第四章 神々の戦い
スペインの征服者たちがテノチティトランの都に足を踏み入れたのは、私がクアウテモクとの戦いを終えてから数ヶ月後のことだった。
エルナン・コルテス率いる五百人余りの軍勢は、確かに神のような存在に見えた。太陽の光を反射する金属の鎧、雷鳴を轟かせる火器、そして何より私たちが見たこともない巨大な獣――馬に跨った姿は、まさに超自然的な力を持つ存在のようだった。彼らの纏う金属の鎧は銀のように輝き、その重厚な響きは雷のようだった。
だが私には真実が見えていた。翡翠の力は失ったものの、テナヨルが残した手がかりと、あの地下神殿で見た証拠によって、彼らの正体を理解していたからだ。
彼らはケツァルコアトルの化身などではない。遥か東の海の向こうからやって来た、まったく異なる文明の人間たちだった。彼らには彼らなりの神がおり、文化があり、そして何より強大な武力があった。
モクテスマ陛下は最初、スペイン人たちを神として迎え入れようとした。宮廷では連日、彼らをもてなすための宴が開かれ、最高級の食事と贈り物が提供された。黄金の器、翡翠の装身具、色とりどりの羽毛飾り……帝国の富のすべてが惜しみなく提供された。
私は記録官として、コルテスとの謁見に同席していた。彼は四十代前半の男性で、鋭い眼光と意志の強そうな顎をしていた。通訳を介しての会話だったが、その言葉の端々に隠された野心を感じ取ることができた。
「偉大なるモクテスマよ」
コルテスは丁寧に言った。
「我らは遥か彼方のスペインという国から参りました。我らの王の命により、新たな土地を探索し、信頼関係を築くために」
表面上は友好的な言葉だったが、私は翡翠の力なしでもその裏にある意図を理解していた。彼らの目的は征服と略奪なのだ。彼らの眼差しが宮廷の黄金色の貪欲な輝きを放っているのが見えた。
特に彼らの視線が宮廷の黄金の装飾品に注がれるのを見逃さなかった。アステカの富への貪欲な欲望が、その表情から読み取れた。
数週間が過ぎると、状況は徐々に変化し始めた。スペイン人たちは表面上は客人として振る舞いながらも、密かに都の地理や軍事力を調査していた。そして次第にその本性を現し始めたのだ。
決定的な事件が起きたのは、年に一度の大祭の夜だった。テンプロ・マヨールでは数千人の市民が集まり、神々への感謝を捧げる儀式が行われていた。
私も記録官として儀式に参加していたが、その夜は特別な緊張感があった。スペイン人たちの存在が、伝統的な儀式に微妙な影を落としていたのだ。神官たちの祈りの声に不安が混じり、踊り手たちの動きにもぎこちなさがあった。
儀式の最中、突然爆発音が響いた。スペイン人たちが火器を発砲したのだ。神殿は瞬く間に混乱に陥り、人々は恐慌状態で逃げ惑った。子供たちの泣き声、女性の悲鳴、男たちの怒号が神殿中に響いた。
だがこれは単なる威嚇ではなかった。コルテスの部下たちは組織的に動き、宮廷の要所を占拠し始めた。そして最も驚くべきことに、モクテスマ陛下を拘束したのだ。
「これは一体何事か!」
私は叫んだが、鎧を着たスペイン兵たちが私の前に立ちはだかった。彼らの金属の鎧は血の匂いを帯び、その目には冷酷な光が宿っていた。
コルテスは陛下の前に立ち、冷たい笑みを浮かべた。
「モクテスマよ、状況が変わったのだ。今後、貴殿は我らの客人として宮殿に留まってもらう」
それは明らかな軟禁宣言だった。アステカ帝国の皇帝が、わずか数百人の異国人によって捕らえられたのだ。
私は急いでクアウテモクの元に向かった。テスカトリポカの憑依から解放された彼は、すっかり元の真面目な軍人に戻っていた。そして今や帝国の危機に立ち向かう重要な人物となっていた。贖罪の念を胸に、彼は以前にも増して民のために尽くそうとしていた。
「クアウテモク、一大事です」
私は息を切らしながら報告した。
