奏でる聖女の秘中の秘

七条ミル

第1話「聖女(聖女)と友達になろう」

 東京都立二鷲ふたつわし高校。特に頭がいいわけでもなければ、悪いということもない。いたって普通の公立高校。今日はその入学式で、渡良瀬わたらせ明良あきらは入学式を終え、教室へ戻ってきたところだった。生まれてこのかたいつだってはじめはこの位置とでも言うべき、窓際最後列の座席に座って、窓の外に咲いた桜の花びらが散っていく様を眺めていた。

 クラスでは、絶賛自己紹介コーナーが繰り広げられている。各々自分のアピールポイントを語り、友達を沢山作ろうと必死になっているのだ。しかし明良はそれを馬鹿にできるような男ではない。なぜなら、自分もいかに友達を沢山作れるかを考え、現在進行形で自己紹介を用意しているのだから。しかし頭の中を手繰れど手繰れど、出てくるのはまるで他人と仲良くなろうなどと考えているとは思えない自己完結型の趣味ばかり。これで友達が出来るものか。答えは勿論、否である。

 そうやって明良が頭をフル回転させている間にも、自己紹介は進んでいく。結局のところ自分以外の自己紹介などほとんど聞くこともないまま、既に二つ前の席の男が自己紹介を始めていた。そこで明良は初めて気づく。自分のことを主張するのもいいが、他人がどんな人物であるかを知らなければ、誰に話しかけていいのかわからないではないか。なんと自分は愚かであるか、自己主張に気を取られすぎて、この何とも言えぬ気まずさの流れる自己紹介コーナーの本質を見逃していたのだ。渡良瀬明良、一生の不覚である。

 だがせめて、せめて一つ前の席の、この艶やかな黒髪の女の子の自己紹介だけでもしっかりと聞こうではないか。明良は二つ前の席の男が座ったところで、改めて意識を教室に戻した。結局、気づいたタイミングで話していた男の話は一つも覚えていない。

四方山よもやまかなでです。趣味は読書とか絵画鑑賞とかで、中学では演劇をやってました。高校でも演劇部に入るつもりです。よろしくお願いします」

 なんと綺麗な声であろうか。すっかり明良は聞き入ってしまっていた。後ろの方の席で、右斜め前を向かって話しているために、奏と名乗ったこの女の子の後ろにいる明良からは顔が見えないが、きっと相当な美人なのだろうと思わせるだけの雰囲気がある。何よりも髪がとても綺麗なのだ。腰まで伸びた髪は風の吹くたびに揺れる。清楚とはまさしくこのことなのであろう。そういえば、と入学式前に小耳に挟んだ噂のことを思い出す。


 ――なあ、C組にめっちゃかわいい子いるらしいぜ。

 ――へえ、なんで名前?

 ――そこまでは知らないけど、なんか、清楚をそのまま三次元に投影したらあんな感じになるって評判だぜ。

 ――そこまで? そんなら見に行ってみようぜ、C組まで。


 一年C組、それは紛れもなく我がクラスのことではないか。それならば、きっとそのとき話題に上がっていたのはこの四方山さんに違いない。消去法から言っても、きっと四方山さんであるに違いない。

「じゃあ、次で最後、渡良瀬くんね」

 ――あ。

 そう、前の席の自己紹介が終わったということは、すなわち自分の自己紹介が始まるということに他ならない。それに気づいたのは、担任に指名され、そして席を立ち上がってからだった。どうしたものだろう。何せ、目の前の清楚な女の子のことで頭がいっぱいで、何も考えていなかったのである。しかもどうだ、自分の自己紹介を聞くために、四方山さんときたら振り返ってこっちを見ている。正面から見てもやはり可愛らしい。なるほど確かに清楚を絵にかいたような人だった。切れ長の目が、やさしい微笑みを湛えてこちらを見ている。前髪は眉と目のちょうど間くらいで切りそろえられ、横はいわゆる姫カットになっている。少しまるみを帯びた輪郭が印象を和らげ、ふっくらとしたピンク色の唇に今にも吸い込まれてしまいそうであった。その上左目のすぐ下には黒子があって、それがかわいらしさに大人らしさを加えている。

 ――ああ、もうなんか、なんでもいいか。

 明良は、口をついて出た洗練されていない適当な言葉をペラペラと喋った。自分が何を言ったのかなど覚えていないが、唯一確かだったのは、まるで自分がチャラいかのような自己紹介をしたことと、それとは対照的に趣味だけは「読書」などといかにも自分らしいことを言ったことだった。読書、すなわちラノベと漫画を読むことである。一般文芸は、まあたまに読む。


 渡良瀬明良という人間は、いかんせん勘違いされやすい。髪は元々色が明るい上に、高校入学前に美容院に行ったところ、毛先を遊ばされてしまったのだ。家族からの評価は「チャラ男」だとか「ヤリチン」だとか、およそ家族に向けるに相応しくない言葉が大多数を占めた。だが明良は根っからの童貞であるし、彼女の一人すらいたこともない。女で遊ぶなど以ての外だし、そもそも女の子と面と向かって話すだけで若干の緊張を伴う。

 それなのに、今、明良は前の席に座る四方山奏と名乗った少女に詰められている。

「渡良瀬くん、演劇部に、入りませんか」

 顔が、かなり近い。元から距離感が近いほうなのだろうか。

「その、演劇に、興味は、ありませんでしょうか」

 答えを見つけられずに黙ったままでいたところ、四方山は明良が聞いていなかったと思ったのだろう、もう一度繰り返した。決して聞こえなかったわけではない。まず第一に女の子に話しかけられたことに困惑し、そして第二に同じ一年生に部活の勧誘を受けているこの状況に困惑していた。

