第2話:辺境伯領への旅路
馬車の車輪が、王都の整った石畳をゆっくりと離れていく。ガタッ、ガタッ。その不規則な揺れは、私の心を休ませてくれない。閉じた瞼の裏に、夜会のまばゆい光が焼き付いて離れなかった。あの嘲笑の合唱が、いまだに耳の奥でこだましている。
(ああ、私はどこへ行くんだろう。この馬車は、一体どこへ向かっているんだろう)
夜会が終わり、早朝。私は屋敷の玄関で、僅かな荷物を積み込むのを見ていた。使用人たちの視線が、私に突き刺さる。冷ややかな目、嘲るような口元、無関心に立ち尽くす者。その中でも、ほんの一握りの使用人だけが、哀れみと、ほんの少しの同情の眼差しを私に向けていた。だが、その同情が、私には何よりも屈辱的だった。私はただ、見世物として扱われている。その事実に、胃の底から熱いものがこみ上げてきた。
屋敷の玄関に立つ父と母は、私に背を向けていた。朝の光が、二人の背後を金色に縁取る。その光と影のコントラストが、二人の私に対する無関心を、残酷なまでに際立たせていた。父の背中は、いつも剣の鍛錬に夢中で、私を顧みることはなかった。母は、いつも愛らしいリリエルを抱きしめ、私をただ遠巻きに見ていた。私はこの一瞬、手を差し伸べてくれるのではないかと期待していた。だが、何もなかった。両親は、まるで空気のように、私を無言で辺境に送り出したのだ。
「あれが、婚約破棄されて辺境に追いやられた令嬢よ」
どこからか聞こえてきた、小さな囁き声。その声が、私の耳には雷鳴のように響いた。私は、自分の存在が、もうすでに社交界の嘲笑の種になっていることを知った。人々の視線は、憐れみや同情という名の侮辱だ。
(どうして……? 私は、こんなに頑張ってきたのに……)
馬車の車輪が、石畳の最後の段を乗り越え、ガタン、と大きな音を立てた。その瞬間、私の身体が大きく揺れ、コルセットが胸に食い込む。革張りの座席は、冷たく、まるで私の心のようだった。釘の頭が浮いた木材が軋む音は、この旅の不穏さを物語っている。馬のひづめの音が、規則的にカッ、コッ、と響く。それは、不安を煽るメトロノームのように、私の心拍を加速させた。苦痛に顔を歪ませたが、誰も気づく者はいなかった。
馬車内部は、革の匂いと、車輪の油の匂いが混ざり合い、私の吐息で窓ガラスは白く曇っていた。その曇った窓の向こうで、子供たちが泥を投げつけるのが見えた。
「あっちへ行け! 汚い令嬢!」
私はただ、その罵声に耐えるしかなかった。その時、窓の外で、一人の老婆が、小さな水差しを差し出しているのが見えた。私はその老婆の目に、同情ではない、ただの慈愛のようなものを感じた。手を伸ばそうとしたが、馬車は無情にも走り去っていく。私の指先と、水差しとの間には、たった数メートルの距離があった。だが、その距離は、私にとって越えられない絶望の壁だった。
馬車は、荒れた未舗装の道を走り始めた。王都の街並みはもう見えない。文明から野蛮へと移りゆく境界線。それがこの石畳の終わりだった。代わりに見えてきたのは、生気を失ったような枯れ木が延々と続く景色が広がっていた。葉を落とし、ただ骨だけになった木々が、重苦しい空の下で鉛色の空を切り裂いている。その姿は、あまりにも私の心の風景に似ていて、思わず目を逸らした。社交界の庭園で見た、手入れされた薔薇の木々とは似ても似つかない。この荒涼とした景色が、私のこれからを物語っているようだった。
乾いた喉の奥から、乾いた息が漏れる。手元の荷物には、刺繍枠と、薬草の図鑑が収められていた。刺繍枠には、まだ途中の糸が絡まったままだった。母は私の刺繍を「地味でつまらない」と評し、完成する前に笑った。薬草の図鑑には、父に渡そうとして結局渡せなかった、押し花が挟まっていた。父は私の薬草研究を「女の趣味にしては変わっている」と無視した。そして、ユージンから贈られたはずのペンダントは、今、リリエルの胸で輝いているだろう。この二つの趣味は、私にとって唯一の心の拠り所だった。だが、今となっては、それらもまた、私の価値のなさを証明する道具に過ぎないように思えた。
(…もう、いっそ死んでしまいたい。こんな人生、もう嫌だ……)
私の思考は、絶望の深淵へと落下していく。
「まだやり直せるのでは?」
どこかで、誰かが私を助けてくれるのではないか。この旅の終わりで、誰かが私を待っていてくれるのではないか。そんな淡い希望が、一瞬、私の心をよぎった。
「まさか、全部仕組まれていたの?」
でも、それはすぐに消えた。夜会の完璧すぎる舞台、ユージンの冷たい声、リリエルの用意周到な仕草。すべてが、私をこの道へ追いやるための、綿密な計画だったのではないかという、陰謀論的な思考が私の頭の中を駆け巡る。
「私は、生きている価値があるのか……?」
そして、最終的に辿り着いたのは、この問いだった。誰にも愛されず、誰にも必要とされず、価値もない私に、生きる意味はあるのか。私は、いったい何のために生まれてきたのだろう。
馬車の御者の声が、不意に聞こえてきた。
「旦那、この先は魔物が出るとか……」
「ああ、盗賊も出ると聞いた。この荒野で消えた隊商も多いと聞く。気をつけろよ」
不穏な会話が、私の不安をさらに煽る。馬の息づかいは荒く、御者の声は震えていた。この荒れた道で、もし何かが起こったら、私はどうなるのだろう。
私の絶望を乗せた馬車は、ただただ進んでいく。窓から見える荒れた土地は、この世界の厳しさを私に突きつける。誰も助けてはくれない。誰も手を差し伸べてはくれない。私は、たった一人で、この世界に放り出されたのだ。
そして、その旅路の最中、突然、馬車が横転しかけた。御者の悲鳴が聞こえ、私は投げ出されそうになり、必死に座席にしがみついた。馬車が急停止し、地鳴りが響く。血と獣の匂いが、窓から入ってくる冷たい空気と共に、私の鼻腔を刺した。窓の外に目をやると、巨大な影が、夜空に牙を剥き出し、私に迫っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます