第13話「現場連携プロジェクト始動」
翌朝、只野はいつもより早く出社した。
まだ誰もいないオフィスの空気は静かで、昨日までの重苦しい会議室の空気とは違っていた。彼は自席に座ると、夢の中で見た札幌支店の営業風景を思い返した。
阿部の穏やかな笑顔、顧客との自然な会話、そしてコピオの言葉。
「数字は“結果”であって、“目的”ではない」
その言葉が、頭の中で何度も繰り返された。
「どうすれば、あの人に届くのか…」
只野は、資料の表紙を見つめながら呟いた。
そして翌日、ある事を実行すべく只野は、札幌支店を訪れていた。
営業企画部として、各支店の実態を把握するための現場ヒアリング。その一環として、ベテラン営業マン・阿部との面談が設定されていた。
札幌支店の応接室は、窓から柔らかな光が差し込む落ち着いた空間だった。阿部は、コーヒーを片手に静かに座っていた。10年以上のキャリアを持つ彼の表情には、どこか疲れと諦めが混ざっていた。
「阿部さん、最近の営業状況について、率直なご意見を伺いたいんですが…」
只野が切り出すと、阿部は少しだけ笑った。
「率直に言っていいですか?もう、飛び込み営業は限界です。お客さんも賢くなってるし、突然訪問されても迷惑がられるだけ。値引きしても契約に至らないことが増えてます」
只野は、メモを取りながら頷いた。
「それでも、会社としては台数を求めてますよね。現場としては、どう対応してるんですか?」
阿部は、少しだけ間を置いてから言った。
「正直、数字を積むために無理して動いてるだけです。提案力を活かす余地もない。お客さんの話をじっくり聞く時間もない。とにかく“売れ”って言われるから、値引きして、契約書にサインもらって、それで終わり。でも、それじゃ何も残らないんですよ」
その言葉に、只野は胸が締めつけられるような思いがした。企画部として、現場を支えるはずだった自分が、数字だけを追いかける空気に加担していたのではないか――そんな自責の念がよぎった。
「阿部さん、もし飛び込み営業をやめて、顧客満足や信頼を重視する営業に切り替えたら、現場はどう変わると思いますか?」
阿部は、少し驚いたような顔をした。
「それができるなら、営業はもっと楽しくなると思いますよ。お客さんとちゃんと向き合って、提案して、納得してもらって契約する。それが本来の営業だと思うんです。でも…会社がそれを許してくれるかどうか」
只野は、しばらく沈黙した後、静かに言った。
「僕が企画部として提案します。札幌支店をモデルケースにして、飛び込み営業を廃止して、来店型営業と紹介営業に切り替える。CRMを活用して、顧客の履歴や嗜好に合わせた提案をする。利益率と満足度を重視する営業体制に変えるんです」
阿部は目を見開いた。
「それ、本気で言ってるんですか?」
「はい。ただし、成果が出るまでには時間がかかると思います。最低でも半年。最初は台数が落ちるかもしれない。でも、長期的には必ず結果が出ると信じています」
阿部は、しばらく考え込んだ後、静かに頷いた。
「…やってみましょう。支店長にも話します。現場の皆にも、ちゃんと説明します。ただ、只野さん。この半年、絶対に見捨てないでくださいね。数字が落ちても、信じてくれるなら、俺たちは動きます」
その言葉に、只野は深く頷いた。
「約束します。僕は、現場と一緒に戦います」
こうして始まったのが、「現場連携プロジェクト」だった。
札幌支店では、飛び込み営業を完全に廃止。営業マンは、CRMを使って顧客情報を整理し、来店型営業に集中した。SNSやWeb広告での集客も強化され、紹介キャンペーンも導入された。営業マンは、提案力を磨き、顧客との対話に時間をかけるようになった。
最初の3ヶ月は、確かに台数が落ちた。
社内でも「札幌は何をやってるんだ」と囁かれた。
だが、阿部たちは動じなかった。只野も、毎週支店とオンラインでミーティングを重ね、現場の声を吸い上げ続けた。
そして、半年が経った頃――札幌支店の成約率は、前年同月比で12%上昇。利益率は15%改善。顧客満足度は、社内調査で全支店中トップとなった。
その後、只野は、その成果を資料にまとめた。
ある朝、島野が出社してきた。スーツの襟を整えながら、無言で自席に向かう。
只野は一瞬ためらったが、意を決して立ち上がった。
「部長、少しだけお時間いただけますか。ご相談させていただきたいことがあります」
島野は眉をひそめたが、資料を見てため息をついた。
「「現場連携プロジェクト」、以前この話は終わっただろ」
「はい。ただ、札幌支店の事例をもう少し詳しくご説明したくて。数字の面でも、部長のご懸念を払拭できるかもしれません」
その言葉に、島野は少しだけ興味を示したようだった。会議室の隅に移動し、只野は資料を広げた。
「こちらが、札幌支店で飛び込み営業を廃止した後の成約率の推移です。飛び込みをやめたのは2022年ですが、半年後から来店型営業と紹介営業に切り替えたことで、成約率はむしろ上がっています」
島野は資料に目を通しながら、静かに言った。
「それは札幌だからだろ。土地柄もある。うちの本社営業とは違う」
「確かに地域差はあります。ただ、顧客が自ら情報を集め、納得して来店する流れは全国的に広がっています。SNSやWeb広告の反応率も、札幌だけでなく名古屋や福岡でも上がっています」
只野は、タブレットを取り出し、社内CRMのデータを見せた。
「こちらは、CRM導入後の顧客満足度の推移です。営業マンが顧客の履歴や嗜好を把握できるようになったことで、提案の質が上がり、値引きに頼らない契約が増えています。結果として、利益率も改善しています」
島野は、しばらく黙って資料を見つめていた。
「…だが、社長は台数しか見ていない。利益率や満足度は、株主への説明には使いづらい」
只野は、少しだけ声を強めた。
「だからこそ、部長の力が必要なんです。この資料を、部長の視点で再構成します。台数を守りながら、現場の疲弊を減らす方法として。社長にとっても、“安定した台数”という言葉の方が響くはずです」
島野は、只野の顔をじっと見つめた。その目には、わずかながら揺らぎがあった。
「…阿部は、今も札幌にいるのか?」
「はい。昨日、電話で話しました。彼はこう言ってました。“値引きじゃなく、提案で勝負できるようになった。やっと営業が楽しくなった”って」
その言葉に、島野の表情が少しだけ緩んだ。
「昔は、阿部も飛び込みで数字を積んでた。あいつが変わったなら、時代も変わったのかもしれんな…」
只野は、静かに頷いた。
「部長、僕は現場の声を無視したくありません。数字も大事ですが、それを支えるのは人です。営業マンが疲弊して、顧客との関係が希薄になれば、いずれ数字も崩れます。今こそ、質を重視する営業に転換すべきだと思います」
島野は、資料を閉じ、しばらく沈黙した後、言った。
「…分かった。社長には俺から話す。ただし、台数の見通しは絶対に落とすな。質を上げて、数字も守る。それが条件だ」
只野は、胸の奥に熱いものが込み上げるのを感じた。
「ありがとうございます。必ず、結果を出します」
その日、只野は自席に戻ると、資料の再構成に取りかかった。島野の言葉は、まだ完全な理解ではなかったかもしれない。だが、扉は開いた。夢の中で見た札幌支店の風景が、少しずつ現実に近づいていることを、只野は確かに感じていた。
そして、窓の外には、秋の陽が静かに差し込んでいた。
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