第二章 嘘の色彩
テナヨルの死が宮廷に与えた衝撃は想像以上に大きかった。
最高神官という地位は皇帝に次ぐ権威を持ち、宗教的な意思決定の全てを司っている。その突然の死は帝国全体の混乱を招いた。
緊急の重臣会議が招集され、私も翡翠の能力者として出席を求められた。会議室は重苦しい雰囲気に包まれ、居並ぶ重臣たちの表情は暗かった。
モクテスマ陛下は玉座に座り、深い悲しみを湛えた目で我々を見つめていた。
「テナヨルの死は帝国にとって大きな損失だ」
陛下の声には疲労が滲んでいた。
「だが我らは動揺してはならない。白い神の到来を前に、宗教的な秩序を保たねばならぬ」
軍事司令官のクアウテモクが前に出た。
「陛下、この度の不幸な出来事は、まさに神々からの警告かもしれません」
彼の声は沈痛に響いたが、私は翡翠を手に彼の言葉を聞いていた。その言葉には複雑な色彩が混じっている。真実と嘘が巧妙に織り交ぜられていた。
「テナヨル様は最近、白い神についてある懸念を抱いておられました」
クアウテモクは続けた。
「彼らが本当にケツァルコアトルの使いなのか、それとも我らを滅ぼそうとする悪霊なのか、見極める必要があると」
この部分は真実の色を示していた。
テナヨルは確かに白い神について調査していたのだ。
「ならば我らは軍備を整え、あらゆる事態に備えるべきです」
そしてこの部分に嘘の色が混じった。
クアウテモクの真の目的は軍備増強にあるのではない。
それは……。
私は会議の後、テナヨルの死について独自の調査を開始することを決めた。まずは第一発見者である若い神官トラルテクトリに話を聞くことにした。
トラルテクトリは二十代前半の真面目な青年で、テナヨル様に心酔していた。私は彼を人気のない回廊に呼び出し、翡翠を手に尋ねた。
「トラルテクトリ、テナヨル様を発見した時の状況を詳しく教えてください」
「は、はい……」
彼の声は震えていた。
「朝の祈りの時間に神殿に向かうと、テナヨル様が祭壇の前で倒れておられました。既にお息はなく……」
ここまでは真実の色だった。
「そ、それで急いで他の神官を呼んで……」
だが次の言葉に濁った泥の色が混じった。
「他に変わったことはありませんでしたか? テナヨル様の身の回りに不審なものは?」
「い、いえ、特には……」
明らかに嘘だった。
彼は何かを隠している。
「トラルテクトリ」
私は静かに言った。
「あなたは嘘をついていますね」
若い神官は顔を真っ青にして震え上がった。翡翠の力の噂は宮廷中に知れ渡っている。
「お、お許しを! 私は……私は命じられて……」
「誰に命じられたのです?」
「ク、クアウテモク様に……!」
彼は泣きそうな声で白状した。
「テナヨル様の私室から見つかった書類を隠すようにと……!」
やはりクアウテモクが関わっていた。私は心を静めて尋ねた。
「どのような書類でしたか?」
「よく分からない文字で書かれた紙の断片と、東の海から流れ着いたような奇妙な金属片、それと……」
彼は言いよどんだ。
「それと?」
「見たこともない動物の毛皮でした。白くて柔らかな……」
私は息を呑んだ。それらはテナヨルが密かに研究していた「白い神の正体」を示す物証だったのだ。
「その書類は今どこに?」
「クアウテモク様が全て回収されました。そして私に口止めを……」
トラルテクトリは震え声で続けた。
「もし誰かに話したら、テナヨル様と同じ運命になると脅されました」
私は背筋が寒くなった。これは明らかに脅迫だ。そしてテナヨルの死が自然死ではないことを示唆している。
私はトラルテクトリに秘密を守るよう約束し、彼を安心させてから別れた。そして次の行動に移ることにした。テナヨルの私室を調べるのだ。
テナヨルの私室はテンプロ・マヨールの中層階にあった。私は神官としての立場を利用して堂々と立ち入った。既にクアウテモクが重要な物証は回収していたが、何か見落としがあるかもしれない。
部屋の中は質素だったが、壁には複雑な暦の計算図が描かれていた。テナヨルは天文学にも造詣が深く、星の動きから未来を予測する研究をしていた。
