第9話 おかーた




 リィフェルの腕に抱きあげられたトェルは、ちいさな庵の扉を抜ける。


 おとうさんの気持ちを表すかのように圧しかかる雲に覆われた夜だった。闇が緑の樹々を覆い、雲が星と月の光を遠ざける。


「……気が重い」


 落ちるリィフェルの肩を、のばしたトェルの手がぽふぽふする。


「おとーた」


 ほのかな笑みを浮かべたリィフェルは、片腕でトェルを抱いたまま頭をなでてくれた。


「トェルをひとり残すと、よからぬ輩が来るやもしれぬ。ともに行ってくれるか」


「あい!」


 広い胸に抱きつくと、抱きしめてくれる腕に力が籠もる。涼やかなのに微かにあまいリィフェルの香りに包まれたら、どこまでだってゆける気がする。


 微笑んだリィフェルの月の髪が舞いあがる。きらめきがリィフェルの身体を取りまいた瞬間、ふわりと浮かんだ。


「母上は月の宮に住まう月のきみ、至高五天のひと精であり、最高位の至天でもある」


 陽、月、緑、地、水、五つの大きな力を司る精霊がいて、その精霊を束ね頂点に君臨する五天によって精霊界は統治されているという。


緑、地、水の精霊も絶大な力で精霊界を支えているが、月と陽の精霊は別格の強さを誇るそうだ。


「……色々言われるかもしれん」


 月の眉が下がるのに、トェルはちいさな手をのばす。


「ごめ、なさぃ」


「トェルが謝ることなど、何もない!」


 抱き寄せてくれたリィフェルが、吐息する。


「……私が月のきみとなれるほど強かったならと思うが……母上に勝てる気がしない」


 項垂れるリィフェルとは裏腹に、その身は天高く舞いあがる。月と星を隠す雲さえ、越えてゆく。分厚い灰のような雲に入ったら、白い霧に包まれた。


「?」


 のばす手は、擦り抜ける。首をかしげるトェルに、リィフェルは微笑んだ。


「トェルは賢いな。そう、雲とは水のちいさな粒の集まりで、ふれると水になる」


 リィフェルが雲にさわらせてくれる。ほんのり湿った気がするてのひらを握って、ひらいて、トェルは首をかしげた。ちいさく笑ったリィフェルが、さらに高く舞いあがる。

 霧の森を抜けた向こうには、星の海が、月のひかりが広がっていた。


「わあ……!」


 しがみつくトェルの頭を、大きな手がなでてくれる。リィフェルが長い指をかざすと、夜が揺れた。見えていた空が幻だったかのように、世界がぶれる。浮かびあがる紋様が、光の粒となって弾けた。


 舞い落ちる光をまとったリィフェルが、天を割る。その向こうには、ましろな雲のうえに輝く宮がひっそりとたたずんでいた。


 月の光を編みあげて紡ぎだしたような宮だった。すべての壁にも床にも輝く糸が織りあげた紋様がやさしい光を放っている。まろい形は月の雫のようで、すぐそばの天から滴ったかに見えた。


 宮に降り立ったリィフェルの額にも、同じ紋様が燈る。


「月のきみリヴァリゼさまに奏上、リィフェルが参りました」


 リィフェルの唇からこぼれた言葉が光の粒になり、月の宮を渡ってゆく。


月明かりを吸いこむようにきらめく宮に清かな光が走る。リィフェルを招き入れるように、光の紋の扉が開いてく。


「おお! よく来たなあ、リィ! 元気だったかぁア──!」


 ど──ん!


 ぶつかるように飛んできた輝く精霊を、解っていたようにリィフェルの片腕が抱きとめた。


「トェルがつぶれるからやめてくれ、母上」


 リィフェルとおそろいの月の髪がさらさら流れる。見開かれた月の瞳が、トェルの目をのぞきこむ。


「魔族の子じゃないか!」


 叫ばれたリィフェルは尖った耳を押さえた。


「……リヴァリゼさま、いや母上、もう少しふつうの音量で……」


「しかも月の加護までついてる! 何だこれ! リィが与えたのか!」


「声を絞れ──!」


 叫ばれたリヴァリゼは、ふてくされたように頬をふくらませた。


「リィだって、でかい声出してる」


「母上が聞かないから」


 嘆息するリィフェルに、月のきみがすねたように唇を尖らせる。


「つれない。俺はこんなにリィを愛しているのに!」


 ぎゅう。


 抱きつかれたリィフェルの月の眉が、びみょうだ。


「……その、愛情表現はうれしく、思う、が、ちょっと……はずかしい」


 聞き取れないほどちいさな声に、月のきみが、によによしてる。


「あぁ、今日も俺のリィは世界一可愛いなあ!」


 ほっぺをくっつけてすりすりされたリィフェルが、ぐぃいとリヴァリゼを引き離した。


「近すぎる!」


「ひどい!

 最近全然遊びに来てくれねえから、母ちゃんしょんぼりだったよ。リィを補給するんだ!」


 ぐいぐいリィフェルを抱きしめる月のきみと、リヴァリゼを止めようとするお義父さんの間で、トェルは唇を開く。


「おかーた?」


 瞬いたリィフェルはうなずいた。


「ああ、精霊の性別は、このみだ。力の強い精霊でないと子を成すことはできず、生んでくれた精霊が母と呼ばれる」


「俺がリィフェルの母ちゃんだ」


 えへんと胸を張るリヴァリゼにトェルは拍手する。ぱちぱち鳴る音に、月のひかりを振りまいてリヴァリゼが笑った。


「同じ精霊同士なら可能だが、違う精霊、月の精と陽の精だと子は難しい。大抵は後継者を生むために自らの力と精霊界に満ちる力で子を成すんだ。分身ではない新たな存在を生む」


 トェルにもわかるように教えてくれる。


「私に父はいない。この騒がしいのが、確かに私の母だ」


「リィがひどい!」


 ふくれた頬の月のきみが、トェルの顔をのぞきこむ。


「しっかし、しゃべるのか、このちっささで! こりゃ真剣に魔族だな」


 月の眉をひそめるリヴァリゼに、リィフェルは告げる。


「川に捨てられたところを拾った。私が父として育てる。万一の時は私が止める。月のきみに報告、認可をいただきたい」


「却下だ」


 おごそかに月のきみは、かぶりを振った。


「伴侶も持ってないリィが子どもを先に持つなんて、絶対許さない!」





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