をしない。何より、芙沙の哀れな境遇を打ち切ることができる……。


「ああ、今行くと伝えてくれ」


 そう言いながら立ち上がった彼に、女中はほっと安堵の色を浮かべて去っていった。


 ……漸く書斎に息子が訪れて、父も義母も喜色満面、勝ち誇った者の鷹揚な態度で迎え入れる。


「やっと来たな、理。待たせおって」

「なぜもっと早くいらっしゃいませんの。あなたのためになる話ですよ」

「ええ、漸く勉強に一段落ついたところで」


 義母のしなを含んだ言葉つきに辟易しつつ、返答する。その隙に、机の上に無造作に並べられた十枚ほどの写真を盗み見る。理はもう、ここに来たことを後悔しかけた。


「お前、ここに呼んだ理由はわかっておるだろうな」

「はい、お父さん」

「この中からどれでも、気に入ったのを選べ」


 まるで物扱いだ。しかしながら実際、旧式の父母には息子の嫁など、血の通わぬ物に等しいに違いない。それを裏付けるように、並べられた候補者の写真からは微塵の生気も感じられなかった。


 理が手を伸ばさないのを見ると、父はじれったそうに一枚を拾い上げてみせた。


「こちらは○○のお嬢さんだぞ、どうだ」


 父好みの白痴的な顔立ちの少女を一目見て、「僕には合いませんね」と理はすげなく断る。


「では、こちらはどう。××のお嬢様ですよ」


 今度は義母が手近の一枚を前に滑らせる。これまた彼女好みの、盲従型ともいうべき、意思の閃きのまるで見えない少女である。理は先よりも強い嫌悪を催した。「ええ、すみませんが合わぬでしょう」……そんな調子で彼は、全十枚分の説明を受けたのだったが、どれも彼の本心――妹を心底から思いやってくれるような人がよい――を容れてくれそうにない娘ばかりだとわかっただけだった。


 失望をその目元に現して俯いた理。その時、机の隅にまとめて積まれた写真の束が視界に入る。それらは聞くまでもなく、両親の「試験」に通らなかった花嫁候補の写真に違いない。


「お父さん、その束も見せていただけませんか」

「これか。しかし、これは、お前……」

「貸して下さい」


 口ごもる父を無視して、紙束を取り上げる。一枚一枚丹念に見ていくと、父母の目は節穴かと思うほど、先の最終候補者より知性も個性も勝っているとわかる少女達に出くわす。これで父母の望みが、自分とは相容れないことがはっきりした。要するに彼らは、体面を保つための人形が入り用だっただけなのだ。


 だが、理は、人間が傍にいてほしい。温かい血が通い、理智の光を湛え、慈愛の心を惜しみなく示す人間に!


 その理想を体現した少女の眼差しが、程なくして理を捉えた。


「これはどなたです」


 父は暫し義母と顔を見合わせたり天井に目をやったりを繰り返したが、理がもう一度尋ねると、渋々答えてくれた。


「津守芳恵さんだ。役場の職員で津守という東京から来たのがいるが、それの親類だそうだ」

「この方も東京でお育ちになったのですか」

「ああ。東京で生まれ育って、今年の春に女学校を卒業したという」

「女学校を出るほどの才媛は、この家には来てくれますまいね」

「さあ、どうだかな。これほどの別嬪で(と父が言うと、義母は嫉妬深そうに口をへの字に曲げた)、学問も運動もできるとの評判だが、それだけに嫁の貰い手がないんだと、津守がこぼしておった」

「そうですか……」


 近代の風をその身に吸い込み、知性と快活さをその身に備えた若い女性を受容できる男性は、また家庭は、まだまだ少ない時代であった。また、女性の方でもそうした場所に易々と身を預けるわけはなかった。


 写真を返しながら、理は静かに告げた。


「この方さえよければ、僕はこの方と一度お会いしてみたいのですが」


 かくて、渋る両親を説得し、理はこの津守芳恵嬢との見合いを受けることになった。

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