【アステカ帝国興亡短編小説】美しき翡翠の記録官 ~テノチティトラン最後の真実~(約19,000字)

藍埜佑(あいのたすく)

第一章 翡翠の声

 嘘には、色がある。


 私の名はイツィル・チャルチウィトル。


 皇帝モクテスマ・ショコヨツィンに仕える宮廷記録官の一族に生まれ、翡翠の声を聴く者として知られている。


 この力を初めて自覚したのは、まだ七つの頃だった。


 父が商人から買った翡翠の腕輪が「本物だ」と言った時、私にはその言葉が濁った茶色に見えた。実際、その腕輪は巧妙に色を塗られた普通の石だった。その日から私は家族の言葉の色を見るようになり、やがて誰の嘘も見抜けるようになった。だが同時に、私は次第に孤立していった。人は自分の嘘を見透かされることを好まないからだ。


 一族に代々伝わるこの翡翠の石は、掌に収まるほど小さく、湖面のように滑らかな表面を持つ。これを手に人の言葉を聞くとき、私にはその言葉の色が視える。真実の言葉は澄み切った泉の水のような透明な色をしているが、嘘の言葉はその内容や意図によって様々に色を変える。


 自己保身のための嘘は濁った泥のような茶色。

 他者を陥れるための悪意に満ちた嘘は凝固した血のような黒に近い赤。

 恐怖から生まれる嘘は震える灰色。


 そして最も厄介なのは、自分自身さえも騙している信念に満ちた嘘。

 それは時に真実よりも鮮やかな純白の輝きを放つのだ。


 私の仕事はこの翡翠を用いて宮廷に渦巻く無数の言葉の真偽を見極め、皇帝陛下に真実のみを報告すること。人々は私を神の声を聴く巫女だと畏れ敬うが、私が聴いているのは神の声などではない。私が視ているのは人間の心の奥底に潜む欲望と恐怖の色なのだ。


 西暦一五一九年夏。


 テスココ湖の上に浮かぶ壮麗な水の都テノチティトランは、不吉な噂に揺れていた。東の海の向こうから肌の白い神々が巨大な船に乗ってやって来ると。それはかつてこの地を去った偉大なる善神ケツァルコアトルの帰還なのだと民は囁き合った。


 その朝、私は皇帝陛下の前で神聖な翡翠占いを行うため、謁見の間へと向かっていた。石造りの回廊を歩きながら、私は湖上に広がる都の美しさに改めて心を奪われた。


 無数の運河が縦横に走り、花で飾られた浮島農園チナンパが湖面を彩っている。石造りの神殿群は朝日を受けて黄金色に輝き、ケツァール鳥の青緑の羽飾りが風に揺れていた。街の至る所から立ち上る樹脂香コーパルの甘い香りが、神聖な儀式の始まりを告げている。市場では商人たちの活気ある声が響き、遠方から運ばれてきた珍しい品々が陽光の下で輝いている。


 これほど美しい都が、本当に滅びの運命にあるというのだろうか。

 私の胸に不安がよぎった。


 謁見の間は色鮮やかなケツァール鳥の羽飾りで装飾され、焚かれたコーパルの甘い香りに満ちている。モクテスマ陛下は四十代半ば、かつては勇猛な戦士として知られたその顔に深い憂いが刻まれていた。


 陛下の周囲には重臣たちが居並んでいる。軍事を司る鷲の戦士団長トラカエレル、宗教を統括する最高神官テナヨル、そして皇帝の甥にして若き軍事司令官クアウテモク。彼らの表情にも緊張が漂っていた。


「イツィルよ、占え」


 陛下の声は重く、威厳に満ちていたが、その奥に隠しきれない不安が滲んでいた。


「東から来るという白い神は我らに何をもたらすのか」


 私は祭壇に置かれた巨大な翡翠の仮面に両手をかざした。この仮面は先祖代々受け継がれてきた聖なる遺物で、通常の翡翠石よりもはるかに強い力を秘めている。目を閉じ、意識を集中させると、やがてビジョンが見えてきた。


 それは神託などではなかった。それはこの場にいる全ての人間の集合的な恐怖と期待が翡翠を通して私の脳裏に映し出した幻影だった。


 白い帆を張った巨大な船。太陽の光を反射して輝く金属の鎧を着た奇妙な男たち。彼らが携える雷鳴を轟かせる筒。そして血に染まる大神殿テンプロ・マヨールの階段。最後に見えたのは炎に包まれ湖に沈んでいくこの美しい都の姿だった。


