明日、免許返します

田村 計

第1話

 赤信号を待ちながら、乙川正太郎はバックミラーに自分の姿を映した。髪型よし、ネクタイしっかり、眼鏡の曇りも問題なし。ミラーの中の中年男は、今朝もいつも通りだ。最後に社用車に飾ってある家族の写真を目で確かめて、その傾きをまっすぐにただしてから、乙川は指定された住宅街へ向け大通りを左折した。

 連休の最後の二日間だった。珍しく指名で仕事の予約が入ったのだ。乙川の仕事は自動車運転教習の出張講師だった。ペーパードライバーや長年ハンドルを握っていない人に、運転技術を教えるというものだ。こういう仕事柄、どうしても土日祝の出勤が多くなる。今回も妻と娘とともに実家に住む母を訪れる予定があったが、詫びを入れてふたりだけで行ってもらうことにした。

 片側一車線の信号を折れ細い道に入る。通り沿いのマンションの前で、小さな影が立ち尽くしていた。彼女が講習者なのだろう。静かに車を停め乙川は運転席を出た。笑顔を心掛けながら、乙川はその女性に近づく。

「ゆっくりあわてず安全運転がモットーの、かめさんドライバースクール、乙川です」

「まあ!」

すっとした立ち姿が印象的な、小柄な妙齢の女性だった。薄いグレーのブラウスに白髪のまとめ髪、事前に伝えた通り、動きやすそうなズボンとヒールのない靴を身に着けている。

光が差したように、こちらを向いてその顔が輝いた。

「予約いただいた浦田さんですか?」

「はい、そうです。私が浦田です。あなたが……そう、乙川さん、なのね」

耳触りの良い声に、心の中で乙川は首をかしげた。この声、どこかで聞いたことがある気がする。

手元のバインダーに目を落とす。

浦田愛子。年齢は七十六歳。運転歴は数十年で若い頃からハンドルを握っている。今の運転技術にはだいぶ不安がある。講習依頼時のアンケートにはそう記されていた。声に聞き覚えがあるのは、もしや以前教えたことのある人なのだろうか。そう思いながら資料を見ても一向に見覚えがない。母と同じアイコと言う名もごくありふれていて、同名の誰かなどどこにでもいそうだった。

書類の年齢が正しければ、すでに後期高齢者だ。本来なら免許返納を促す年齢ということになる。

「ご指名いただきありがとうございます。二日間の教習よろしくお願いします」

「こんなお婆さんでごめんなさいね、よろしくお願いしますね」

「教習はどなたでも受けていただけますから、ご安心ください。ただ、事前にご連絡したかと思いますが、もし講習を続けるのが危険だと判断した場合は、その場で中止させていただきます。よろしいですか?」

「ええ、分かっていますとも。もしダメなら、ちゃんとそうおっしゃってください」

少しはしゃいでみえるのは、緊張もあってのことなのだろうか。

「車はどちらになりますか」

「表の車庫の、その小さい車です」

「こちらでしたら補助ブレーキがつけられますね。明日はこの車で練習しましょう」

「明日は、ですか? 今日は無理なんでしょうか」

 少し不安そうに愛子が問いかける。不安を取り除くように、乙川は満面の笑顔で返事をした。

「初日は、私の乗って来た車で運転の基礎を確認させていただきます。問題なければ明日は浦田さんの車で走りましょう。明日は自由コースになりますが、行きたい場所は」

 乙川はファイルをめくる。隣に立って、愛子がそれを覗き込んだ。

「浦島寺」

「東神奈川の慶運寺ですか。浦島太郎伝説のお寺の」

「そう、浦島寺、よ」

 なぜだろう、思いつめたようにもみえる表情で愛子が乙川をみつめた。

「ええ。私、浦島太郎に、……自分の力で、会いに行きたいの」

「なるほど、承知しました」

 浦島太郎。

正直に言えば、乙川は浦島太郎の物語が苦手だ。子供の時は嫌いですらあった。とはいえ、今回は乙川自身の要望ではない。浦島太郎に何があるのかは知らないが、あのあたりの道であれば詳しかった。乙川にとっては走り慣れた場所だから、愛子の運転技術さえ問題なければ、無事に目的地まで案内できるだろう。

