第5話 窓口から始まる対話

【10月18日 青木美咲の窓口日誌】


 午前八時三十分、市役所一階市民相談窓口。蛍光灯の白さが、まぶたの裏に刺さる。十月の冷たい北風が、自動ドアの隙間から這い込んでくる。私は、カウンターに置いたマニュアルの角を、指で折り曲げた。「選挙目的外掲示禁止」――文字は簡単だけど、その向こうに広がる生活の重さは、計量できない。


 最初の来訪者は、八百屋のおじちゃん。エプロンに泥が付いたまま、受付ボタンを強く押す。


「うちの梨のポスター、剥がされた! 収穫期の最終週なのに、どうしてくれる!」


 私は、マニュアル通りに口を開いた。


「条例により、選挙ポスター掲示板には、候補者に関するもの以外――」


「条例って、俺たちの商売を潰すためか!」


 声が、カウンターを越える。私は、思わず後ずさりした。マニュアルには、こう書いてある。「感情に同調する姿勢を見せつつ、法令の趣旨を冷静に説明せよ」――同調する? どうやって? おじちゃんの目は、血走っている。去年の台風で、梨の実が地面に落ちたときと同じ目だ。


「おじちゃん、上半分だけが選挙用です。下半分なら、‘地域情報コーナー’として――」


「下半分? 客の目は上! 下なんて、誰も見ねえ!」


 そのとき、自動ドアが開いた。次の来訪者、木下玲子さん。手にしているのは、クレヨンで描かれた子どもたちの防災ポスター。地震の絵に、大きな「ここに集合!」の文字。私の喉が、カラカラに乾いた。


---


 午後一時、窓口は一段落。私は、休憩室で中原と缶コーヒーを飲んでいた。彼は、私より四歳年上なのに、新人職員だ。異動してきたばかりで、まだ窓口の風が、身体に染みていない。


「青木さん、さっきの八百屋さん、泣きそうだったね」


「泣いていたのは、私かも」


 私は、コーヒーを一口飲んで、苦笑いした。甘さが、喉の奥に引っかかる。


「条例、本当に市民のため? 罰則なしで、理解されると思う?」


 中原は、缶を握りしめたまま、窓の外を見た。銀杏並木が、夕焼けに浮かんでいる。


「現場の声を政策に反映する橋渡しになりたいんだ。でも、橋が完成する前に、川が増水してる気がする」


 私は、ポケットからメモ用紙を取り出した。来訪者リスト。八百屋、美容院、整体院、PTA、子ども会――全部、生活の最前線だ。


「川を渡るには、舟がいる。舟は、対話だ」


 中原が、缶を傾けて、底の向こうを見せた。


「舟を漕ぐのは、俺たちだ。でも、オールが、マニュアルじゃ軽すぎる」


---


 午後二時、木下玲子さんが再訪。今度は、子どもたちと一緒だ。五人の小学生、手に手にクレヨンのポスター。


「青木さん、これもダメなの? 防災訓練の案内です。選挙とは、無関係です」


 私は、マニュアルを開いた。ページが、子どもの手によって、ビリッと破れそうになる。


「申し訳ありません。掲示板の上半分は、選挙期間中、‘選挙用’です。下半分なら――」


 子どもたちの目が、地面に落ちる。ポスターの破片と、落ち葉が、一緒に舞っている。私は、膝を折って、子どもたちの目線に合わせた。


「でも、市役所の入口には、一般掲示板があります。そこなら、すぐに貼れます」


 木下さんは、私の手を握った。冷たい手だ。


「ありがとう。でも、‘すぐに’じゃなくて、‘みんなで’がいいんです」


 私は、頷いた。でも、胸の奥で、風が吹いている。‘みんなで’を、条例は、どこに書いている?


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 夜八時、自宅ワンルーム。パソコンを開く。SNSには、既に「紙くず条例」がトレンド入り。写真は、私がポスターを剥がす瞬間。キャプションは――


「市役所の女、笑顔で表現の自由を剥がす」


 私は、スクリーンショットを取り、デスクトップに貼った。明日の朝礼で、使う。それから、新規文書を開いた。タイトルは、「選挙ポスター条例Q&A――市民の声から生まれたヒント」


 一問目を、打つ。


「Q.私たちの生活のポスターも、剥がされますか?


A.いいえ。掲示板の下半分は、‘地域の声’として、大切に残します。上半分は、選挙期間中だけ、‘選挙の声’です。両方が、混ざらないように――」


 二問目を、打つ前に、私は手を止めた。窓の外、銀杏の葉が、一枚、舞い降りた。私は、それを拾い上げ、キーボードに置いた。葉脈が、細かく枝分かれしている。まるで、行政の組織図。でも、葉の先端は、一つに繋がっている。


 私は、三問目を、打った。


「Q.‘選挙の声’と‘生活の声’、どうやって決めますか?


A.あなたの‘声’を、窓口で、教えてください。私たちは、聞くことから始めます」


 最後に、一文を追加した。


「このQ&Aは、終わりません。あなたの‘声’を待っています」


 私は、スクリーンショットの写真を、貼り付けた。私の“笑顔”が、ポスターを剥がしている。でも、今度は、キャプションを、自分で書いた。


「剥がしたのではなく、‘場所’を分けました。‘場所’は、対話で決めます。明日、窓口で、お待ちしています」


 送信ボタンを押すと、風が、窓を叩いた。でも、もう震えない。私は、銀杏の葉を、本の間に挟んだ。圧迫ではなく、保存だ。私は、呟いた。


「行政と市民の溝を埋めるのは、ルールではなく、対話だ。対話は、窓口から始まる」


 明かりを消す前に、私は、もう一文、追加した。


「‘ここに集合’は、防災訓練だけじゃない。対話も、ここから始まる。市役所一階、市民相談窓口――青木美咲、明日も、ここにいます」

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