「陛下がスペイン人に捕らえられました」
彼の顔が青ざめた。
「何ということだ……それでは帝国の命運は……」
「まだ諦めてはいけません」
私は彼の肩を掴んだ。
「あなたには軍を指揮する権限がある。市民を守り、この都を死守するのです」
クアウテモクは決意を固めた表情で頷いた。
「分かりました。イツィル様、あなたは安全な場所に避難を」
「いえ、私は記録官です」
私は断固として言った。
「最後まで真実を記録し続けます。それが私の使命ですから」
その後の数日間は、まさに地獄のような光景だった。スペイン人たちは人質となった皇帝の権威を利用して帝国を支配しようとしたが、市民の怒りは爆発寸前だった。
クアウテモクは密かに抵抗勢力を組織していた。彼はかつての野心を捨て、今は純粋に帝国と人民を守ろうとしていた。テスカトリポカの憑依から解放されたことで、彼本来の高潔な性格が戻ってきたのだ。そして彼の心の奥底には、テナヨルを失った深い悔恨があった。
私は彼らの活動を支援しながら、日々起こる出来事を詳細に記録していた。スペイン人たちの行動、市民の反応、そして帝国の運命を左右する様々な事件を。
ある夜、クアウテモクが私の館を訪れた。
「イツィル様、お話があります」
彼の表情は深刻だった。
「我らは決起します。スペイン人を駆逐し、陛下を解放するのです」
「それは……危険すぎます」
私は心配になった。
「彼らの武器は我々よりもはるかに強力です」
「それでも戦わねばなりません」
クアウテモクは力強く言った。
「この美しい都を、我らの文化を、後世に伝えるために。そして……テナヨル様の無念を晴らすために」
彼の決意は固かった。私は何も言えなかった。
「ただし」
彼は続けた。
「もし我らが敗れた時のために、お願いがあります」
「何でしょうか?」
「あなたの記録を安全な場所に隠してください」
クアウテモクは真剣な眼差しで私を見つめた。
「我々の時代の真実を、未来の人々に伝えてください。我々が確かに存在し、この土地を愛し、最後まで戦ったことを」
私は涙ぐみながら頷いた。
「お約束します」
決戦の日がやって来た。クアウテモク率いるアステカ軍と、コルテス率いるスペイン軍の最終決戦が始まったのだ。
戦いは凄惨を極めた。アステカの戦士たちは黒曜石の武器と勇気だけを頼りに、鉄の鎧と火器で武装したスペイン兵に立ち向かった。彼らの戦いぶりは勇猛で美しく、死を恐れない姿は神々しくさえあった。
私は宮廷の高台から戦況を見守っていた。アステカの戦士たちの勇猛さは見事だったが、武器の差は如何ともしがたかった。
戦いの最中、私は奇妙な光景を目にした。戦場の上空に巨大な鳥のような影が舞っているのだ。それはケツァルコアトルの化身のように見えた。
だがその鳥は戦いに介入することはなかった。ただ悲しげに舞い続けるだけだった。まるで文明の終焉を嘆いているかのように。神々は人間の選択を見守るだけで、最終的な決断は人間に委ねられているのだ。
戦いは三日三晩続いた。そして最終的に、スペイン軍の勝利で終わった。クアウテモクは最後まで戦い続けたが、ついに捕らえられてしまった。
テノチティトランの陥落。それは一つの文明の終焉を意味していた。
私は急いで自分の記録を整理し、安全な場所に隠した。湖の中の小島にある秘密の洞窟に、アマトゥル紙に記した全ての記録を封印したのだ。
そして最後の記録を書き始めた。血をインクとして使いながら、この物語の結末を。
美しいテノチティトランは炎に包まれ、湖に沈んでいく。だが私たちの記憶は永遠に残るだろう。この記録を読む未来の誰かによって。
私は最後の記録官として、この物語を完成させる。それが私に残された唯一の、そして最も重要な使命なのだから。
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