第19話「昨日の話のつづきをしよう」

「すみません、明良くん。大変ご迷惑をおかけしております」

 横で髪にコンディショナーを馴染ませていた奏が、心底申し訳なさそうな声でそう言った。この合宿の間で、いくらか奏の薄着や裸には慣れてきたような気もするが、それでも隣で同級生の女の子が裸で身体を洗っているという状況は慣れようとしても慣れるものではあるまい。

「でもでも、だからといって本当に迷惑だからと言って明良くんに帰られてしまうと困るので、あの、お願いだから一緒のタイミングでお風呂出てくださいね」

 かれこれ一時間も前から身体の震えが止まらない奏は、コンディショナーを洗い落とし、その震える指先で何とか洗顔料を泡立てて顔に泡を乗せている。目を瞑るのが嫌なのか、わざわざ目に泡が入らないように気をつけながらも、目を開けたまま顔を洗っている。ようやく顔全体に泡を乗せて汚れが落ちる程度に顔の上に指を滑らせたかと思うと、そっと明良の方を向いてぽつりと呟いた。

「手、握って」

 ――うお。

 シャワーで手の泡を落とした奏は、明良の手を取って、意を決して目を瞑ると、顔にシャワーをかけて泡を流すのだった。

「明良くん、いますよね」

「いるよ。手握ってるだろ」

「何も見えていない今、この手が明良くんのものであるという保障はどこにもないじゃないですか」

「どんだけ怖いんだよ」

「大号泣の末に明良くんに一緒にお風呂に入ってもらわないとお風呂に入れないくらいです。見ての通りですよ……!」

「……そうだな」

 事の発端は、東照宮からの帰り道で相川が肝試しをやるなどと言い出したことだった。夕食後、既に日も落ち真っ暗になった頃、奏と一度歩いたあの本館裏の庭園を会場として、肝試しが行われた。ルールはいたって単純で、ただ庭園の中央の道を歩きその先に置いてある箱から紙切れを取ってくるだけ。本当に何も演出などは施されず、ただ暗い夜道を手探りで歩くだけである。とはいえ肝試しであるという建前、そして遠くから微かに聞こえる人の声や、とめどなく流れる川の音、そして純粋な暗さによって、存在しないものを見出してしまうのが人間というものであろう。

 つまり、奏はのだった。

 それからは早い。

 奏は大号泣しお風呂のタイミングを逃した上、怖くて一人では入れず、しかし既に日付も変わる寸前、他の女子たちは一度風呂に入っている上自室に籠っている。そこで一度は一緒に風呂に入った仲である明良に一緒に入ってもらおうと、そういう理屈であった。男子の入浴時間は一応ご飯前なわけであり、明良は既に一度風呂に入っているわけだが。

 ――いいのか? これ。


「そういえば」

 濡れた頭をタオルで拭きながら、明良はふと思い出す。

「昨日の話、途中だったよな」

「昨日の話? ああ、橋の上でしたあの話ですか。あまり聞いて面白い話でもないと思いますよ」

「でも、大事な話だろ」

 明良がそう言うと、奏は頭にバスタオルを乗せたままたっぷりと時間をかけて考えてから、それもそうですね、と短く言った。それから、タオルを手に取って身体を拭き始める。

「なんというか、やっぱり最初の段階で理想的な人間だと、その先も自分の理想に完璧に一致する人間であってほしいと、そう願ってしまうものなんだと思うんです、私」

「そういうものかね」

「明良くんはきっとそうじゃないんだと思います。でも、そういう人が多いのも事実ですよ。聖女教会の方々も、ほとんどはそういう手合いなんじゃないですか、わかんないですけどね」

