第9話 氷と炎のレクイエム

辺境伯の脂ぎった指がパルルの白い頬に触れる、まさにその寸前だった。

会場の誰もが、これから始まる陵辱の序章を期待し、あるいは無関心に見守っていた。


その張り詰めた空気を切り裂いたのは、耳をつんざくような凄まじい轟音だった。


会場の入口に設置されていた分厚い鉄製の扉が、まるで紙切れのように内側へと吹き飛んだのである。


「な、何事だ!?」

「敵襲か!? 用心棒は何をしている!」


金属の破片が壁や床に突き刺さり、貴族たちから悲鳴と怒号が上がる。

粉塵が舞い上がる扉の向こうから、一人の青年が、まるで何事もなかったかのように悠然と姿を現した。


夜のように黒い礼服に身を包んだ銀髪赤眼の美貌の青年、ディオ・ベルンハルト。

彼は、眼前に広がる人間の欲望が凝縮されたような光景を一瞥すると、心底軽蔑したように冷たい声で言い放った。


「下劣な害虫が群れているな。ちょうどいい、この世のゴミを掃除しに来た」


その言葉は、拡声魔法によって会場の隅々にまで響き渡った。


「な、なんだあの小僧は…」

「気でも狂ったか? ここが誰の縄張りか分かっているのか!」

「身の程を知らぬ痴れ者が!」


場違いなその言葉に含まれた絶対的な侮蔑に会場は一瞬の静寂に包まれ、次いで混乱の渦に叩き込まれた。


「ぼ、棒立ちになるな、愚か者どもが!」


奴隷商人がいち早く我に返り、ヒステリックに叫んだ。


「何をしている! あの小僧を捕らえて八つ裂きにしろ! お客様を驚かせた罪は重いぞ!」


その号令を受け、屈強な肉体を持つ十数人の用心棒たちが、剣や斧を抜き放つ。


「へっ、綺麗な顔してるじゃねえか!」

「このまま商品にしてやるよ!」


獰猛な殺意を浮かべ、ディオに向かって一斉に殺到する。

しかし、ディオは向かってくる脅威に対して眉一つ動かさない。

彼はただ退屈そうに、指をパチンと鳴らした。


詠唱はない。魔法陣の輝きもない。


「アブソリュート・ゼロ」


脳その瞬間、ディオの足元から絶対零度の冷気が爆発的に広がり、会場全体を瞬時に飲み込んだ。


熱は一瞬にして奪われ、空気中の水分が凍てつき、ダイヤモンドダストがきらめく。


ディオに斬りかかろうとしていた用心棒たちは、剣を振り上げた体勢のまま。

下品な野次を飛ばしていた貴族たちは、酒杯を傾けたまま。

逃げようと席を立った者は、その場から一歩も動けずに。


「「「な」」」


悲鳴を上げる時間すら与えられず、会場にいた全ての人間がその瞬間の表情、その瞬間の体勢のまま、完璧な氷の彫像へと姿を変えた。

ただ一人、舞台上のパルルと、その鎖を握るボルガ辺境伯を除いて。


ディオの意図的な魔法制御により、冷気は彼らの足元すれすれでぴたりと止まっていた。


先ほどまで欲望と喧騒に満ちていた会場は、無数の氷像が立ち並ぶ静寂な美術館へと変貌していた。


「ひっ…ああ…」


ボルガは、目の前で起こった超常現象が理解できず、ただ呆然と周囲の氷像を見回していた。

やがて、自分の置かれた状況を理解すると、その巨体をブルブルと震わせ、顔を蒼白にさせた。


彼は握っていた鎖を放り出し、その場にへたり込む。


「ひぃっ! お、お待ちください! 私はあのボルガ辺境伯だぞ! わ、私に手を出せば…!」


虚勢を張る声は恐怖に震えている。

ディオは感情の読めない赤い瞳で冷ややかに見下ろしたまま、ゆっくりと近づいていく。


「そうだ、金だ! 金ならいくらでもある! 地位も! 望むものを何でも差し上げます! だから、どうか命だけは……!」


そのみっともない姿にディオは数歩手前で足を止めた。

そして、まるで道端の石ころでも見るかのような無慈悲な視線を向けたまま、右手の指を震える辺境伯に向ける。


「貴様のような屑に命乞いをする資格はない」


詠唱はない。

ただ、処刑宣告のように魔法の名が呟かれた。


「ラーヴァ・ピラー」


次の瞬間、辺境伯の真下の床が赤熱し、凄まじい熱量と共に超高温の溶岩の柱が垂直に噴き上がった。


「ぎゃ」


断末魔の悲鳴を上げる暇さえなく、その灼熱の奔流に飲み込まれていく。

肉が焼け、骨が溶け、その存在そのものが一瞬にして気化していく。


溶岩の柱が消え去った後には、床に焦げ付いた黒い染みが残っているだけで、先ほどまでそこにいたはずの巨漢の姿は文字通り跡形もなく消え去っていた。


静寂を取り戻した地獄絵図の中で、ディオはただ一人無事だったパルルの方へと向き直った。

パルルは、目の前で繰り広げられた虐殺の光景に恐怖で身体が凍りつき、一歩も動けずにいた。


ディオは、そんな彼女の前にゆっくりと歩み寄り、その小さな身体を傷つけないように静かにしゃがみこんだ。


そして、先ほどまで辺境伯を焼き尽くしたのと同じ手で、パルルの首を縛り付けている呪いの鉄の首輪に優しく触れた。

彼が軽く魔力を流し込むと、頑丈なはずの首輪は、まるで砂の城のようにサラサラと崩れ、塵となって消えた。


首筋に残るひんやりとした解放感。

パルルは、恐る恐るディオの顔を見上げた。


そこにいたのは悪魔のような虐殺者ではない。

穏やかな赤い瞳で自分を見つめる一人の青年だった。

彼は、パルルの恐怖を和らげるように、ゆっくりと、そして優しく微笑みかけた。


「もう大丈夫だ。君を縛るものは何もない。君は自由だ」


その言葉と微笑みは、心を閉ざし、絶望の闇の底に沈んでいたパルルの心に、数週間ぶりに差し込んだ唯一の温かい光だった。

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