 私は恐怖に全身が震えるのを感じた。これは破滅のビジョンだ。だが私はそれをそのまま告げることはできなかった。皇帝の絶望は帝国の絶望に繋がる。


 

 陛下を、民を安心させるための


「陛下。翡翠が示すビジョンは


 私の声は静かに謁見の間に響いた。


「白い神ケツァルコアトルは我らの繁栄を祝福するために帰還されるでしょう。ただしその御心は極めてデリケート。我々は最大限の敬意ともてなしをもって神をお迎えせねばなりませぬ」


 私のその言葉は純白の輝きを放っていた。私自身がそうであってほしいと心の底から願う嘘だったからだ。翡翠が私の手の中で微かに温かくなるのを感じた。


 モクテスマ陛下は安堵の表情を浮かべ、居並ぶ重臣たちからも安心のため息が漏れた。


「そうか、ケツァルコアトルの帰還か……」


 陛下は呟くように言った。


「ならば我らは心を清め、神々にふさわしい歓迎の準備をせねばならぬ」


 その時、謁見の間の片隅で一人の男が私を冷たい目で見つめているのに気づいた。皇帝の甥にしてアステカ軍の若き最高司令官クアウテモク。二十代後半の彼は戦士として優秀で、兵士たちからの人望も厚い。しかしその瞳の奥には私の嘘を見透かしたような、そしてこの状況を利用しようとする黒い野心が燃えていた。


 彼は私に軽く会釈をしたが、その笑みは氷のように冷たかった。私は翡翠を握る手に力を込めた。この男は危険だ。


 占いの儀式が終わると、私は皇帝に拝謁を賜った。


「イツィルよ、そなたの占いに心からの感謝を」


 陛下は私に金の装身具を下賜された。


「だが率直に聞こう。そなたの翡翠は本当に吉兆を示したのか?」


 陛下の鋭い視線が私を捉えた。さすがは帝王、私の内心を見抜いているのかもしれない。私は静かに頭を下げた。


「陛下。翡翠が示すのは常に真実でございます。ただしその解釈は……時に困難を極めます」


 それは嘘ではなかった。私が見たビジョンも一つの真実だった。ただしそれがいつ、どのような形で現実となるかは分からない。もしかすると私たちの行動次第で運命を変えることができるかもしれない。


「そうか」


 陛下は深くうなずかれた。


「ならば我らは最善を尽くすのみ。神々の意志に従い、この帝国を守り抜こう」


 私は宮廷を辞してから、テノチティトランの街を歩いた。湖上に浮かぶこの都は世界でも類を見ない美しさを誇っている。石造りの神殿群、整然と区画された住宅地、花で彩られた運河。市場には遠方から運ばれてきた珍しい品々が並び、人々の活気ある声が響いている。


 私は市場の片隅で立ち止まり、白い神について話し合う商人たちの声に耳を傾けた。翡翠を手に彼らの言葉を聞くと、純白の信仰と茶色の恐怖が複雑に絡み合っているのが見えた。民の心は動揺している。神への信仰と未知への恐れが混在しているのだ。


 だが私の心は重かった。この美しい文明が本当に滅びてしまうのだろうか。白い神とは一体何者なのか。そしてクアウテモクが抱く野心とは何なのか。


 私は翡翠を手に取った。この小さな石に込められた力が、これから起こる出来事の真相を照らし出してくれることを願いながら。


 夜が更けると、私は自分の居住区である宮廷記録官の館に戻った。ここは湖の中央近くの島に建てられており、周囲を運河に囲まれている。館の中央には先祖代々の記録が保管されている書庫があり、アマトゥル紙(樹皮紙)に記された無数の文書が整然と並んでいる。


 私は父から受け継いだ記録官としての仕事に取りかかった。今日の皇帝との謁見、各部署からの報告書、そして街で耳にした民衆の反応まで、全てを正確に記録していく。これが私たち記録官一族の使命だった。真実を見極め、後世に伝える。


 だが今夜は記録の手が進まなかった。私の心に重くのしかかる秘密があったからだ。皇帝についた嘘。そして見てしまった破滅のビジョン。


 私は翡翠を取り出し、改めてその力を確かめようとした。石を手に取り、自分自身に問いかける。


「私がついた嘘は正しかったのか?」


 翡翠は微かに温かくなり、複雑な色彩を示した。純白の中に僅かな黄金色が混じっている。それは「善意の嘘」を表す色だった。少なくとも私の意図は清らかだったということか。


