第2話 経験豊富だけど…ゼロな彼女

 夕暮れの街中。千葉蒼真ちば/そうまは学校からの帰り際、大橋紅葉おおはし/くれはと、ふとしたきっかけで下校する事になった。


 紅葉とは今年から同じクラスになったばかり。まだ親しいとは言えない間柄だが、こうして言葉を交わすのは初めてだ。


 紅葉はまさに陽キャであり、明るく誰とでもすぐに打ち解けるタイプ。

 一方、蒼真はクラスでも目立たない存在で、休み時間にはラノベを読みふける陰キャ寄りの少年だ。

 正反対の二人だが、会話が進むにつれ、意外な接点が見えてきた。


「へえ、大橋さんってアニメとか好きなんですね」


 蒼真が少し緊張した声で言うと、紅葉は軽やかな笑顔を返した。


「結構ハマってるんだよね。特に、女向けの作品とか」


 その言葉に、蒼真は思わず目を丸くした。

 紅葉のような華やかな女子が、乙女ゲームやアニメに夢中だなんて想像もしなかったからだ。


「いつからそんなのにハマったんですかね?」


 興味を抑えきれず、蒼真が尋ねると、紅葉は少し遠い目をして答えた。


「んー、中学の頃かな。実はね、昔の私って、かなり地味だったんだよね」

「え、そうなんですか?」


 蒼真の声に驚きが滲む。

 紅葉の明るい笑顔からは、そんな過去は想像もつかない。


「うん、ほんとほんと! 友達も少なかったし、恋愛とか全然わかんなかったよ。でも、高校入ってからちょっと頑張ってみたんだ。いわゆる高校デビューってやつね」


 紅葉は照れくさそうに笑いながら、栗色の髪を軽くかき上げた。

 その仕草に、蒼真はただただ感心するしかなかった。


「高校デビューって、凄いね。でも、恋愛はどうやって学んだの?」


 少しドキドキしながら尋ねると、紅葉は悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「それはね、恋愛シミュレーションゲームだよ。イケメンキャラと仮想デートしたりして、現実の恋愛の前にゲームで予習したって感じかな」

「へえー、ゲームで恋愛を?」


 紅葉の周りにはいつも人が集まり、告白されるエピソードも絶えないイメージがあっただけに、彼女の意外な一面に驚かされた。


「でもさ、大橋さんってかなりモテるって話があると思うんだけど?」


 遠慮がちに切り出すと、紅葉は少し頬を赤らめて笑った。


「実はさ、告白されたことは何回かあるんだけど……私、誰とも付き合ったことないんだよね」

「え⁉」


 蒼真は思わず声を上げた。

 紅葉のような子が恋愛経験ゼロだなんて信じられない。


「ほんとほんと! アニメやゲームで恋愛の知識はバッチリだけど、実践は全然。真剣に付き合おうとすると、なかなかうまくいかなくて。でもね、恋愛トークなら話せるんだけどね」


