第3話 最低限の合意を紡ぐ日
【10月8日 私の業務ログ】
午前八時十分、市役所三階エレベーターでドアが開くと、冷たい北風が廊下を這っていた。空調はまだ暖房モードに切り替わっていないのに、誰かが非常階段の扉を開け放ったままにしたらしい。私は肘で扉を押しながら、政策課オフィスへ。机の上には、昨日の私が「最終版」と書いて置いたはずの条例草案が、今日は「最終最終版」と付箋を追加されて鎮座していた。七月中の東京都知事選を思い出す。あの日、テレビ画面の向こうでポスターが“壁”になっていた。私たちは、あの“壁”をこの街に作らせないために、罰則なしの「撤去命令」という、おそらく全国でも前例のない規定を作ろうとしている。
八時半、法律顧問との電話会議。スピーカー越りの声は、いつもより早口だ。
「佐久間さん、公職選挙法138条の三の‘公正の確保’は、条例で細則を設ける余地があります。ただし、罰則を設けなければ、拒否された場合の強制力はゼロです。憲法21条の‘表現の自由’との兼ね合いをどう説明する?」
私は、窓の外を見た。役所の裏庭に、梨の木が一本、立ち枯れかけている。実はもうない。収穫は終わった。でも、枝が風に揺れるたびに、まだ何かを守ろうとしているように見える。
「説明は‘選挙という場所’を守ることです。ポスター掲示板が、誰かの所有物になれば、‘場’は消滅します。罰則なしでも、行政が立ちはだかる‘姿勢’それ自体が、憲法が許容する‘最小限の規制’になるはずです」
電話が切れると、パソコンの画面に「最小限の規制」と打ちながら、胸の奥で呟いた。本当に、それで守れるのか。
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午後一時、村井係長からの着信。バックには商店街の喧騒が入っている。
「課長、現場でトラブルです。美容室‘ルミエール’のオーナーが、自店のクーポン券を三枚貼ったところを青木が見つけて、撤去を指示したら、‘表現の自由侵害’と大声を……」
私は、パソコンを閉じて、弁当の残りをフタに押し込んだ。冷たい北風が、エレベーターホールまで吹き込んでいる。
現場へ着くと、ポスター掲示板の前に、十人ほどの人だかり。オーナーは、まだアイロンがけ途中なのか、ヘアアイロンを手に持ったまま、青木に詰め寄っていた。
「選挙ポスター以外ダメって、どこに書いてあるんですか! 私たちの商売を潰す気ですか!」
私は、まず深く一礼して、声のトーンを落とした。
「大変申し訳ありません。本条例は、選挙期間中の‘掲示板の公正使用’を目的としておりまして……」
「期間中? 期間中だけ私たちの声を消すんですか! ポスター一枚で客が来るんです! 選挙が終わったら、もう店が潰れてる!」
そのとき、風が吹いた。オーナーの持つチラシが、枯葉のようにパラパラと地面に落ちる。私は、一枚拾い上げた。半額クーポン。有効期限は、来月の末。選挙は、来月の半ばに終わる。私は、チラシを二つ折りにして、オーナーに差し出した。
「三日後、事務局で話し合いの場を設けます。今日のところは、撤去を待っていただけますか。‘選挙用’と‘地域用’の分割運用を検討します。半分なら、あなたの声も残せる」
オーナーは、唇を噛みしめて、うつむいた。周囲のスマートフォンが、私の言葉を録画している。私は、カメラに背を向けて、青木に小声で指示した。
「撤去は、今日は見合わせ。でも、写真は撮っておく。証拠記録、忘れずに」
現場を離れるとき、風がまた吹いた。ポスターの端が、ビリッと剥がれて、蝶のように飛んでいく。私は、それを見送りながら思った。罰則がなくても、行政が“正す”姿勢を見せれば、市民も“正す”――そんな楽観が、ここでは通用しない。通用しないからこそ、話し合いの場を作る。それが、罰則の代わりになるのか。
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夕方五時、副市長室。石黒副市長は、窓を開けたまま、銀杏並木を見ていた。
「市長は、‘理想’を語る。現場は、‘生活’を語る。お前の仕事は、両方を繋ぐことだ」
私は、持っていた資料を開いた。
「分割運用案です。選挙期間中だけ、掲示板を二等分。上半分を‘選挙用’、下半分を‘地域情報用’。期間が終われば、元に戻す。法律上、選挙の‘公正’を損なわない範囲で、地域の‘記憶’を残す……」
副市長は、コーヒーカップを置いて、私の顔を見た。
「市長は、‘一枚’にこだわる。でも、一枚が‘顔’を消すこともある。お前の案は、‘顔’と‘声’を並べることで、‘場’を守ろうというものだ」
私は、頷いた。でも、胸の奥で、まだ風が吹いている。本当に、それで守れるのか。
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夜九時、自宅マンション。ビデオデッキを起動する。1985年、私が高校三年のときの衆院選。画面のポスター掲示板には、等間隔に候補者の顔。脇には、商店街のバザー告知、消防団の演習通知、子ども会のキャンプ案内――全部、同じ大きさの紙で、同じ画鋲で留められている。誰も、“選挙”と“生活”を分けていない。それが、当たり前だった。
私は、パソコンを開いた。条例案の前文を、何度も書き直す。
「この規制は、民主主義の根幹を守るための最低限の合意である――」
打ちながら、思う。最低限でも、合意でも、守れるのは、罰則ではない。誰かが“ここは大事だ”と立ち止まる姿勢だ。私は、一文を追加した。
「本条例は、選挙という‘場’と、地域の‘声’を、両方とも残すために制定される」
ベランダに出る。風は、もう北風ではなく、冷たい夜風になっている。街灯の下、銀杏の葉が、一枚、舞い降りた。私は、それを拾い上げ、ノートパソコンのキーボードに置いた。葉の裏側には、細かい葉脈が走っている。まるで、条例の条項のようだ。私は、呟いた。
「地方公共団体の条例なんて、一枚の葉みたいなものかもしれない。でも、風に飛ばされないように、枝にしっかりつながっていれば、次の春まで‘場’は保つ」
私は、葉を挟み込み、画面を閉じた。明日、議会へ提出する。罰則なしでも、私たちは“最低限の合意”を守る。それが、課長として、一人の市民として、できることだ。
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