第10話「灯りの下の決意」
札幌・南三条の裏通り。
秋の夜風が冷たく吹き抜ける中、只野は居酒屋「酒肴 いし川」の暖簾をくぐった。古民家を改装した落ち着いた佇まい。木の香りが漂う店内は、静かなジャズが流れ、どこか懐かしい空気を纏っていた。
個室に入ると、阿部、今井、藤原、清水、がすでに席に着いていた。
北沢支店長は、数日前に福岡支店への異動が決まり、今夜の席にはいない。
「只野課長、お疲れさまでした」
阿部が笑顔で迎える。
清水が、あの夜と同じように温かいおしぼりを差し出した。
「寒かったでしょう?課長、今日はゆっくりしてくださいね」
只野は微笑みながら「ありがとう」と言って席に着いた。
乾杯の音頭は阿部が取った。
「只野課長の本社異動を祝して、乾杯!」
グラスが鳴り合う。だが、誰も「おめでとう」とは言わなかった。
それが、この場の誠実さだった。
今井がぽつりと呟いた。
「支店長、いなくなりましたね。静かになったけど、何か残ってる気がします」
藤原が頷いた。
「空気は変わったけど、まだ“顔色を伺う癖”が抜けないんです。課長がいなくなったら、また戻るかもしれない」
阿部が静かに言った。
「でも、課長が来てくれて、俺たち、少しずつ声を出せるようになった。それは事実です」
只野は、グラスを置いて、ゆっくりと立ち上がった。
「みんな、ありがとう。札幌に来て、短い期間だったけど、濃い時間でした」
「最初は、正直言って戸惑いました。支店長の圧力、北辰との関係、みんなの沈黙。
でも、あの夜、ここで話したこと、俺は忘れません」
「藤原くんが言った“変えたい”という言葉。清水さんがくれた“支えます”という言葉。あれが、俺の支えでした」
「本社に行くのは、“栄転”じゃない。上層部は、北辰との関係悪化を嫌って、俺を遠ざけた。それが現実です」
「でも、俺は後悔していません。誰かが声を上げなければ、何も変わらない。俺は、正しいことをしたと思ってる」
「札幌支店には、見えない壁がある。数字じゃ測れない。でも、確実に人を押し潰してる。その壁の正体は、支店長だった」
「でも、壁は壊せる。一人じゃ無理でも、みんなでなら、きっと壊せる」
「だから、お願いがあります。俺がいなくなっても、諦めないでください。声を上げてください。支店を、空気を、変えてください」
沈黙の後、清水がそっと立ち上がった。
「課長。私、課長が来てくれて、本当に嬉しかったです。私も、声を上げます。課長が教えてくれたから」
藤原も続いた。
「僕も、変えたいです。課長がいなくても、やってみます」
阿部が笑った。
「……俺も、もう一度だけ、現場の声を上に届けてみるよ。ダメでも、言うだけ言ってみる」
拍手が起こった。誰も涙は流さなかったが、目は赤かった。
只野は深く一礼した。
「ありがとう。俺も、札幌支店のこと、忘れません」
東京・丸の内。
ガラス張りの高層ビルが、秋空に鋭く突き刺さるようにそびえていた。只野は、スーツの襟を整えながら、重たい扉を押し開けた。
受付の女性は、マニュアル通りの笑顔もなく、無表情で「こちらへどうぞ」とだけ言った。
案内された営業企画部のフロアは、まるで病院のように静まり返っていた。無機質なデスクが整然と並び、パーティションで仕切られた空間には、誰もがモニターに向かって黙々と作業していた。
「…おはようございます」
只野が声をかけると、数人が一瞬だけ顔を上げたが、誰も返事をしなかった。視線はすぐに画面へ戻り、空気は何事もなかったかのように流れていく。
初日の午後、只野は営業戦略会議に出席した。出席者は全員、キャリア採用組。名刺交換は形式的で、肩書きと所属部署を確認するだけ。会議が始まると、資料は完璧に整っていた。グラフ、数値、予測。だが、そこに“現場”の声はなかった。
「この施策、現場ではどう受け止められると思いますか?」
只野が口を開くと、隣の課長代理が眉をひそめた。
「現場?それは営業部の仕事でしょう。企画部は戦略を立てる場所です」
「でも、現場の反応がなければ、戦略は空回りします」
その瞬間、部長が口を挟んだ。
「只野くん。君は現場上がりだろう?ここでは“感情”は不要だ。数字とロジックだけで話してくれ」
只野は言葉を失った。札幌で感じた“空気の壁”とは違う。ここには“無関心”という名の氷壁があった。
数日が過ぎても、誰も只野に話しかけることはなかった。昼休みも、誰かと食事に行くことはなく、社内チャットは業務連絡だけ。誰もが“自分の領域”を守り、他人に踏み込まない。
ある日、只野は社内の提案フォームに「現場連携プロジェクト」の立ち上げ案を提出した。だが、返ってきたのは「検討します」の一文だけ。
誰が読んだのかも分からない。
その夜、只野は帰宅してテレビをつけた。
ニュース番組では、ある大企業の不祥事が報じられていた。
社長がトップダウンで進めた新規事業が、現場の反発を受けて頓挫。
社員の声は無視され、現場は疲弊。
株価は暴落し、社長は辞任。
記者会見での謝罪は、空虚な言葉だけが並んでいた。
そのとき、画面の隅に、かすかにコピオの姿が映った。
誰にも見えないはずの存在が、只野にははっきりと見えた。
耳元で、あの声が囁く。
「君の会社も、同じ道を辿るかもしれない。声を上げる人がいなければ、組織は腐っていく。君は、まだ終わっていない。ここからが本当の戦いだよ」
只野は、テレビを見つめながら、ゆっくりと手帳を開いた。
そこには、またしても見覚えのある筆跡でこう記されていた。
「再:営業企画部・現場連携プロジェクト——立ち上げ案」
その文字は、只野の記憶にはない。だが、確かに彼の手帳に書かれていた。
只野は、ペンを取り、自分の文字で書き加えた。
「現場の声を、戦略に変える。空気を、数字にする。人を、動かす」
そして、静かに呟いた。
「コピオ。俺は、まだ終わってない。ここから始めるよ」
窓の外には、東京の街が広がっていた。無数の灯りが、無数の沈黙を照らしていた。
只野は、手帳を閉じて立ち上がった。冷たい組織の中で、彼は再び“声を上げる者”になる覚悟を決めた。
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