第三章 煙る鏡の陰謀
太陽の神殿の扉は想像していたよりも軽く開いた。まるで私の到来を待っていたかのように。
神殿の内部は息を呑むほど美しかった。
天井は透明な水晶で覆われ、月光が幻想的な光の模様を床に描いている。壁面には色とりどりの羽毛で作られたケツァルコアトルの巨大な壁画があり、その青緑の羽根が微かな風に揺れていた。空気には甘いコーパルの香りが漂い、どこからか鳥の美しいさえずりが聞こえてくる。
そして神殿の中央には、私が探し求めていたものがあった。ケツァルコアトルの心臓と呼ばれる翡翠の塊。それは人の頭ほどの大きさがあり、内部から柔らかな緑の光を放っていた。その輝きは私の手にある小さな翡翠とは比べものにならない神聖さを秘めている。
私はゆっくりとその翡翠に近づいた。これほど大きく美しい翡翠は見たことがない。手に持っている小さな翡翠とは比べものにならない力を秘めているのは間違いなかった。
翡翠に触れようと手を伸ばした瞬間、背後から声がかかった。
「そこまでだ、記録官の娘よ」
振り返ると、クアウテモクが神殿の入り口に立っていた。だが彼の姿は先ほどとは明らかに異なっていた。その瞳は人間のものではなく、黒曜石のように冷たく光り、全身から黒い煙のようなオーラが立ち上っている。彼の周りの空気は冷たく、死の匂いが漂っていた。
テスカトリポカ。
戦争神そのものが彼の身体を借りて現れたのだ。
「全て知ってしまったようだな」
彼の声は地響きのように低く、神殿全体を震わせた。
「テナヨルのように消えてもらうしかあるまい」
私は翡翠の心臓に背を向けたまま答えた。
「テナヨル様を殺したのはあなたですね」
「殺した? いや、あれは自然な死だ」
クアウテモクは冷笑を浮かべた。
「ただし我が恐怖の力が彼の老いた心臓を止めただけのこと。恐怖こそが最も確実な武器だ」
なんと恐ろしい力だ。直接手を下すことなく人を殺すことができるとは。
「あなたの計画は分かりました」
私は静かに言った。
「皇帝陛下を廃位し、この帝国を軍事国家に変える。そのために白い神の噂を利用して民衆を混乱に陥れる」
「ほう、よく調べたものだ」
テスカトリポカは感心したように頷いた。
「だが計画を知ったところで何になる? もはや止めることはできぬ」
彼が手をかざすと、黒い影が鞭のようにしなって私に襲いかかってきた。私は咄嗟に横に飛んで避けたが、影の鞭は私がいた床の石を粉々に砕いた。砕けた石片が私の頬をかすめ、血が滲んだ。
「お前のその忌々しい翡翠の力も、ここまでだ」
再び影の鞭が襲いかかる。私は翡翠の心臓の周りを逃げ続けた。だがいつまでも逃げ続けることはできない。
その時、私の手の中の小さな翡翠が急に熱くなった。そして背後の翡翠の心臓も同時に光を強めた。二つの翡翠が共鳴している。温かい風が神殿の中を吹き抜け、壁画のケツァルコアトルの羽根がざわめいた。
私は直感で理解した。翡翠の心臓に直接触れれば、ケツァルコアトルの力を借りることができるかもしれない。
私は影の鞭をかいくぐりながら翡翠の心臓に手を伸ばした。指先が表面に触れた瞬間、私の身体に強烈な力が流れ込んできた。
それは温かく、優しく、そして圧倒的に強大な力だった。
ケツァルコアトル。
羽毛ある蛇。
文化と平和の神の力が私の身体を包み込んだ。
慈愛と知恵、そして創造の力が私の魂に宿る。
私の全身から眩い光が放たれた。それは純白で神聖な光で、テスカトリポカの黒い影を弾き返した。神殿の中が昼間のように明るくなり、壁画のケツァルコアトルが生命を得たように動き始めた。
「何っ!?」
クアウテモクが驚愕の声を上げた。
「まさかケツァルコアトルが直接……」
光に包まれた私の前に、巨大な羽毛ある蛇の幻影が現れた。それはケツァルコアトルの真の姿だった。美しい緑と青の羽根を持つ巨大な蛇が、威厳に満ちた眼差しでテスカトリポカを見つめている。その眼光には慈愛と共に、邪悪を許さない厳しさも宿っていた。