私は注意深く部屋を調べた。書机の隅、床板の隙間、壁の装飾の裏……やがて祭壇の台座の下から小さな包みを発見した。それは布に包まれた金属片だった。
包みを開くと、そこには見たこともない金属の欠片があった。鉄よりも硬く、銀よりも輝いている。そして表面には細かな文様が刻まれていた。これは明らかにアステカの技術では作れない代物だ。
私は昨夜テナヨルから渡された青い石の欠片と一緒にこの金属片を調べた。すると驚くべきことに、二つの欠片が共鳴するように微かに光ったのだ。青い石の欠片は温かくなり、金属片からは低い響きが聞こえてきた。
この瞬間、私はテナヨルの言葉の意味を理解した。「この石はテスカトリポカの鏡を破る鍵」。青い石は単なる欠片ではない。それは白い神々の遺物を活性化する鍵の一部だったのだ。テナヨルは何らかの理由でこの金属片の一部を私に託したのだ。おそらく彼は自分の身に危険が迫っていることを察知していたのだろう。
私は金属片を詳しく観察した。表面の文様はアステカの象形文字とは全く異なる。むしろ直線的で幾何学的なパターンをしている。これが白い神々の文字なのだろうか。
突然、部屋の外から足音が聞こえてきた。複数の人間が近づいてくる。私は急いで金属片を隠し、何食わぬ顔で部屋を調べているふりをした。
扉が開き、クアウテモクが数人の兵士と共に入ってきた。
「イツィル様、こんなところで何を?」
彼の声は表面上は丁寧だったが、その奥に警戒心が滲んでいた。
「テナヨル様のご冥福をお祈りしに参りました」
私は翡翠を手に自分の言葉の色を確かめた。それは純白の輝きを放っていた。確かに私はテナヨルの冥福を祈っていたのだから。
「そうですか。しかしここはもう立ち入り禁止となっております」
クアウテモクは冷たく言った。
「テナヨル様の遺品整理が完了するまで、関係者以外の立ち入りはお控えください」
私は素直に部屋を出た。だが廊下を歩きながら、彼の言葉を翡翠で分析していた。「遺品整理」という部分に嘘の色が混じっていた。彼の真の目的は証拠隠滅なのだ。
その夜、私は自分の館でテナヨルから託された手がかりを分析していた。青い石の欠片と金属片、そして彼が最後に残した言葉。「真実はテンプロ・マヨールの最深部に隠されています」。
テンプロ・マヨールの最深部といえば、一般の神官でさえ立ち入りを禁じられた聖域がある。そこには古代から伝わる最も神聖な遺物が保管されているという。もしかするとテナヨルが発見した真実がそこに隠されているのかもしれない。
私は決意を固めた。危険を冒してでもその聖域に潜入し、真実を突き止めなければならない。テナヨルの死を無駄にはできない。
翌日、私は慎重に計画を立てた。テンプロ・マヨールへの潜入は夜中に行う。警備の手薄になる時間を狙い、神官としての立場を利用して内部に侵入する。
夜が更けると、私は黒いマントを羽織ってテンプロ・マヨールに向かった。湖上に浮かぶ神殿は月光の下で神秘的な影を落としている。夜風が湖面を渡り、コーパルの残り香が空気に混じっている。
神殿の正面入り口は警備が厳重だったが、側面の神官専用入り口は比較的警備が薄い。私は神官としての身分証を示し、夜間の祈りのためと偽って内部に入った。
テンプロ・マヨールの内部は迷路のように複雑だった。石造りの回廊が何層にも重なり、無数の小部屋が連なっている。松明の炎が壁に踊る影を作り、古代の神々の彫刻が暗闇の中から見つめている。私は記憶を頼りに最深部に向かった。
やがて一つの重厚な石扉の前に辿り着いた。扉には警告の象形文字が刻まれている。「神聖なる者のみ立ち入るべし。穢れた者は死を招く」。
私は翡翠を取り出し、その力を借りて扉の仕掛けを解こうとした。古代の扉には複雑な石の仕掛けが施されており、正しい順序で操作しなければ開かない。
翡翠の力が私に正しい手順を教えてくれた。石の突起を特定の順序で押すと、重い石扉がゆっくりと開いた。古い空気が流れ出し、地下の冷たい匂いが鼻を刺した。
扉の向こうには薄暗い階段が続いていた。私は松明を手に慎重に降りていく。空気は冷たく、古代の神秘に満ちていた。