 突然、館の外から足音が聞こえてきた。夜中にこの島を訪れる者などいるはずがない。私は警戒しながら窓に近づいた。


 月光の下、カヌーが静かに接岸するのが見えた。そこから降りてきたのは黒いマントを纏った人影。その動きから老人だと分かった。


「テナヨル様……?」


 私は驚いて呟いた。最高神官が夜中に私の館を訪れるなど前代未聞のことだった。私は急いで入り口に向かった。


「イツィル様でございますか」


 テナヨルの声は普段の威厳に満ちた調子とは異なり、切迫感に満ちていた。


「恐れながら緊急にお話しすることがございます」


 私は彼を館の中に招き入れた。テナヨルは八十歳を超える老人だが、その眼光は若い戦士よりも鋭い。彼は私の前に座ると、周囲を警戒するように見回した。


「外で聞き耳を立てている者はいませんな?」


「はい、この島には私一人しかおりません」


 テナヨルは安堵の息をついた。


「イツィル様、あなたの翡翠の力を信じております。どうか私の言葉をその力で確かめてください」


 彼の表情は深刻だった。私は翡翠を手に取った。


「今、この帝国に迫る危機は、東からの白い神などではありません」


 テナヨルの言葉は澄み切った真実の色を示していた。


「真の敵は我らの内にあります。テスカトリポカの煙る鏡が宮廷を覆い尽くそうとしているのです」


 テスカトリポカ。「煙る鏡」を意味する名を持つ気まぐれで残酷な戦争と妖術の神。ケツァルコアトルとは対極にある存在だ。


「決して惑わされてはなりません」


 テナヨルは私の肩を掴み、その老いた手に力を込めた。


「白い神の本当の神託を探すのです。ケツァルコアトルの心臓に真実があります」


 彼の言葉は全て真実の色を放っていた。だが「ケツァルコアトルの心臓」とは何を意味するのか。


「テナヨル様、もう少し詳しく……」


 その時、館の外から複数の足音が聞こえてきた。テナヨルの顔が青ざめた。


「見つかったか……」


 彼は立ち上がり、私に何かを手渡した。それは小さな石の欠片だった。


「これを持っていなさい。この石はテスカトリポカの鏡を破る鍵。必ずやあなたの助けとなるでしょう」


「テナヨル様、一体何が……」


「時間がありません。覚えておきなさい。真実はテンプロ・マヨールの最深部に隠されています。そして……クアウテモクを信じてはなりません。彼は既に闇に取り込まれています」


 彼はそう言い残すと、裏口から慌ただしく去っていった。私は彼から受け取った石の欠片を見つめた。それは見慣れない鉱物で、微かに青い光を帯びていた。まるで夜空の星のような神秘的な輝きを放っている。


 翌朝、宮廷に衝撃的な知らせが駆け巡った。

 最高神官テナヨルがテンプロ・マヨールの神殿の中で死体となって発見されたのだ。


 公式の発表は老齢による心臓発作だった。だが私にはそれが嘘であることが分かっていた。なぜならテナヨルは死ぬ前夜、密かに私の元を訪れ、何者かに追われていたのだから。そして彼が残した最後の言葉―「クアウテモクを信じてはなりません」。


 私は急いで翡翠を取り出し、この報告が真実かどうか確かめようとした。だがその時、背後から声がかかった。


「イツィル様、陛下がお呼びでございます」


 振り返ると、クアウテモクが立っていた。その笑顔は完璧に作られており、翡翠なしでも嘘だと分かった。


「緊急の会議でございます。テナヨル様の件について陛下のご相談に乗っていただきたいと」


 私は翡翠を懐に隠し、クアウテモクに従った。だが心の中では警戒を強めていた。テナヨルの最後の言葉が脳裏に蘇る。「クアウテモクを信じてはなりません」。


 まさか彼がテナヨルの死に関わっているというのだろうか。そしてテナヨルが言っていた「テスカトリポカの煙る鏡」とは何を意味するのか。


 私は歩きながら、昨夜テナヨルから渡された青い石の欠片を指先で確かめた。この小さな欠片が、これから始まる謎解きの鍵となることを、その時の私はまだ知らなかった。


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