ストレート寿司
久田井交
ストレート寿司
――早坂貫太。
その名を知らぬ野球ファンはいなかった。
最速160キロの豪速球。針の穴をも通すと言われた制球力。縦に鋭く落ちるフォーク、膝元をえぐるスライダー、大きな弧を描くカーブ。そのどれもが一流投手の決め球になり得るのに、彼はそれらを全部まとめて自在に操った。
デビュー以来、獲得タイトルは数知れず。沢村賞を何度も受賞し、MVPのトロフィーはリビングの棚を完全に占拠した。日本球界において、彼の名を冠さないシーズンは存在しないと言われるほどだった。
引退会見の日。
カメラのフラッシュが止まらぬ会見場で、進行役が「それでは質問をどうぞ」と促すと、記者たちが一斉に手を挙げた。
「全盛期の今、なぜ引退を?」
「メジャー挑戦はしないのですか?」
矢継ぎ早の質問に、貫太は顎に手を当て、しばし考える素振りを見せた。
そして、ごくあっさりと口を開いた。
「……飽きたんで」
一瞬、沈黙。次の瞬間、会場全体がざわめいた。
「飽きた!?」
記者たちは耳を疑い、慌ててメモを取り直す。
その翌日、全国紙には大きな見出しが踊った。
「怪物投手、飽きて引退!」
あまりに唐突で、あまりに彼らしい幕引きだった。
引退後。世間は彼が野球界に残ると信じて疑わなかった。コーチ、監督、解説者――オファーは山ほど届いた。だが、すべてを断った。
代わりに彼が門を叩いたのは、銀座の老舗寿司店「鮨・神蔵」だった。
「寿司を握りたいんです」
店の暖簾をくぐり、真顔でそう言った。
最初は冗談かと思われた。だが本気だった。
野球で頂点を極めた男が、次に目指したのは寿司職人だった。
その道は想像を絶する厳しさだった。
毎日、床を磨き、雑巾を絞り、米を研ぎ、水加減を習う。何十匹もの魚をさばき、皮を引き、骨を抜く。手が荒れ、指先は切り傷だらけ。だが彼は一度も弱音を吐かなかった。
5年の修行を経て、ようやく「寿司を握る」という段階にたどり着いたとき、貫太は涙が出そうだった。
だが、師匠は首を横に振った。
「お前の寿司は確かにうまい。だが……何かが足りん」
「何か……ですか」
「そうだ。寿司に魂がない。お前にしかできない寿司を作れ」
その言葉が胸に突き刺さった。
布団に横たわり、天井を見つめる。
(俺にしかできない寿司……俺は何者だ?)
答えはすぐに出た。
(俺は元プロ野球選手だ。だったら、野球を活かすしかない!)
翌日から始まった「野球寿司」試作シリーズ。
まずはフォークボールの握りを応用した「フォーク寿司」。
「師匠、どうぞ!」
師匠は一口食べて、静かに首を横に振った。
次は「カーブ寿司」。これもダメ。
最後に「スライダー寿司」。またダメ。
「俺の変化球、全滅か……」
カウンターの裏で膝を抱える貫太。
だがそのとき、脳裏に浮かんだのは現役時代のあの場面だった。
9回裏ツーアウト満塁。ツーストライク、スリーボール。
点差は1点。相手はシーズン70本塁打の怪物・武蔵。
フォーク、カーブ、スライダー――すべて打たれていた。
球場全体が息を呑む。
貫太は笑った。
「俺の一番の武器は……ストレートだ!」
振りかぶり、渾身の直球。
――バットは空を切った。
その感覚が、鮮明に蘇る。
「そうだ……ストレート!」
貫太は寿司桶を抱え、決意に満ちた目で師匠を見つめた。
数日後、なぜか野球場のマウンドに呼び出される師匠。
「なんでワシがここに……」
ホームベースに座らされた師匠は、不安げに眉をひそめた。
マウンド上の貫太は、不敵に笑った。
「俺にしかできない寿司が完成しました!」
振りかぶる。手の中には、光り輝く鮪の握り。
「くらえ! 160キロの――ストレート寿司!」
ズドォォン!
轟音を立てて寿司は一直線に飛び、師匠の口へと吸い込まれた。
球場は静まり返る。
もぐもぐと咀嚼した師匠が、ゆっくり口を開いた。
「……これは寿司じゃない。寿司野球じゃ」
■エピローグ
「ストレート寿司」が師匠の口に突き刺さったあの日から――世の中は妙な方向へと転がり始めた。
まず最初に真似をしたのは、銀座の寿司職人たちだった。店の裏でシャリを握り、カウンターの端から客の口へ寿司を投げ込む。命中すれば拍手喝采、外せば大ブーイング。口コミで噂が広まり、「投げる寿司屋」として予約が殺到した。
次に飛びついたのはスポーツ界だ。野球場を借り切って「寿司バッテリー対決」なるイベントが開かれた。投手は握った寿司を投げ、捕手はマスクを外して口で受け止める。観客席からは「ストライク!」「ノーコン!」と声援が飛び交い、なぜか野球と寿司が同じ熱狂を生み出した。
テレビ局も黙ってはいなかった。深夜番組「寿司ベースボール甲子園」は高視聴率を叩き出し、子供たちの間では「寿司投げクラブ」が全国的に設立された。小学校の校庭では、硬球ではなくシャリの飛沫が舞い、母親たちは制服に醤油のシミを洗うのに頭を抱えた。
やがて海外へも波及した。
ニューヨークのセントラルパークでは「SUSHI LEAGUE」が発足。大柄なアメリカ人たちが、マグロやサーモンを必死で口に受け止める姿は、ニュース番組で「奇妙だが魅力的」と紹介された。
そしてついに、国際オリンピック委員会が公式発表を行った。
「次回大会より、新種目〈SUSHI BASEBALL〉を正式競技とする」
その瞬間、世界中の寿司屋と野球場から、割れんばかりの歓声が上がった。
開会式。
大歓声に包まれ、始球式のマウンドに立ったのは――早坂貫太。
彼はかつてと同じように、不敵な笑みを浮かべ、観客席を見渡す。そこには、老いた師匠の姿もあった。
静かに振りかぶり、彼は今度は世界に向かって宣言した。
「これが、俺にしかできない寿司だ!」
渾身のストレート寿司が宙を駆ける。
スタジアムに轟く歓声の中、寿司は誰かの口へと吸い込まれていった。
こうして「寿司野球」は、正式に人類の文化となったのである。
ストレート寿司 久田井交 @majiru_sh
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