階段の先には広い地下室が広がっていた。壁には黒曜石の鏡がいくつも嵌め込まれ、松明の炎を不気味に反射している。そして部屋の中央には古代の石板が置かれていた。
私は石板に近づき、その表面を調べた。そこには恐るべき内容が象形文字で記されていた。
それはクアウテモクと軍部の若手将校たち、そしてテスカトリポカの神官団による秘密の計画書だった。彼らは結託し、皇帝モクテスマを廃位させ、アステカを周辺諸国を征服する巨大な軍事帝国へと変貌させる計画を進めていたのだ。
計画は驚くほど詳細に練られていた。まず「白い神の帰還」という噂を利用して民衆の不安と恐怖を煽る。そして混乱の中でモクテスマの弱腰外交を糾弾し、軍事クーデターを起こしてクアウテモクを新しい皇帝として擁立する。さらに近隣の部族国家を次々と征服し、中央アメリカ全域を支配する巨大帝国を築き上げる。
さらに恐ろしいことに、石板には禁断の儀式についても記されていた。クアウテモクは既にテスカトリポカの神官団が行った血の儀式によって、戦争神そのものを自らの身体に憑依させているというのだ。人間の心を持ちながら神の力を得ることで、無敵の皇帝になろうとしているのだ。
私は戦慄した。これはもはや人間の陰謀ではない。神々の代理戦争が始まろうとしているのだ。
だが石板にはもう一つ重要な情報が記されていた。ケツァルコアトルの聖なる心臓と呼ばれる古代の遺物について。それは善神ケツァルコアトルの力を宿した翡翠の大きな塊で、テスカトリポカの闇の力に対抗できる唯一の武器だという。
そしてその心臓は……テンプロ・マヨールの最上階、太陽の神殿に隠されているというのだ。
私は急いで石板の内容を記憶に刻み込んだ。これらの情報を皇帝に伝えなければならない。だがその前に、ケツァルコアトルの心臓を見つけなければ……
その時、地下室の入り口から足音が聞こえてきた。誰かが階段を降りてくる。私は慌てて松明を消し、黒曜石の鏡の影に身を隠した。
やがて現れたのはクアウテモクだった。彼は一人で、手に松明を持っている。そして何より驚いたのは、彼の全身から黒いオーラのようなものが立ち上っていることだった。
これが石板に記されていたテスカトリポカの憑依なのか。彼はもはや普通の人間ではない。
クアウテモクは石板の前に立ち、何かを呟いていた。それは古代語による呪文のようだった。すると石板の表面が赤く光り始め、部屋全体に不気味な響きが満ちた。
私は身を潜めたまま、彼の行動を観察した。どうやら彼は定期的にここを訪れ、テスカトリポカとの契約を更新しているらしい。
儀式が終わると、クアウテモクは石板に向かって話しかけた。
「計画は順調に進んでいる。テナヨルの邪魔は排除した。後は皇帝を追い込むだけだ」
彼の声は普段とは異なり、低く威圧的だった。
「白い神の到来を利用し、民衆の恐怖を最大限に煽る。そして混乱の中で皇帝の無能さを民に知らしめるのだ」
私は翡翠を手に彼の言葉を分析した。全て真実の色を示している。これは彼の本音なのだ。
「だがケツァルコアトルの心臓が邪魔だ。あの忌々しい翡翠の力を手に入れねばならない」
彼はテンプロ・マヨールの上層部を見上げた。
「今夜、太陽の神殿に向かう。そして心臓を我が物とするのだ」
私は急がなければならないと悟った。クアウテモクより先にケツァルコアトルの心臓に辿り着かなければ、全てが終わってしまう。
私はクアウテモクが地下室を去るのを待ってから、慎重に上階へと向かった。太陽の神殿はテンプロ・マヨールの最上部にある。そこには古代から続く最も神聖な祭壇があり、ケツァルコアトルが祀られている。
長い階段を上りながら、私は心の中で祈った。どうか間に合いますように。そして善神ケツァルコアトルの力が私たちを守ってくれますように。
やがて太陽の神殿の扉が見えてきた。扉は黄金で装飾され、ケツァルコアトルの姿が浮き彫りにされている。羽毛ある蛇の神が、慈愛に満ちた眼差しでこちらを見つめているようだった。私は深呼吸をして扉に手をかけた。運命の時が近づいていた。
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