 紅葉は肩をすくめ、軽く笑った。

 そんな話をしながら、二人は街の通りにあるレトロな喫茶店に辿り着いた。

 古びた看板と温かみのある外観が、どこか懐かしさを漂わせる店。


「ここだよ、ここ。じゃあ入ろっか!」


 紅葉が先にドアを押し開け、蒼真もその後に続く。

 店内に漂うコーヒーの香りと、柔らかなBGMが二人を迎え入れた。


「いらっしゃいませ~!」


 喫茶店のカウンターから、優しげな女性店員の声が響く。

 テーブル席に腰を下ろした蒼真と紅葉は、向かい合ってメニューを眺めていた。


 店内は落ち着いた雰囲気で、コーヒーの香りとほのかに甘いスイーツの匂いが漂っている。

 蒼真はメニューを軽く確認し、テーブルまでやってきた女性店員に対し、二人は落ち着いた声で注文を告げた。


「カフェラテと、チョコラケーキでお願いします」


 紅葉も同じものを注文し、店員がにこやかに確認する。


「カフェラテ二つと、チョコラケーキ二つですね。少々お待ちください!」


 店員が厨房へ戻ると、店内は再び静かなBGMに包まれた。

 蒼真は背もたれに体を預け、紅葉の方へ視線を向ける。彼女は店内を軽く見渡し、どこか思案げな表情を浮かべていた。


「ねえ、千葉くん。そろそろ本題に入らない?」


 紅葉の声に、蒼真は小さく頷いた。


「はい……それで実は、今日ですね。俺、付き合ってた子にフラれまして」


 淡々とした口調で、蒼真は放課後の出来事を口にした。

 紅葉の目が一瞬大きく見開かれる。


「え、フラれた⁉ なんで⁉」

「なんていうか……急に他の人と付き合うことにしたって言われて」


 蒼真の発言に、紅葉は身を乗り出し、興味深そうに話を促した。


「他の人って誰? 何か前触れとかあったの?」

「いいえ、全然。突然だったんですよね。相手が……副生徒会長の内山うちやまってやつで」

「うわ、内山⁉ あの学校内で人気の人でしょ!」


 紅葉が声を弾ませると、蒼真は苦笑いを浮かべた。


「そうなんですよね。あいつはモテるし、学校じゃちょっとした有名人だから。何か言い返そうとしたけど、後々面倒なことになるのも嫌で」

「うーん、確かに内山相手じゃちょっと難しいかもね……」


 紅葉は顎に手を当て、考え込むように目を細めた。その真剣な表情に、蒼真は少しだけ安心した。

 この話を紅葉に相談して良かったかもしれない、と思った。


「大橋さん。俺、なんか自分の恋愛のやり方が間違ってたのかなって思って。どうしたらいいか、アドバイス欲しいんだけど……」


 蒼真の言葉に、紅葉の頬がほんのり赤く染まる。


「恋愛かぁ……でも、千葉くん、その子とはどのくらい付き合ってたの?」

「十一ヶ月くらい。もうすぐ一年ってところだったけど」

「十一ヶ月⁉ ってことは、恋愛に関しては私より全然先輩じゃない」


 紅葉が少し大げさに驚いてみせると、蒼真は苦笑しながら首を振った。


「いやいや、そんなことないって。大橋さんって、なんでも知ってるイメージあるし。恋愛の知識とかありそうですし」

「知識ならね! でもさ、さっき言った通り、私、実戦経験ゼロなの。恋愛って頭でわかってても、いざとなると自信なくて」


 紅葉の声が少し小さくなり、視線がテーブルのメニューに落ちる。

 その瞬間、蒼真は彼女の意外な一面に驚く。

 いつも自信たっぷりに見える紅葉が、こんな風に弱気になるとは思わなかった。


「でも、千葉くん。もしよかったら……私と、友達からでもいいから付き合ってみない?」


 突然の提案に、蒼真の目が丸くなる。


「え、付き合う? 大橋さんと?」

「うん、そう。だって、千葉くんには私が恋愛のこと教えるって感じで、私もちょっと実戦経験積みたいし。どうかな?」


 紅葉の瞳がキラキラと輝いている。

 蒼真は一瞬言葉に詰まったが、彼女のまっすぐな視線に押されるように口を開いた。


「……まあ、それも悪くないかも」

「じゃ、決まりね!」


 紅葉がパッと笑顔を咲かせる。その瞬間、店内全体が少し明るくなったような気がした。

 ちょうどその時、女性店員がトレイに載せたカフェラテとチョコラケーキを運んできた。


「お待たせしました! カフェラテとチョコラケーキです。ごゆっくりどうぞ~」


 温かい飲み物と甘いケーキがテーブルに並ぶ。

 蒼真と紅葉は顔を見合わせ、どちらからともなく小さく笑った。

 二人の間に流れる空気は、どこか柔らかく、どこかドキドキするものだった。


 カフェラテの湯気が立ち上り、チョコラケーキの甘い香りが漂う中、蒼真は紅葉の笑顔をじっと見つめた。

 紅葉の提案はあまりにも突然だったが、なぜか心が軽くなっている自分に気づいたのだ。


「じゃあ、千葉くん。これからよろしくね」


 紅葉がはにかんだ笑みを見せる。

 蒼真は少し照れながら、でもどこか楽しそうに答えた。


「はい」


 蒼真は笑顔で返答した。


 二人はスプーンを手に取り、ショコラケーキを一口ずつ頬張った。

 甘いチョコとほろ苦いカフェラテが、口内で溶け合う。

 夕暮れの喫茶店で、蒼真と紅葉の恋愛が、静かに、でも確かに始まろうとしていたのだった。

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