「えっと、なんで俺?」

「それは、渡良瀬くんからなんとなく同類の匂いがするからです」

「同類って何?」

「それはですね、その、何て言うんでしょうね?」

「君にわからなきゃ誰にもわからないよ」

「それもそうですね。まあ、そこはどうでもいいんです。演劇部、どうですか?」

 だいぶ押しが強い子らしい。別に明良とて、演劇部に入ることにさしたる問題はない。運動をしてきた人生ではないから、そもそも部活動は何に入っていいのかわからないタイプだし、中学でも帰宅部だった。それを考えると、ここで誘いに乗るというのが夢の高校生ライフへの第一歩である可能性は否定できない。しかもこれだけかわいい女の子が自分を誘ってくれている。断ってはいけないのではないか。

「ダメ、でしょうか」

 もう懇願の勢いである。何がそこまで四方山を駆り立てているのかわからない。だが、四方山のその上目遣いには誰もがいいよ、と答えるしかないだろう。だから例に漏れず明良も。

「いいよ」

 そう答えるしかないのだ。


 放課後、四方山に連れられて向かう先は演劇部の活動場所だという、体育館の舞台である。体育館では当然運動部が活動しているから、幕を閉じて、その裏側で演劇をするのだという。

「でも、なんで四方山さん演劇部のことそんなに知ってるんだ? 留年でもしたのか?」

「そんなわけないじゃないですか! え、私ってもしかしてそんなバカに見えるんですか?」

「いやいや可能性の話だって」

 むう、と四方山は膨れる。

「私の従姉がここの演劇部で部長をしてるんです。ところが、去年は新歓に失敗し新入生ゼロ、そういうわけで今年新入部員を捕まえなければ演劇部は廃部を免れざらん、というわけです。そういうわけですので、演劇部がつぶれないように協力しようと、そういうわけです」

 ――それ、俺がいる必要は、別にないのでは?

 その言葉は、明良も高校生になったので飲み込んだ。

「私だけでもいいんですが、従姉がですね、できるかぎりいっぱい連れて来いとそう言うものですから、後ろの席に偶々座っていた渡良瀬くんを引っ張ってきてみた、というわけなんです」

 何が、というわけなのかは、明良にはいまいちわからなかった。

 体育館に辿り着くと、絶賛入学式の片付けの真っ最中だった。

「そりゃそうだよな」

「演劇部は、別に手伝ってないそうですよ」

 四方山はスマホの画面を明良に見せてくる。「ココネ」というLINEの相手からは、演劇部が体育館舞台袖の二階に集まっている旨が送られてきている。その前の履歴には、クラスの男の子を一人連れていく旨が、四方山から送られていた。きっとこのココネというのが従姉なのだろう。

「手伝わないのはちょっと気が引けますが、行きましょう」

 体育館の脇の、一番舞台に近い入口から入って、下手側舞台脇の入口から舞台袖に入る。乱雑な舞台袖には、なんだかよくわからない大道具小道具が押し込まれ、なるほどここが演劇部の活動場所であると物語っている。

「そこの階段から上がるみたいです」

 舞台の上下それぞれの二階部分には、体育館のフロア側に向けた小窓がついた小部屋がある。大体こういうのは片方は放送室になっているもので、放送室で活動するということもないだろうから、上手側が放送室、下手側が控室のような形になっているのだろう。

 あまり迷いない動きで、四方山は薄暗い舞台袖を器用に進み、階段を登り始めた。

 しかし急な階段である。

 ふと見上げれば、明良の視界には揺れる四方山のスカートの裾と、その奥には明良が背後から来る光を遮っているが故に浮かび上がる絶対領域が広がっている。なんと、入学初日からこんなことがあっていいものだろうか。いや、まだ許されるだろう。これでパンツの一つでも見えていたら許されざる行いだったろうが、まだ見えていない。まだ見えていないから、見えていない空間に目を凝らすのは、決して許されない行為ではないはずだ。なにせ明良だって男なのだ。まあ普通に許されないが。

「さて、つきましたよ」

 四方山が階段一番上にある扉に手をかけ、開ける。中は灯りがついているらしく、扉の端からは光が漏れ出し、明良の顔を焼いた。

「なんか、随分と視線が下ですね、まったく。もしかして渡良瀬くんはむっつりさんなんですか? ちゃんと黒パン穿いてるので頑張って目を凝らしても見えるのはただの黒い布ですよ」

「は?」

「パンツ覗こうとしてたんですよね? まったくもう」

 思考がフリーズする。何言ってんだ、こいつ。

 この女はもしかすると清楚とは対極に位置する女なのではないか。その疑念を抱かせたのは、ほかならぬ四方山奏本人であった。いや、確かに、決して中学生男子のような露骨な下ネタをいうタイプではないのかもしれない。だがしかし、本当に清楚な女が、ちょっと下の方を見ていた同級生の男に向かって真正面からパンツ覗こうとしているか、なんて聞くだろうか。答えは否だと思いたい。そう明良の願望が心の奥底で叫んでいる。

「あれ、もしかして違うんですか? 勘違いだったらとっても恥ずかしいんですが」

 勘違いじゃなくても恥ずかしいことに気づいてほしいと、明良の願望がなおも心の奥底で叫んでいる。そろそろ声が枯れてくる頃だろう。

「まあ、渡良瀬くんは男の子ですからね。私だって――時々はそういうこと考えますから」

 ――何言ってんだ、こいつ。

「さ、早く入りましょう」

 ふふ、と上機嫌に四方山奏は鉄扉を大きく開いて演劇部の活動場所に入っていく。

「渡良瀬くん?」

「あ、ごめん、今行く」

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