第7話 歪な信仰

ベルンハルト公爵領の離宮、陽光が降り注ぐ一室でプリムは目を覚ました。

衰弱した彼女の身体は完全に回復していた。


しかし、その精神は、地下牢の暗闇で絶望していた頃とは全く別のものへと変貌を遂げていた。

ベッドからゆっくりと身体を起こしたプリムが、まず最初に行ったのは祈りだった。

だが、その祈りの対象は、もう天上の漠然とした神ではない。


彼女はベッドから降りると、部屋の壁に飾られた、この離宮の主であるディオ・ベルンハルトの肖像画の前へと進み出た。

そして、その場に深く膝まずき、両手を組んで敬虔な祈りを捧げ始める。


「我が神、ディオ様。私を絶望の闇よりお救いくださり、感謝の祈りを捧げます。この身と魂の全ては、あなたのものです。永遠にあなただけに仕えることを誓います」


彼女の中で、ディオは絶対的な救世主であり、この世に降臨した唯一神として認識されていた。

彼の言葉は神託。彼の行動は神の御業。

裏切られた過去は彼女の信仰心を歪ませ、その対象をディオという一個人に、狂信的に集中させる結果を生んだのだ。


祈りを終えたプリムは静かに立ち上がった。

その翠の瞳には、かつて宿っていた万人への慈愛はない。

ただ一点、ディオという神に向けられた、純粋で、それゆえに危険な光だけが宿っていた。





その日から、プリムの「奉仕活動」が始まった。

彼女は、ディオの身の回りの世話をすることこそ、神に選ばれた巫女の最も重要な務めだと信じて疑わなかった。


「今日から、ディオ様のお食事は全て私がご用意いたします」


厨房に現れたプリムは、メイドたちにそう宣言した。


「し、しかし聖女様、そのようなお仕事は我々が…」

「いいえ。神の御口に入るものは、聖別された手によって作られるべきです。これは儀式なのです」


栄養バランス、彩り、味付け、全てが完璧に計算された料理がディオの元へ運ばれる。

そして食事が運ばれると、プリムは必ず彼の前で全ての料理に一口ずつ箸をつけた。


「プリム、それは?」

「毒見です。神の御身に万が一のことなど、あってはなりませんので」

「そうか、ありがとう」


ディオは感心したが、プリムの目は真剣そのものだった。


次に彼女が始めたのはディオの寝室の管理だ。

彼女にとってそこは、神が休息を取るための聖域。


「メイドは入室を禁じます。この場所の浄化は私の務めです」


ディオが入浴する際には湯の温度を体温に合わせて完璧に調整し、肌を清める効果のある聖水と花びらを浮かべて準備した。


「ディオ様にご満足いただけるでしょうか…」


彼女の完璧すぎる奉仕。

その根底にあるのは彼を喜ばせたいという健気な想いではない。

神への務めを果たすという、一種の儀式的な義務感だった。






しかし、この離宮には、プリムよりも先にディオの「世話役」を自任する人物がいた。

公爵令嬢、セリナ・フォン・クライネルトである。


「ディオ様、お紅茶をお持ちしましたわ。ダージリンのセカンドフラッシュですのよ」


午後、セリナが優雅に紅茶を運んでくると、廊下でプリムが無表情で立ち塞がった。


「お待ちください、クライネルト嬢」

「あら、『元』聖女様。何かご用かしら?」

「神への供物は聖なる儀式に則り、この聖別された巫女である私が用意するもの。俗人が淹れた穢れた茶など、お出しすることは許しません」

「まあ、失礼な方。わたくしが淹れた紅茶が穢れていると?」


セリナも負けてはいない。

扇子で口元を隠し、挑発的な笑みを浮かべた。


「聖女様、ディオ様は神ではなく、人ですわ。そして、私は将来彼の妻となる者。夫の好みを把握し、安らぎの時間を提供するのは、妻としての当然の務めですのよ」

「………妻?」


プリムの翠の瞳が、すうっと細められる。


「それは神が決めること。あなたが決めることではありません」

「あらあら、わたくしとディオ様は将来が運命づけられていますのよ? あなた様こそ、いきなり現れて何を勘違いされているのかしら」


二人の間で見えない火花がバチバチと散る。





セリナがディオの正装を選ぶために衣装部屋に入れば、プリムが後から現れる。


「神の御衣に俗人が触れるなど、不敬の極みです。その手を離しなさい」

「まあ、ディオ様のお召し物をわたくしが選んで差し上げることに、何の問題が?」

「問題しかありません。――<浄化の光よ>」

「キャアア! 何をなさるの! わたくしが触れた服を燃やす気ですの!?」


プリムがディオの寝室を清めていると、セリナが腕を組んで現れる。


「私室に許可なく立ち入るなど感心しませんわね。淑女の嗜みというものをご存知ないのかしら?」

「ここは聖域。巫女が出入りするのは当然の務め。あなたのような俗人が軽々しく口を出す場所ではありません」


この水面下の熾烈な争いを、当のディオは完全にゲームのイベントとして楽しんでいた。


(ヒロイン同士の仲が悪いイベントか…。どっちのルートに進むか悩むな。両方とも可愛いからハーレムルートが正解か?)






プリムの狂信は、離宮の中だけにとどまらなかった。

ディオが気分転換に領地の村を視察に訪れると、村人たちが歓迎の輪を作った。


「ディオ様! いつもありがとうございます!」

「これもディオ様が整備してくださった水路のおかげですだぁ」


気さくに葉を交わすディオに一人の若い村娘が駆け寄った。


「あ、あの、ディオ様! これ、私が編んだんです。よかったら…」


少女が差し出したのは、可憐な花の冠だった。


「お、ありがとう。上手にできてるじゃないか」


ディオは笑顔でそれを受け取ると、少女の頭を優しく撫でた。


「きゃっ…」


顔を真っ赤にする少女。その光景を、少し離れた場所からプリムが無表情で見つめていた。





その夜。

村娘が自宅のベッドで眠っていると、コン、コン、と窓を叩く音がした。


「…誰?」


恐る恐る窓を開けると、月明かりに照らされたプリムが能面のような顔で立っていた。

翠の瞳だけが、冷たく光っている。


「ひっ…プ、プリム様?」

「あなたは今日、神の慈悲に触れるという、あまりにも過ぎた幸運を得ました」


静かな、しかし有無を言わせぬ圧力。


「しかし、幸運は時に身を滅ぼします」


プリムが、娘の顔に自身の顔を近づける。


「次に、その穢れた手で神に触れ、その穢れた唇で神に馴れ馴れしく話しかけたなら――天罰が下るでしょう。神の慈悲も無限ではないのですから」


プリムの瞳が、狂気の色を宿して細められた。

声も出せずに震え上がる村娘。


プリムは満足したように静かにきびすを返し、闇の中へと消えていった。

彼女は、神の威光を穢そうとする不敬者に神罰を代行したことに密かな使命感と喜びを感じていた。


もちろん、当の神であるディオはそんな事件が起きたことなど全く知らない。

離宮の自室でもらった花の冠を眺めながら、呑気なことを考えていた。


「今日の村娘も可愛かったな。でも、セリナとプリムの好感度が下がるのも嫌だし…うーん、悩む!」



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