 身体の水滴を拭き終わった奏は、パンツだけ穿いて、そのまま明良の方を向いた。

「おっ」

「さっきまでもいっぱい見てたでしょ」

「慣れねぇ」

「ふふ、明良くんらしいですね」

 浴衣を着て、二人で部屋に戻る。歯磨きをして、それぞれの布団に入る。

 ――なんか、同棲してるみたいだな。

「同棲してるカップルみたい、ですね」

「……そうだな」

 布団の中でちらりと奏の方を見れば、布団から目もとだけ出した奏と目が合う。奏はにっこりと笑った。

「つづきです。つまり、私の両親は私に過度な期待を寄せてるんですよ。私を、に育て上げることに夢中になってるんです。父がテストでいい点を取る子がいい子なのだと言えば、私はテストでいい点を取れるように勉強してきましたし、文武両道、スポーツもできなきゃならないと言えば、スポーツを習ったりもしました。母がピアノを弾ける子がいいと言えば私はピアノ教室に通って、それなりにピアノが弾けるようになりましたし、字が綺麗になるようにって習字とかやったり、ああ、テーブルマナーとかやってたこともありますね。家庭教師の人がお家まで来るんです。それで、自分じゃあんまり教えないし自分もちっともできてないのに、教科書にあるマナーが守れてないと凄い剣幕で怒ったりとか。それで母も一緒になって怒ったりするんですよ。んなっちゃいますよね。二人が、こんな人が素敵だねって言ったら、私はそんな人にならなきゃいけないんだと思って、そうならないと怒られるし、そうあるのが普通なんだと思って色々頑張ってきたんです。でも、私立高校の推薦で失敗しちゃって。失敗って言っても、私がミスしたわけじゃなくて、父に書類を頼んだらそのまますっかり忘れちゃっただけなんですけどね。まあ、そんな父に任せる私がいけなかったんですが。で、私立の頭のいい高校に推薦で行くっていうのができなくなって母から怒られてるときに、ふと思ったんです。本当の私ってなにかなーって。美人で、なんでもできて、みんなの理想の姿、それが私なんでしょうか? それとも、心寧ちゃんと一緒にいるときの、ちょっとばかり――うーん、結構えっちなことに興味がある私が本当の私? でもそんなの、わからないじゃないですか。とっくの昔に私がなりたかった私なんてどこか遠くへ行ってしまったんですから。私の思い描いていた私は、もうその頃にはどこにもいなかったんですから。

 ねえ明良くん。私、明良くんが、期待に答える義理はないって言ってくれたとき、やっと自分のことを見てもらえてるんだなって、すごい嬉しかったんです。明良くんは、私のことを見てくれてるんだって。誰の理想の姿でもなく、私の理想の姿でもなく、今のそのまんまの私。

 でもきっと、それは明良くんが言ってくれたから響いたんだと思うんです。なんか響いたっていうとちょっと詩的な感じで恥ずかしいですが、でも言いたいことはそういうことです。私と同じように、他人の思い描く姿になろうとしてしまう、明良くんに言われたからこそ」

 そこで奏は一度言葉を区切った。

「なんだか、話がぐちゃぐちゃになっちゃいましたね」

 そう言ってベッドから起き上がると、テーブルの上に置いてあったコップに水差しから一杯水を注いで口に含む。

「奏は、本当はどうなりたいんだ」

「どうなりたいか、ですか。……難しいこと聞きますね、明良くん。――私、昔から夢ってなかったんです。持っても仕方ないし。私ってどうなりたいんでしょうか。私は……」

 奏はまだ水のなみなみと入るコップをテーブルに置き、ゆっくりとベッドの方へ戻ってくる。

「ねえ明良くん」

「どうした」

「そっちのお布団に入ってもいいですか」

 布団が持ち上げられ、明良の隣に、奏が入り込んでくる。肌の触れあうところが温かい。

「ふふ、流石に二人で入るとせまいですね」

 奏はそう言って笑う。きっと寝返りを打ったら落ちてしまうだろう。ごく至近距離に奏がいるのが少し恥ずかしくて、明良はくるりと回って奏に背を向けた。奏も同じように小さく寝返りして、背と背がくっつくような形になった。

「ねえ明良くん。本当は――」

 息を飲む音がした。

「――本当は私、明良くんに今、全てを捧げたい。明良くんのものにしてほしい。そう思ってるんですよ。でも、それを行動に起こすだけの勇気が……………………」

 もぞもぞと、背中で奏が動く。

「あの、明良くん。世の中には、急に我に返るタイミングってあると思うんです」

「そうだな」

「それが今です。今私、すごいこと言いませんでしたか?」

「……言ったな」

「あのあのあの、いえあの」

「あのさ、奏」

 もう一度寝返りを打つ。奏の方を向く。奏もまた、同じように明良の方を向いていた。

 あと数センチというところに、奏の顔がある。どんなに近くで見ても、奏は奏で、綺麗だなと思う。

 本当は明良だって、奏を自分のものにしたいと、きっと心のどこかで思っている。

 本当は明良だって、奏が今自分に告白してくれたらどんなにかいいことだろうと、きっと心のどこかでは思っている。それに期待している。

 でも、それを奏に期待するのはきっと間違っている。

 何か状況を変えたいのなら、自分が動かないといけないんじゃないか。

 ――…………。

 奏の顔は、いつ見ても吸い込まれそうになる。今だって実際に、少しずつ奏の顔と自分の顔との間は狭まってきている。あと五センチ。あと四センチ。……あと二センチ。一センチ。

 ――ああ、なんと唇とは柔らかいものなのであろうか。

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