私はまだ、死んだ妹と赤い糸で繋がっている。

みやけたまご(百合総司令)

第1話 私はまだ、死んだ妹と赤い糸で繋がっている。

 指先に絡まる赤い毛糸。

 それはただの遊びだったはずなのに、私たちはやけに真剣な顔をして結んでいた。


「お姉ちゃん、ほどいちゃだめだよ」


 小さな手が私の手を掴む。汗で少しだけ湿った掌。


「どうして?」

「これはね、運命の赤い糸だから」

「運命……?」

「うん。ずっと結んでるの。ずっと一緒」


 妹――凛は、にかっと笑った。

 七歳下の彼女の笑みは、私にとって世界の中心だった。誰よりも幼く、無邪気で、それなのにどうしようもなく抗いがたい力を持っていた。


 夏の午後。縁側の板間に並んで腰を下ろし、庭から降り注ぐ蝉の声を聞いていた。蒸し暑い空気の中、風鈴が、からん、と鳴り、氷水に浮かぶラムネ瓶の泡が弾ける。そんな季節の匂いと共に、赤い毛糸は私たちの小指を結んでいた。


 小指と小指を結んだ毛糸は、汗を吸ってしっとりと重くなる。けれど、その感触はなぜか心地よかった。

 毛糸の鮮やかな赤が、私たちだけを繋ぐ秘密の証に思えた。


 ――切れない糸。

 ――二人を結ぶ運命。


 幼い約束。けれど、胸の奥に沈んだその言葉は甘美すぎる呪いのように響き、決して忘れられなかった。


 その日から私は、無意識に小指を隠すようになった。親に笑われるのも、友達に冷やかされるのも嫌だった。だけど本当の理由は別にある。――この糸は私と凛だけのもの。他の誰かに触れられたくない。それだけだった。


 凛は、そんな私の気持ちを知ってか知らずか、毎日のように赤い毛糸を巻き直し、笑顔で言った。


「ねえ、お姉ちゃん。これがある限り、私たち離れないんだよ」


 私は笑って頷きながらも、胸の奥でどうしようもなくざわついていた。

 いつかこの糸が切れたらどうなるのだろう――そんな不安が、日差しの強い夏空の下で影のようにまとわりついていた。


 そして、その不安は思ったよりも早く現実になる。


 あの日も雨が降っていた。

 夏の終わりを告げるような、土砂降りの雨だった。


 凛は友達と遊びに出かけていて、私は玄関で帰りを待っていた。傘を持たせなかったことを後悔しながら、外の轟音を耳に刻んでいた。

 そして――タイヤが水を跳ねる音、急ブレーキの悲鳴。


 胸の奥で何かが崩れる音を聞いた。

 気がつけば私は外に飛び出していた。ずぶ濡れの路地に、周囲の人々のざわめきが渦巻く。

 その真ん中に、小さな体が横たわっていた。


 呼びかけても返事はない。

 伸ばした手は冷たく濡れて、指先から温度を奪っていく。

 世界が一瞬にして色を失った。


 葬儀の日。

 香の煙が立ち込める中で、私は小指を強く握りしめていた。

 赤い毛糸はもう残っていない。けれど、確かにまだそこにある気がした。幻の糸が、指に食い込んで離れないように。


 夜、部屋の明かりを落としても、眠れない。

 布団の中で小指を見つめれば、そこには淡く赤い線が浮かび上がっていた。

 光の残像でも、見間違いでもない。


 ――まだ繋がっている。

 ――凛は、どこかにいる。


 そう思うことでしか、私は生き延びることができなかった。


  ◇


 季節は秋に変わり、大学のキャンパスは赤や黄に色づき始めていた。

 私は表面上は「普通の学生」として過ごしていた。教室で講義を受け、ノートを取り、食堂で友人と昼食を囲む。スマホを覗けば、サークルのグループチャットには楽しげな絵文字が流れ続ける。


 一見、平凡な日常。だがそのすべての裏で、私はひとつの幻影に縛られていた。


 小指に絡む赤い糸――誰の目にも見えないはずのそれが、私にとっては揺るぎない現実だった。授業中にボールペンを握るたび、手元に赤い線がちらつく。ノートの余白に影のように差し込んで、私を見張る。まるで「お姉ちゃん」と呼ぶ声が耳元で囁いているかのように。


