第二夜 『万年櫻』

こんな夢を見た。


「誰もいないのかな?」

不安になってつい独り言が漏れる。見慣れた街の風景に、自分以外の人影がない。どうしたんだろう?歩いても歩いても誰も見当たらず益々不安が募る。しかし、習慣とはおそろしいもので、不安に駆られながらも足は無意識に務めているオフィスビルへと向かう。社畜の悲しい性よ。


ビルに着いたが、ここにも誰もいない。毎朝賑やかなエントランスも、怖いほど静かだ。いったい私に何がおこったのだろうか。いや、私以外の人たちに何が起こったのだろうか。いつものようにいつもの場所で立ち止まり、エレベーターか階段かを選ぶ。誰もいないビルは何か恐ろしいものが巣食っているような気になる。狭い空間に閉じ込められるのが怖くなり、階段を選んだ。


オフィスのある5階へと向かう。あれ?私、こんなにも体が軽かったかな?あっというまに目的の階にたどり着いてしまった。息切れ一つない。やっぱり何かがおかしい。いつものようにオフィスに入り、自分のデスクに向かい、カバンを置いてパソコンの電源を入れる。出勤時間はとうに過ぎ、時計は午前11時を示していた。完全なる遅刻だ。でも、自分以外誰もいないオフィスで、私を咎める人はいない。仲の良い同期も、いつもからかってくる後輩も、憎たらしいセクハラ上司もいない。


今日は休日だったっけ?

しかしそれなら、街には人が溢れているはずだ。だが、誰にも合わなかった。いや、人がいたという気配すら感じなかった。不安が恐怖に代わり頭が割れるように痛い。


落ち着け。考えろ、とにかく考えるんだ。

気持ちを落ち着かせるため、窓辺へ向かい外の景色を眺める。


すると、何かがはらはらと舞い降りるのが見えた。

雪?いや、櫻の花びらだ。


街中のビルの5階で、櫻が散るなんてありえない。

でも、綺麗。


何かが、右側から、スルスルと、音も立てずに近づいてくる。

あれは…櫻だ。

櫻の樹が2本、宙に浮いて近づいてくる。いや、違う船だ。前後に櫻の木が生えている小さな船が空を飛んでいるんだ。木々の間に黒い着物を着た美しい女性が立っているのが見えた。まるで波間を走るように、かすかな浮き沈みをしながら、船は私の前で静かに停まった。眼の前の常識外れな光景に、恐怖より好奇心が勝って、ついじっくり観察してしまう。船に見えたものは、二本の櫻の根が絡み合っていたものだった。ふと目をあげると、女性と眼が合った。


本当に美しいヒトだった。

漆黒の髪、白い肌、真っ赤に染めた唇は、にっこりと自分に微笑みかける。

この世のものとは思えない。そうだ、きっとこの世のものではないのだろう。

その美しい女性から目を離すことができずにいると、女性が口を開いた。


「さあ、お早く。」


気がつくと、羽目殺しのはずの窓ガラスはなくなり、心地よい風が頬をさすっていた。飛び乗れ、ということらしい。


船はしずかに上下に揺れている。足を踏み外せば5階から真っ逆さまだ。躊躇しながらも、私は窓枠に足をかけた。きっと魅入られたのだ。ぽかんと口を開けて、間抜け面を晒して、女性から目を離せないまま、私は驚くほど身軽に櫻に飛び乗った。


ザーッと風が強まり、2本の櫻から薄紅の花びらが私の身体を包み込むかのように舞い散る。そのとき、私を苦しめていた頭痛は消え、不安も恐怖もなくなり、ただ、連れられるままにこの女性に着いていくしかないことを悟った。


「さあ、お掛けになって。揺れますから。」


こぐ波などないのに、女性は櫂を持っていた。


「万年櫻と申します。以後、お見知りおきを。」


そう自己紹介すると、女性はまた、真っ赤な唇に艶のある笑みを浮かべた。


どこへ行くのかは聞かなかった。

いずれわかるだろう。


これはきっと夢なのだな、と、見慣れた街を見慣れぬ角度から眺めながら考えていた。美しい夢だ。もしかしたら、悪夢かもしれないけど。

心を読んだかのように女性がいった。


「どっちでもよいじゃございませんか。美しいものほど、怖いこともあるんですよ。」


そういうとフフッと小さく笑い、櫻の樹を見上げた。


つられて見上げる。

櫻は満開だ。

櫻は一番好きな花だ。

万年櫻と言ったっけ?

それは彼女の名前だろうか。

それとも、この木の名前だろうか。

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