神殿の中で二柱の神々の超自然的な戦いが始まった。光と闇、創造と破壊、秩序と混沌。古代から続く永遠の対立が、この小さな神殿の中で再現されたのだ。
ケツァルコアトルの光がテスカトリポカの闇と激突するたび、神殿全体が激しく震動した。壁面の装飾が崩れ落ち、床の石が割れていく。雷鳴のような音が響き渡り、空気が火花を散らした。
戦いは夜明けまで続いた。やがて東の空が白み始めると、ケツァルコアトルの光がテスカトリポカの闇を圧倒し始めた。善神の力は太陽の光と共に強くなるのだ。
最後の決定的な一撃が放たれた。ケツァルコアトルの羽根から放たれた純白の光が、テスカトリポカの黒いオーラを完全に消し去った。
クアウテモクは力なく床に倒れ伏した。その身体からは黒い煙が立ち上り、やがて消えていく。テスカトリポカの憑依が解けたのだ。
私は翡翠の心臓から手を離した。すると同時に、私の手の中にあった小さな翡翠が光を失った。石の表面にひびが入り、やがて粉々に砕け散った。まるで蛍の光が消えるように、私の掌の中で翡翠の欠片が風に散っていく。
私の翡翠の力は永遠に失われてしまった。それがケツァルコアトルの力を借りた代償だったのだ。
倒れているクアウテモクに近づくと、彼はただの人間の青年に戻っていた。野心に敗れた哀れな若者の姿で。
「イツィル……」
彼は弱々しい声で私の名を呼んだ。
「私は……私は何をしていたのだ……」
テスカトリポカの憑依から解放された彼は、自分の行為を明確に覚えていないようだった。だが次の瞬間、記憶の断片がフラッシュバックしたのか、彼の顔が青ざめた。
「テナヨル様……私がテナヨル様を……」
彼の目に涙が浮かんだ。
憑依中の記憶が断片的に蘇り、自らの罪の重さを理解し始めたのだ。
「どうして私は……あの優しいテナヨル様を……」
クアウテモクは両手で顔を覆い、慟哭した。
「クアウテモク」
私は彼を見下ろしながら言った。
「あなたは野心に心を奪われ、邪神の囁きに従ってしまった。だがまだ手遅れではありません」
彼の涙に濡れた目が私を見上げた。
「今からでも償うことはできます」
私は彼に手を差し伸べた。
「真実を皇帝陛下に告白し、帝国の平和のために尽くすのです。それがテナヨル様への償いになります」
クアウテモクは私の手を取って立ち上がった。彼の瞳には再び人間らしい光が宿っていた。そして深い悔恨と、贖罪への決意が燃えていた。
「イツィル様、あなたの言う通りです。私は全てを陛下に告白します。そして残りの人生をかけて、この罪を償います」
私たちは神殿を後にし、宮廷に向かった。もはや陰謀は阻止された。だがより大きな危機が迫っていることを、私は知っていた。
数日後、東の海岸から驚くべき知らせが届いた。白い肌の男たちが本当に巨大な船でこの大陸に到着したのだ。エルナン・コルテス率いるスペインの征服者たちの到来である。
私は皇帝に呼び出され、再び翡翠占いを求められた。だが私にはもうその力は残されていなかった。
「陛下、申し訳ございません」
私は深く頭を下げた。
「翡翠の力は失われました。もはや神託を受けることはできません」
モクテスマ陛下は悲しげに微笑まれた。
「そうか……ならば我らは人間の知恵と勇気のみで、この試練に立ち向かわねばならぬな」
陛下の言葉に私は感動した。神託に頼らずとも、人間には未来を切り開く力があるのだ。
だが私の心には新たな使命が芽生えていた。翡翠の力を失った今、私にできることは何か。それは真実を記録し、後世に伝えることだった。
この滅びゆく帝国の物語を。
神々の名を騙った人間たちの愚かさを。
そしてその中で最後まで気高く生きようとした人々の愛と勇気を。
私は書き始めた。
時には自分の血をインクとして用いながら。
私は最後の記録官となり、この物語を未来の誰かに託すのだ。
私たちの時代が確かにここに存在したのだという証として。
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