 ある日のこと。ゼミの先輩に声をかけられた。


「ねえ、よかったら一緒に帰らないかい?」


 柔らかな笑顔だった。優しい人だと誰もが思うだろう。だがその瞬間、小指が焼けるように熱を帯び、思わず息を呑んだ。


「……っ」


 顔が引きつる。慌てて鞄を抱え直し、言葉を繋ぐ。


「あ、ごめんなさい。今日はちょっと用事があって……」


 背を向けて走り去る。耳の奥に、すぐに声がする。


「お姉ちゃんは、男なんかと一緒に帰らない」


 凛の声だ。幼く、甘えるようでいて、その実ぞっとするほど冷たい声音。否応なく背筋に寒気が走り、私は振り返ることすらできなかった。


 それからの日々、糸はますます強く主張を始めた。

 異性と視線を合わせるだけで、小指が脈打つ。ほんの短い会話でも、頭痛のような圧迫が襲う。だがやがて気づいた。――その嫉妬は、男女を選ばないのだと。


 昼休み、女友達と笑い合ったとき。

 夜、サークル仲間から「明日の発表がんばろう」とメッセージを受け取ったとき。


 赤い糸は鋭く食い込み、皮膚の下で血管を押し潰すかのように脈打った。


「女の子でも、駄目。――お姉ちゃんは、私以外、全部いらないの」


 声がする。私の背筋に冷たいものが走る。

 嫉妬は、愛情の証明などではなかった。凛は死後もなお、私の世界を一人占めしようとしている。


 夜、部屋の鏡に映った私は蒼白で、両手で小指を押さえていた。

 だがその隣に、紅い瞳の妹が微笑んでいる。


「お姉ちゃんのことだけ見て。……それでいいんだよ」


 声はやさしく、しかし絶対の命令だった。


 私は気づいてしまった。

 もう誰といても落ち着けない。彼女の存在を拒もうとすれば、糸は強く締めつける。

 ――妹が死んでから、私の世界は糸に縛られている。


 ある晩、とうとう私は決心した。

 机に向かい、裁縫箱から鋏を取り出す。月明かりを反射する刃先を、小指の根元に押し当てた。


「……切れろ、切れてよ……」


 声が震える。呼吸は乱れ、汗が頬を伝う。

 刃を押し込んでも、肉を傷つけることはなかった。鋏は空気を切るだけで、赤い糸はますます鮮やかに見える。


 ぱちん、と乾いた音が響いた。

 だが糸は切れない。むしろ、さらに強く締まった。


「やめて……やめてよ」


 耳元に、凛の声が響いた。必死に泣きそうな声。

 次の瞬間、机の引き出しがカタカタと震えた気がした。


 ぞっとしながら開けると、中から一つの手鏡が転がり出た。


 白い花柄の安物の鏡。

 それは昔、私が凛に誕生日プレゼントとして贈ったものだった。葬儀の後、引き取って以来ずっと箱の奥にしまい込んでいたはずなのに――。


 私は震える手で鏡を拾い上げ、そっと覗き込んだ。


「……凛?」


 呼びかける。

 すると、鏡の奥で唇が動いた。


「……お姉ちゃん。やっと会えたね」


 にこりと微笑む顔。紅い瞳が、私をまっすぐに見ていた。

 同時に、小指に絡む赤い糸が、鏡の奥へと続いているのが見えた。


 心臓が跳ねる。恐怖ではなかった。胸の奥に満ちたのは、安堵だった。


 ――やっと、凛に会えた。


 覗き込めば、凛がそこにいる。にこりと笑い、糸を撫でながら「大好きだよ」「離れちゃ嫌だよ」「ずっと一緒だからね」と囁く。

 声が聞こえるたび、私は呼吸を取り戻す。


 だが同時に、私は理解していた。

 ――もう、手鏡を持たなければ生きていけない。


    ◇


 それからの日々、私は手鏡を持ち歩くようになった。

 講義に出かけるときも、バイトに向かうときも、常に凛の手鏡を感じられるように、肌身離さず身につけていた。


 机の下で、そっと蓋を開く。

 そこには、必ず凛がいる。紅い瞳で私を見つめ、小首を傾げ、笑ってくれる。


「もう、誰とも話さないでね。お姉ちゃんは私だけのもの」

