第5話:初めての笑顔、そして真実
朝の光が、砦の窓から差し込んできた。昨夜、レオンハルトに貸してもらった毛布にくるまり、硬いベッドで眠った私は、その光で目を覚ました。身体中の節々が痛み、昨日の出来事が夢ではなかったことを証明している。私は、身につけていたドレスがしわくちゃになっているのを見て、ため息をついた。社交界では考えられない、みすぼらしい姿。だが、この姿が、今の私の現実なのだ。
部屋を出ると、辺境の澄んだ空気が私の肌を優しく撫でた。土と、どこか木の香りが混ざり合った匂い。社交界の甘ったるい香水の匂いとは全く違う、生の匂いだった。その匂いを胸いっぱいに吸い込むと、私の心は少しだけ軽くなるようだった。
砦の中は、兵士たちの活気で満ちていた。彼らは、レオンハルトの威圧的な雰囲気に慣れているのか、彼に会うと、皆、敬意を払いながらも、どこか親しげに話しかけていた。私は、そんな彼らの姿を見て、少し戸惑った。食堂から、温かいスープの匂いが漂ってくる。私は、昨夜、レオンハルトにもらった干し肉と水しか口にしていなかったので、その匂いに、思わず喉を鳴らした。
食堂に入ると、レオンハルトが、大きなテーブルに座って食事をしていた。彼は、私が食堂に入ってきたことに気づくと、何も言わずに、隣の席を指差した。私は彼の隣に座ると、兵士の一人が温かいスープとパンを私の前に置いてくれた。
「…ありがとう」
私がそう言うと、兵士は照れたように頭をかいて、行ってしまった。私は、目の前のスープをゆっくりと口に運んだ。それは、王都の貴族の食堂で出てくるような、豪華なスープではない。だが、一口飲むと、身体の芯から温かさが広がり、心がじんわりと満たされていくようだった。私は、そのスープの味に、驚いていた。社交界では、いつも豪華な食事をしていた。だが、その味は、私にとって、ただの儀式的なものだった。私は、食事の味を心から美味しいと感じたことが、あっただろうか。そう考えると、私は社交界で、何も感じていなかったのだと気づいた。
その日の午後、私は薬草を調合するために、食堂の片隅で作業をしていた。レオンハルトに与えられた薬草は、どれも新鮮で、土の匂いがする。私は、薬草をすり潰しながら、慣れない作業に戸惑い、ついパンを焦がしてしまった。焦げ付いたパンの匂いが、あたりに立ち込める。私は、失敗したことに顔を赤らめ、どうしたらいいのか分からず、ただ、立ち尽くした。
(せっかく、彼がくれた薬草なのに…)
その時、レオンハルトが、私の前に立った。彼は、何も言わずに、ただ私を見つめていた。私は、彼に叱られるのではないかと、身をすくめた。しかし、彼は、焦げ付いたパンを私の手から取り上げると、黙って、新しいパンを私の前に置いてくれた。そのパンは、まだ温かかった。
彼の不器用な優しさに、私の心は、また一つ、温かくなった。私は、思わず笑みがこぼれた。それは、社交界で、誰かに見せるための、偽りの笑顔ではなかった。心から、自然にこぼれた、本当の笑顔だった。
その笑顔を見て、レオンハルトは、一瞬だけ、目を丸くした。そして、彼は、少しだけ頬を緩め、私にこう言った。
「…この辺境では、医者が少ない。薬草の知識は、貴重だ」
彼の言葉に、私は驚き、そして嬉しかった。社交界では、私の趣味は、誰も見向きもしないものだった。しかし、彼は、私の話に耳を傾け、そして、それを活かせるように、こうして機会を与えてくれたのだ。
その夜、私は、レオンハルトの案内で、砦の周りを見て回った。砦は、大きな壁に囲まれていて、その壁の上には、見張りの兵士が立っていた。壁の外には、荒れた土地が広がっている。しかし、その荒れた土地の中にも、兵士たちが開墾した小さな畑があった。
「ここは、辺境の最前線だ。魔物や盗賊から、人々を守るために、俺たちがいる」
レオンハントの声は、低く、そして力強かった。彼の言葉には、この辺境を守るという、強い使命感が込められているようだった。私は、その言葉に、彼の人間としての強さを感じた。
翌日、私は薬草の採集を終え、砦に戻ってきた。その途中、兵士たちが休憩している場所を通りかかった。彼らは、レオンハルトの話題で盛り上がっていた。
「将軍は、冷徹なことで有名だ。だが、その裏には、深い悲しみがあるんだ」
「昔、魔物に家族を奪われたそうだ。だから、この辺境を、二度とそんな悲劇が起こらない場所にしたいと、命をかけている」
その言葉に、私の心は、ぎゅっと締め付けられた。レオンハルトの冷徹な評判は、彼の過去の痛みからきているものだったのだ。彼の不器用な優しさは、彼の心の奥底にある、深い悲しみと、そして、この辺境を守るという、強い決意の表れだったのだと、私は理解した。
その夜、私は、レオンハルトと二人で、焚き火を囲んでいた。彼は、何も言わずに、火の番をしていた。その姿は、まるで、孤独を愛する狼のようだった。私は、彼に、何も言わずに、そっと寄り添った。彼の身体から伝わる熱が、私の心を温かく満たしてくれた。
(この人には、私が必要だ。この人の隣なら、私、もう一度、やり直せるかもしれない……)
夜空には、満点の星が輝いていた。社交界の街灯に遮られ、ほとんど見ることのできなかった星々が、ここでは手の届きそうなほどに煌めいている。私は、その星空を見上げながら、レオンハルトに、私の過去について話した。婚約破棄のこと、妹に裏切られたこと、そして、私の存在に価値がないと思っていたこと。
レオンハルトは、何も言わずに、ただじっと、私の話に耳を傾けてくれた。そして、私が話し終わると、彼は、私の頭に、そっと手を置いた。
「…お前は、この辺境では、貴重な存在だ」
彼の言葉に、私は、心臓が大きく跳ねた。社交界では、誰も私の存在を認めなかった。だが、彼は、私の存在を肯定してくれた。彼の言葉は、私にとって、何よりも嬉しい言葉だった。私は、自分の価値を、初めて認めてもらえた気がした。
私は、彼の隣にいることが、今は何よりも幸せだった。この旅の終着点で、私は、私自身の居場所を見つけられた。それは、豪華な宮殿でも、華やかな夜会でもない。ただの、辺境の砦だった。だが、この場所には、私を心から受け入れてくれる人がいる。私の存在を、認めてくれる人がいる。私は、この場所で、彼となら、笑って生きていけるかもしれない。そんな淡い希望を抱きながら、私は、彼の胸に顔を埋めた。
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