第五章 最後の記録官
テノチティトランが陥落してから一年が過ぎた。
かつて湖上に輝いていた美しい水の都は、今やスペイン人たちの植民地都市へと変貌していた。石造りの神殿は破壊され、その上にキリスト教の教会が建てられている。運河は埋め立てられ、馬車が通れる道路に変わった。市場では異国の商品が並び、街角からはスペイン語の会話が聞こえてくる。
私は生き残った数少ないアステカの知識人の一人として、新しい支配者たちの下で翻訳官の仕事を与えられていた。アステカの言語とスペイン語を繋ぐ橋渡し役として。
皮肉なことに、翡翠の力を失った私にとって、この仕事は新たな真実を知る機会となった。スペイン人たちの会話を通じて、彼らの真の目的と計画を理解することができたのだ。今では私は人間的な洞察力だけで、言葉の奥にある真意を読み取れるようになっていた。翡翠への依存から解放されたことで、むしろより鋭い観察力を得たのかもしれない。
コルテスは征服者として成功を収めたが、彼もまた複雑な人物だった。確かに貪欲で残酷な面があったが、同時にアステカの文化に対してある種の敬意も抱いていた。彼は私に言ったことがある。
「イツィル、君たちの文明は素晴らしかった。これほど美しく整備された都市を見たことがない」
だが彼は続けた。
「しかし時代は変わったのだ。古い世界は終わり、新しい世界が始まる。君もそれを受け入れるべきだ」
私は表面上は従順に頷いていたが、心の中では違うことを考えていた。確かに古い世界は終わった。だがその記憶と教訓は決して失われてはならない。
私は密かに記録を続けていた。新しい支配者たちの行動、生き残ったアステカ人たちの証言、そして失われゆく文化の記録を。
ある日、私は驚くべき人物と再会した。
クアウテモクだった。
彼は捕虜として囚われていたが、まだ生きていたのだ。
私は翻訳官としての立場を利用して、密かに彼との面会を果たした。牢獄の中の彼は痩せ衰えていたが、その眼光は依然として力強かった。
「イツィル……生きていたのか」
彼は弱々しい声で言った。
「私はもうすぐ処刑されるだろう。スペイン人たちは私を危険視している」
私の胸は痛んだ。
「クアウテモク……」
「だが悔いはない」
彼は微笑んだ。
「最後まで我が人民のために戦えた。テナヨル様への償いも、少しはできたかもしれない。それで十分だ」
そして彼は私に頼んだ。
「約束を覚えているか? 我らの物語を記録すると」
「はい、必ず」
「ならば安心だ」
クアウテモクは安らかな表情を浮かべた。
「真実は死なない。あなたの記録によって、永遠に生き続ける」
それが私たちの最後の会話となった。翌週、クアウテモクは処刑された。アステカ帝国最後の抵抗者として。
私は彼の死を記録に加えた。
英雄の最期として、永遠に記憶されるべき物語として。
月日は流れ、私も老いていった。新しい世代の
私はある日、重要な決断を下した。私の記録を公にする時が来たのだ。ただし、それは慎重に行わなければならなかった。
私はスペイン人の年老いた司祭、フライ・ベルナルディーノと親しくなっていた。彼は他の征服者たちとは異なり、アステカの文化に本物の興味を持っていた。
私は彼に相談してみることにした。
「フライ・ベルナルディーノ、お話があります」
ある静かな午後、私は彼に言った。
「私たちの古い文化について、記録を残したいのです」
彼は興味深そうに頷いた。
「それは素晴らしい考えだ、イツィル。知識が失われることは、人類共通の損失だからね」
私は慎重に言葉を選んだ。
「ただし、その記録には……征服についての真実も含まれています」
司祭は少し考え込んだ。
「真実は時として痛みを伴う。だが隠蔽するよりも記録する方が良いだろう」
彼は私を見つめた。
「君の記録を読ませてもらえるかな?」
私は彼に、慎重に編集した記録の一部を見せた。あまりにも政治的に敏感な部分は省略したが、アステカの文化と征服の実態は正確に記録していた。
司祭は長時間をかけて記録を読んだ。そして最後に言った。
「これは貴重な記録だ。後世に残すべきものだ」
彼は私に提案した。
「スペイン語にも翻訳してはどうか? より多くの人に読まれるように」
私は躊躇した。
「しかし、当局が問題視するかもしれません」
「私が保証しよう」
司祭は力強く言った。
「これは学術的な記録だ。政治的な扇動文書ではない」
こうして私の記録は、ナワトル語とスペイン語の両方で保存されることになった。司祭の協力により、複数の写本が作られ、メキシコの各地の修道院に分散して保管された。
私の最後の仕事は、記録の隠し場所を示す地図を作ることだった。湖の小島に隠した完全版の記録の在り処を、信頼できる人々に託すために。
私は三人の子供たちを選んだ。一人はスペイン人の子、一人はアステカ人の子、そして一人はメスティーソの子。彼らには地図の一部ずつを渡し、将来もし必要が生じた時に、三人が協力して完全な記録を発見できるようにした。
これで私の使命は完了した。
ある静かな夜、私は湖のほとりに座っていた。かつてテノチティトランが浮かんでいた場所を眺めながら。
月光が湖面を照らし、水の下に沈んだ古い都の幻影が見えるような気がした。美しいピラミッド、色とりどりの運河、市場の賑わい……全てが懐かしい記憶の中に生きている。
私は微笑んだ。確かに古い世界は終わった。だが新しい世界にも希望がある。異なる文化が出会い、融合し、新しいものを生み出す可能性がある。
私の記録は、その架け橋となるだろう。過去と現在を、異なる文化を、そして人間の普遍的な体験を繋ぐために。
真実は決して死なない。形を変え、言語を変え、時代を超えて伝承されていく。
私、イツィル・チャルチウィトルは、翡翠の力を失った記録官として、この物語を未来に託す。
読む者よ、この記録から何を学び取るかは、あなた次第だ。
権力は腐敗しやすく、真実は時として痛みを伴う。
だが人間には、困難に立ち向かい、文化を創造し、愛と勇気をもって生きる力がある。
それこそが、どの時代にも変わらない人間の尊厳なのだ。
この物語を読むあなたにも、同じ力が宿っている。あなた自身の時代の記録官として、真実を見極め、未来に伝える責任がある。
翡翠の力を失った私に代わって、あなたがその役割を担ってほしい。
これで私の物語は終わる。
だが人間の物語は続いていくだろう。
永遠に。
(了)
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イツィル・チャルチウィトルの記録
西暦1522年、新スペイン植民地にて
最後の宮廷記録官の証言として
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【アステカ帝国興亡短編小説】美しき翡翠の記録官 ~テノチティトラン最後の真実~(約19,000字) 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi
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