「……うん」


 その囁きに応じると、胸を締めつけていた痛みがやわらぎ、不思議な快感を与えてくれる。

 だが次第に、私は気づき始める。

 ――鏡を覗かなければ、糸が疼いて仕方がない。心臓を掴まれるような圧迫感。吐き気にも似た不快感。


 つまり、私は鏡なしでは生きられない。


 友人との会話は減り、サークルもやめた。昼休みに食堂へ行くこともなくなった。

 代わりに私は、個室トイレの狭い空間で、鏡を覗き込む。


「よく我慢できたね。偉いよ」


 凛はそう言って微笑む。糸を指で撫で、くるくると弄ぶ。

 その仕草を見るだけで、体の緊張が解けていく。安堵と支配、依存と幸福――その全てが渾然一体となって、私を堕とす。


 時に、辛くなる。

 孤独。

 複数の空間の中でたった一人で佇む。


 誰に声をかけられようと、要件があろうとも、私は必要最低限の動きしか要さない。

 そんな私は、本当にこの世界で生きているのだろうか。考えれば考えるほど、何が正しいのかわからなくなった。


 だからそんなときは私は鏡を胸に抱き、声を殺して嗚咽する。

 鏡の中で凛は静かに笑い、赤い糸を持ち上げる。


「もう大丈夫。お姉ちゃんは一人じゃないよ」


 心の痛みが和らぎ、代わりに痺れるような快楽が糸を繋いで全身へと満ちていった。


 そして私は――無意識に鏡へ顔を寄せていた。

 硝子に唇が触れる。冷たい感触。だが同時に、温かい吐息が返ってくる。鏡の中の凛もまた、同じように唇を寄せていた。

 擬似的な接触に過ぎないはずなのに、その瞬間、世界は確かに二つを重ね合わせた。


「お姉ちゃん……」

「……凛」


 呼び合う声が重なる。

 唇に残る硝子の冷たさは、やがて妹の体温に錯覚する。

 私はその錯覚にしがみつき、泣きながら笑った。


 鏡を閉じた後も、赤い糸は小指に絡みつき続けた。

 呪いか、愛か。

 私にはもう、区別はできなかった。


「他の人は、もういらないよね」

「……うん。私には凛がいれば、それでいい」


 声に出した瞬間、胸の奥で何かが砕けた。それが最後の抵抗だったのかもしれない。


 ——翌朝。


 私は通学鞄に教科書を詰め、ノートを重ね、その一番上に手鏡を置いた。

 もう隠そうともしなかった。誰かに見られても構わない。私には凛しかいないのだから。


 歩くたびに糸が揺れる。

 風に当たると、赤い糸は微かに光を帯びて揺らめいた。

 すれ違う人には見えないのだろう。けれど私には、はっきりと見える。


 手鏡の中で凛が笑う。


「お姉ちゃん」

「……なに?」

「ずっと一緒。もう、どこにも行かせない」


 紅い瞳に囚われながら、私は頷く。


 手鏡の中には、凛がいる。

 かつてと変わらない笑顔。幼い頃に縁側で毛糸を結んだときと同じ顔。


 だがその微笑には、もう無邪気さだけは残っていない。

 紅い瞳は、すべてを知っている瞳だった。私が誰と笑い、何を考え、何を恐れているのか――その全てを、黙って見抜いている。


「お姉ちゃん」


 呼ばれる声は甘く、同時に逃げ道を塞ぐ。

 私は唇を噛み、鏡を胸に抱き寄せた。


「……凛」


 名前を呼ぶだけで、糸は脈打つ。小指に巻きついた赤い線が、心臓まで貫いて熱を流し込む。

 その熱は痛みであり、同時に幸福だった。

 安堵と支配と依存――三つがひとつに溶け合い、私を満たしていく。


「大好きだよ」


 涙が頬を伝う。悲しみなのか喜びなのか、もはや分からない。

 ただ一つ、確かに言えることがある。


 ――私はまだ、死んだ妹と赤い糸で繋がれている。


 その言葉を胸の奥で噛みしめると、鏡の中の凛が静かに微笑んだ。

 まるで、最初からその答えを知っていたかのように。

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