社用車の助手席のドアをあける。

「では乗ってください。まず安全な場所まで移動して、それから講習を始めましょう」

 いそいそと愛子が助手席に乗り込む。乙川もすぐに運転席へと乗り込んだ。

「広い駐車場のある場所まで移動します」

「なんだかドライブみたいで、わくわくするわね」

 はしゃぐ姿に苦笑する。

「何か忘れてませんか、浦田さん」

「シートベルト! ごめんなさいね、すぐつけるわね」

 シートベルトをしっかりはめるのを確認して、乙川はエンジンをかけた。いつも通り丁寧に車を走らせる。

「運転はお好きなんですか」

「そうねえ、そうでもないかしらねえ。働くのに必要だったから、長いこと運転してたけど。今は必要がなくて、ほとんど乗ってないわねえ」

「なるほど、そういう感じですか」

 そうですかと相槌はうってみるものの、言葉の意味がよく分からない。

 運転の必要がなくなったのなら、この運転講習だってもう必不要なのではないか。

「ご家族はいらっしゃるんですか」

「そうね……娘がね。明日来るのよ、旦那さんを連れて」

「明日? 明日も運転講習がありますけれど、ご都合は大丈夫ですか? なんでしたら、一日ずらすこともできますが」

「いいえ、やってちょうだい。娘には待っていてもらうから」

 さっき運転は必要ないと言ったのに、明日の講習はどうしてもやりたいという。何だか訳が分からないと思いながらも、乙川は今日の目的地である河原を目指す。そこで愛子の運転技術を確認するのだ。

「そういえば、浦田さんはどうして自分で浦島寺に行きたいんですか?」

「え? そうねえ」

 考えるように少し口をつぐんで、それから愛子は話し出す。

「あなたは、あのお寺の浦島太郎がどういう話だか知ってる?」

「いいえ、特には」

「あら、浮かない顔ねえ。浦島太郎は好きじゃない?」

 そう問われて、乙川は笑顔を作り直す。うっかり表情に出ていたのだろうか。商売柄、笑顔には自信があるのだが。

「まあ、ええ、ほら浦島太郎って無責任でしょう。いくら助けた亀のお礼だからって、出てったきり帰って来ないなんて。昔話なら、桃太郎みたいにお宝持ってちゃんと戻って来てほしい」

 そう答えると、愛子が声をあげて笑った。それからふとしんみりした表情になる。

「そうねえ。三年が三百年だった、は不可抗力だったとしても、三年は家に戻らずにほったらかしだったんですものねえ」

 小さく愛子が息をつき、窓を向いた。

「あのお寺の浦島太郎はね、少しだけ話が違っているの」

「へえ、そうなんですか。どう違うんです?」

 あのあたりには寺が多い。歩いて十分程度のエリアに、比較的大きな寺社がいくつも建ち並んでいる。浦島寺もそのうちのひとつで観光地でもあるらしいが、車で近くを通ったことがあるだけの乙川には詳しいことは分からない。何より浦島太郎が好きではない乙川だから、わざわざ寺に行ってみようとも思わなかった。

「竜宮から戻った浦島太郎はね、三年のつもりが三百年経っていたことに驚くのだけれど」

 子どもに昔話を聞かせるようなゆっくりした物言いで、愛子は話し始める。

「その時に、竜宮城から観音像を一体持ち帰るのよ」

「観音像ですか」

「そう。そしてそれを背負って、生まれ故郷まで歩いて戻って来る」

 年老いた白髪の老人が、仏像を背負う姿を想像してみる。故郷に帰るどころか、一歩だって歩けそうにない。乙姫も酷なことをするものだ。

「それは大変そうですねえ。車なんてない時代でしょうし」

「そうねえ、今だったらもっと楽だったでしょうねえ。でも浦島太郎は観音像を背負って歩くしかなくて、頑張って頑張って故郷を目指すんだけど、とうとう重さに耐えられずに座り込んでしまったそうよ。そうして、ちょうどそこに、とっくに亡くなっていた両親のお墓があった」

 疲れ果てた自分の前に、石になった両親の姿。

 浦島太郎は泣いただろうか? それとも、それでも会えたと喜んだろうか。

「愚かだと思わない? 三百年も経ったんだから、戻ったって誰も待ってなんかいないのに。それでも浦島太郎は帰ってきたのよ。どうしても、家族に会いたくて」

 ぽつりと愛子がそう言った。

 まるで浦島太郎を馬鹿にしているような物言いだ。驚いて乙川は愛子を見た。

 先ほどの明るい笑顔と違う、暗く落ち込んだような表情。その顔から目が離せなくなる。

この人も浦島太郎が嫌いなのだろうか。それなのに浦島太郎に会いたいなんて、いったいどういう気持ちなのだろう。

 乙川の視線に気づいたのか、愛子が咳払いして表情を和らげた。年相応の皺深く可愛らしい笑顔から、乙川はそっと目線を外す。

「河原の駐車場に着きます。そこで少し練習しましょう」

 なんにせよ、自分は運転を教えるだけだ。

 気持ちを切り替えよう、そう決めて、誰も停車していない場所を選んで車を停車する。それから愛子とともに車を降りた。

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